第6話「黄色い泡」
朝の五時半。
ダンジョンの入口に着いたとき、空がまだ藍色だった。地平線の端だけが薄く白んでいる。石畳は夜の冷気を抱えていて、吐く息が白く溶けた。
ガルドはいなかった。
俺は少し立ち止まって、入口の横の石壁を見た。いつもガルドがもたれている場所だ。誰もいない。
関係ない。
石段を降りた。
5層に降りた瞬間、匂いが変わった。
4層の黴と湿気の匂いとは違う。腐った草と、鉄を溶かしたような酸の匂いが混じっている。胃の底が一度だけ動いた。深呼吸をしようとして、やめた。この空気を肺に入れすぎるのは良くない気がした。
視界が開けた。
通路ではなかった。
4層までの石の廊下が消えて、代わりに広い空洞が広がっていた。天井は高い。松明の光では届かない。暗い天井の向こうに、石筍のようなものが下がっているのが辛うじて見えた。
足元は岩だ。
沼の中から突き出た、大小さまざまな岩が点在している。一番近い岩まで一歩。その先の岩まで二歩。岩と岩の隙間は、黒ずんだ緑色の液体で満たされている。毒沼だ。表面は静かで、自分が映るほど澄んでいる場所もあった。
静かすぎる。
俺は岩の上に立ったまま、動かなかった。
耳を澄ます。目を細める。《命運読み》を最低限に絞って、余計な数値を視界に入れない。
待つ。
二分。三分。
来た。
沼の奥、三十メートル先の水面が、わずかに盛り上がった。気泡ではない。水面そのものが、呼吸するように膨らんで——
小さい泡が、ぽこぽこと連続して浮いた。
《命運読み》が弾いた。
[沼中魔物 生存率:—— 脅威度:—— 推奨行動:警戒待機——浮上前につき詳細不明]
数値が出ない。ガルドの言った通りだ。浮上する前は《命運読み》が反応しない。
ただ——気泡は見えた。
小さい泡が連続している。昨夜書いた紙に「浮上前兆:小気泡の連続」と書いた。この泡だ。
俺は右の岩に移動した。音を立てないように、体重を前に乗せながら踏み出す。岩の端が少し滑った。踏み直した。
水面から、何かが出てきた。
頭だけが先に出た。扁平な頭部。目がない。皮膚が沼と同じ色をしていて、区別がつかない。顎が横に開く構造で、そこから粘液が垂れていた。
《命運読み》が弾いた。
[沼蜥蜴 生存率:89% 脅威度:C+ 推奨行動:迂回可能]
C+。想定の範囲内だ。
俺はすでに右に三つ岩を移動していた。沼蜥蜴が這い出てくる場所から、距離がある。向こうは鼻で探っているらしく、頭をゆっくりと左右に振っている。まだこちらに気づいていない。
先に進む。
五層の構造は、聞き取りで掴んだ通りだった。
沼が広がる大空洞が三つ続いて、それぞれに沼蜥蜴が複数潜んでいる。空洞と空洞の間は狭い石の通路で繋がっていて、そこだけ4層に似た造りになっている。ボスエリアは最奥の空洞だ。
一つ目の空洞を抜けるのに二十分かかった。
沼蜥蜴が四体いた。全員の気泡パターンを確認してから、被らない経路を選んだ。二体が同時に浮上した瞬間があって、三秒だけ完全に動けなかった。岩の上でしゃがんで、息を止めた。二体が別の方向を向いたのを確認してから、走った。
走りながら思った。
ガルドがいたら、この三秒は生まれなかっただろう。あの男は計算せずに動く。待機という概念がない。ただその分、俺の経路が狂う。
どちらがいいかは、まだわからない。
二つ目の空洞に入った瞬間、沼の色が変わっていた。
黄色だった。
一つ目の空洞は暗い緑色だった。二つ目は黄みがかった緑で、さらに奥に進むにつれて色が濃くなっている。ガルドが言っていた。「沼の色が変わる。黄色っぽくなる」。
気泡の頻度も上がっていた。
一つ目より多い。浮上した後も長く沼の外にいる個体がいる。縄張りを主張しているのか、ただ温度調節をしているのかはわからないが——動きが活発だ。
《命運読み》が次々と弾いた。
[沼蜥蜴×3 生存率:91〜87% 脅威度:C+〜B- 推奨行動:複数同時警戒要]
三体。
しかも一体がB-だ。大きい個体がいる。
俺は岩の上で膝をついて、三体の位置を頭に入れた。左に二体、右に一体。左の二体はそれぞれ別の方向を向いている。右の一体——B-の個体が問題だ。こちらに向かって這っている。
まだ気づかれていない。
でも距離が縮まっている。
岩を二つ右に移動した。右の個体の進路から外れる形で。移動した先の岩が、予想より小さかった。両足が収まらなかった。片足を沼の縁ギリギリに乗せた。
酸の匂いが鼻の奥を刺した。
左足の裏、靴底越しに熱を感じた。
沼に触れたら、靴から溶ける。
俺は重心を右に傾けて、次の岩を見た。四歩先。遠い。跳べる距離ではない。
B-の個体が向きを変えた。
こちらを向いた。
音がした。
背後から、重い何かが岩を踏む音がした。
「よお」
振り返らなかった。振り返る余裕がなかった。
「今は喋るな」
「うん」
ガルドは黙った。
B-の個体が止まった。俺ではなく、ガルドの方を向いた。ガルドは音を立てていた。意図的に。
俺は右の岩へ走った。
四歩。着地した。岩が安定していた。そのまま次へ。次へ。B-の個体の視線がガルドに固定されている間に、三つ岩を渡った。
通路の入口が見えた。
「こっちだ」
「うん」
ガルドが走ってきた。岩の上を跳ぶように移動してくる。重心の移し方がおかしい。普通の人間の走り方ではない。ただ速い。
B-の個体が追ってきた。
ガルドが最後の岩から通路に飛び込んだ。俺はすでに通路の中にいた。B-の個体が通路の手前で止まった。通路は狭い。入れない。
二人で壁に背をつけた。
どちらも息が荒かった。
しばらくして、ガルドが言った。
「遅くなった」
「来るなと言った」
「言ってない」
「6層からと言った」
「今5層だから問題ない」
俺は横を向いた。ガルドは壁に頭をつけて、天井を見ていた。息を整えながら、特に悪びれた顔をしていない。
「いつから入っていた」
「二つ目の空洞の入口から」
「一つ目は」
「外で待ってた。お前が一つ目を抜けるのを見て、入った」
「見えていたのか」
「入口から少し入ったところに、ちょうど見える場所があった」
俺は黙った。
つまりこの男は、俺が一つ目の空洞を渡りきるのを確認してから、二つ目に入ってきた。勝手に入ってきたのに、一つ目では手を出さなかった。
「……なぜ二つ目から入った」
「なんとなく、二つ目からお前が詰まる気がしたから」
「詰まるとわかって見ていたのか」
「詰まる前に入ったじゃん」
それはそうだ。反論できなかった。
「声をかけなかったのはなぜだ」
「声かけたら集中が切れると思って」
俺はまた黙った。
正しい判断だった。あのタイミングで声をかけられていたら、重心がぶれていた可能性がある。この男は「声をかけない」という選択を、計算ではなく直感でやった。
「……役に立った」
声に出してから、少し後悔した。調子に乗る。
「え、本当に?」
「本当だ。ただし——」
「条件がある?」
「ボスエリアは俺の判断に従え。勝手に動くな」
「わかった」
「本当にわかったか」
「わかった」
「なんとなく、ではなく」
「ちゃんとわかった」
ガルドは真顔で言った。
俺はもう一秒だけ見てから、通路の奥に向き直った。
「行くぞ」
「うん。あ、」
「なんだ」
「お前、さっき片足が沼に落ちそうだったけど、靴大丈夫?」
俺は足元を見た。左の靴底の端が、わずかに変色していた。
「……問題ない」
「溶けてない?」
「少し溶けた」
「少し!?」
「歩けるから問題ない」
「いや問題あるでしょ、それ」
「帰ってから考える」
ガルドはしばらく俺の靴を見ていた。それから前を向いた。
「……帰ったら俺が買ってやる」
「俺が払う」
「いや俺が払う。お前の靴を溶かしたのは俺のせいだから」
「お前のせいではない。俺が選んだ岩が小さかった」
「でも俺が来なかったら溶けなかった」
「来なかったら詰まっていた」
「じゃあ引き分けで俺が半分払う」
俺は少し間を置いた。
「……靴一足に半額の概念はない」
「じゃあ俺が全部払う」
「お前が全部払う理由もない」
「じゃあどうするの」
「俺が払う」
「最初に戻った」
ガルドが笑い出した。声を殺して笑っていた。ボスエリアが近いからだ。この男なりに空気を読んでいる。
俺は答えなかった。
靴底が少し熱い。それだけだ。
ボスエリアの空洞は、一つ目・二つ目より広かった。
そして、沼が完全に黄色だった。
松明が三本立っていて、黄色い沼面がその光を反射している。岩の数が少ない。渡れるルートが限られている。
中央の岩の上に、それはいた。
沼蜥蜴より一回り大きい。皮膚の色が黄色に近い。顎の開き方が横ではなく、上下にも動く構造だ。静止していて、目がない顔でこちらを向いている。
《命運読み》が弾いた。
[沼王 生存率:82% 脅威度:B 推奨行動:長期戦回避、速攻か撤退を推奨]
B。
4層の骨顎狼がB+だった。一段下がる。ただし「速攻か撤退」という文言が初めて出た。長くいられない理由がある——おそらく沼の毒だ。空気中に溶け込んでいる。時間をかけるほど、こちらの判断が鈍る。
俺はガルドに小声で言った。
「聞け。倒す必要はない。あの個体を岩から沼に落とせればクリア条件を満たす」
「落とすだけでいいの?」
「ボスエリアでヌシが沼に戻ると、クリア判定になるという記録がある」
「なんで?」
「ヌシが沼に戻ることで、賭博神殿の計算蟲がクリアと見なすルールらしい。聞き取りで二人が言っていた」
「じゃあ戦わなくていい?」
「お前が大きい音を立てて気を引く。俺が後ろから岩に追い込んで縁に誘導する」
「俺が囮か」
「嫌か」
「嫌じゃないけど——」
「なんだ」
「俺が動いたら、お前の計算通りに動くの難しくない?」
俺は少し間を置いた。
この男は一度、俺の「計算が狂う」という言葉を覚えていた。それを今、自分から言ってきた。
「……お前が一定の間隔で音を立て続けろ。不規則に動くな。それだけでいい」
「一定の間隔って、どのくらい?」
「三秒ごとに岩を踏み鳴らせ。場所は変えていい。方向だけ、常にヌシの正面を保て」
「正面を保ちながら三秒ごとに踏む、か」
「できるか」
「できる」
「なんとなく、ではなく」
「ちゃんとできる」
ガルドは真顔で繰り返した。
俺は頷いた。
合図は俺が出した。
ガルドが右の岩に出て、岩を踏み鳴らした。ヌシが頭を向けた。ガルドが三秒ごとに踏む。ヌシが追い始めた。
俺は左から回った。
ヌシの背後。三つの岩を渡って、後ろに回り込む。《命運読み》がヌシの数値を流し続けている。生存率82%。脅威度B。変わらない。こちらにはまだ気づいていない。
ガルドが踏む。ヌシが動く。
三秒。三秒。
正確だった。
俺はヌシの斜め後ろまで来た。ここからヌシを岩の縁まで追い込む必要がある。直接触れると毒皮膚がある。昨夜の記録に書いた。接触は靴越しでも危険だ。
ポーチから取り出したのは、硫黄の粉を詰めた小袋だった。
ヌシの後方の沼面に投げた。
着水して、白い煙が上がった。
ヌシが反応した。前への動きが止まった。後ろを向こうとした——その瞬間、ガルドが踏んだ。予定より一秒早かった。
でも正しかった。
ヌシが迷った。前と後ろ、どちらに向くか。その一秒の迷いの間に、俺は岩を一つ踏んで、ヌシの側面に回った。
硫黄の煙を追って体を傾けたヌシの重心が、岩の縁に乗った。
俺は残った小袋を、ヌシの顔の正面に投げた。
煙が広がった。
ヌシが後ずさった。一歩。半歩。
沼に落ちた。
どぼん、という音がして、黄色い沼面が大きく揺れた。
水晶球の中継をしている賭博神殿で何かが起きているはずだ、と思った。計算蟲が数値を更新している音が、頭の中で聞こえる気がした。
《命運読み》が弾いた。
[5層クリア確認——片瀬司 生存率最終値:68% オッズ確定]
68%。
出発前に想定していた数値が62%だった。ガルドが来た分、計算が狂って下がる可能性があると思っていた。
上がっていた。
俺は沼面を見たまま、その数字を頭の中で何度か反芻した。
ガルドが隣に来た。
「終わった?」
「終わった」
「やった」
ガルドが小さく拳を握った。派手に喜ぶわけではない。ただ確かに、嬉しそうだった。
「一定の間隔、できていたか」
「どうだった?」
「三秒より少し早くなった場面が一度あった」
「あ、あそこか。なんか動かした方がいい気がして」
「結果的に正しかった」
「え、本当に?」
「ヌシが迷った。その隙に回れた」
「じゃあ俺の直感が合ってたってこと?」
「今回は、そうだ」
ガルドはそれを聞いて、また小さく笑った。さっきより少しだけ大きく。
俺は出口に向かいながら、頭の中に書き込んだ。
ガルドの早踏み:結果的に有効。直感の介入が誤差ではなく変数として機能した可能性あり。——要観察継続。
外に出ると、朝が終わっていた。
昼前の光が、石畳を白く焼いていた。入ったのが夜明け前だったから、五時間以上かかった計算になる。
ガルドが空を見上げて、目を細めた。
「腹減った」
「俺も」
「飯行くか」
「行く」
「靴も買いに行かないと」
俺は足元を見た。左の靴底の変色が、さっきより広がっている気がした。
「……行く」
「俺が払う」
「俺が払う」
「半分ずつ」
「靴一足に——」
「半分ずつ」
ガルドが先に歩き出した。俺は一拍遅れてついていった。
左の靴底が、少しだけ地面の熱を通してくる。
問題ない範囲だ。
たぶん。




