第5話「5層の賭け金」
第5話「5層の賭け金」
情報収集に二日かかった。
5層に入った冒険者は思ったより少なかった。ギルドの帰還記録を見ると、直近一ヶ月で単独クリアは三件しかない。パーティ組んでも失敗が多い層だと、受付のアネットが小声で教えてくれた。
「5層って……その、死者が出ることもある層なので」
アネットは言いにくそうに目を伏せた。俺はギルドカードを受け取りながら、その言葉を頭の中に記録した。
死者が出る。
蘇生があるから死んでも戻れる——そういう建前になっている。ただ、記憶と経験値が削られる。何度も死んだ冒険者は少しずつ目が空洞になっていくと、誰かから聞いた。
その日の夕方、ギルドの外のベンチで帰還冒険者を三人捕まえて話を聞いた。銀貨六枚と、一人に飯をおごった。
5層は毒沼地帯だ。
通路ではなく、開けた空間に毒の沼が広がっている。足場は点在する岩だけ。魔物は沼の中から出てくる。つまり《命運読み》が反応するのは、魔物が水面から顔を出した瞬間だけで、それまで位置がわからない。
厄介だ。
だが——裏を返せば。
俺は宿に帰って、紙に岩の配置を書き起こしながら考えた。魔物が沼から出る前に察知できれば、先手が取れる。問題は察知の方法だ。《命運読み》が反応しないなら、別の何かで読む必要がある。
水面の揺れ方。気泡のパターン。沼の温度変化——。
夜中まで紙を埋めた。
翌朝、ダンジョンに向かう途中でガルドに声をかけられた。
市場の角から突然現れて、並んで歩き始めた。起き抜けの顔だった。
「今日、5層か?」
「まだ情報が足りない」
「足りないって、もう二日調べてるじゃん」
「足りないから調べている」
「何が足りないの」
「沼の気泡パターンだ。魔物が浮上する前兆を掴みたい」
ガルドが少し考えた顔をした。
「気泡って、ぼこってなるやつ?」
「そうだ」
「俺、わかるかも」
俺は歩きながら、横を見た。
「わかる、とはどういう意味だ」
「なんとなく、危ない泡と危なくない泡の違いがある気がする。入ったことあるから」
「5層に入ったことがあるのか」
「一回だけ。すぐ出たけど」
「なぜ出た」
「なんか嫌な感じがして」
俺は少し間を置いた。
「……その『嫌な感じ』を詳しく言え」
「え、詳しくって言われても」
「どんな泡のとき嫌な感じがした。大きい泡か。小さい泡か。連続していたか。単発だったか」
ガルドは歩きながら天を仰いだ。少し唸った。
「……小さい泡が、ぽこぽこって連続して出るとき。大きい泡はあんま関係ない気がした」
俺は紙を出してその場で書いた。
「他には」
「他は……沼の色が少し変わる。黄色っぽくなる」
「色が変わる前と後、どちらで泡が出た」
「変わった後」
書いた。
「それだけか」
「……あと音。なんか低い音がする。人には聞こえないくらい低い音」
「振動か」
「そういうのかも」
俺はペンを止めた。
小さい気泡の連続。沼の変色。振動——三つの前兆が出た。それもガルドの「なんとなく」から。
「……役に立った」
「え、本当に?」
「本当だ」
「じゃあ飯おごって」
「昨日俺がおごった」
「今日はそっちの番ってこと?」
「違う。お前が情報提供者だから、お前がおごる番だ」
「なにその計算」
「正確な計算だ」
ガルドはしばらく不満そうな顔をしていた。それから諦めたように「わかった」と言った。
ギルドに着くと、入口の前が少し騒がしかった。
人だかりができていた。中心にいるのは、大柄な男だった。
見覚えがある。
2話でギルドの列から俺を笑っていた連中の一人だ。名前は知らない。ただ、あのときの声は覚えている。「命運鑑定士? 次は死ぬな」と言った声。
今日の装備が派手だった。銀細工の入った胸当て、磨かれた剣。周りの冒険者に向かって何かを喋っている。
「今日、5層のボスに挑む。Bランク冒険者のオレが本気出せば、単独でもいける」
周囲から歓声とも笑いともつかない声が上がった。
《命運読み》が弾いた。
[冒険者・ドラン 生存率:34% 脅威度:B- 推奨行動:即時退避]
34%。
俺は数字を見て、足が止まった。
34%というのは、3人に1人が死ぬ数字だ。ダンジョン内での死は蘇生される。ただ、蘇生のたびに削られていくものがある。記憶。経験。少しずつ、人間が薄くなっていく。
ドランは笑っていた。自信満々の顔だった。
生存率34%だと知らずに。
俺はその顔を見ながら、胃の下の方が静かに固くなるのを感じた。怒りというより、不快感に近い。いや——怒りだ。ただ形が違う。誰かに向ける怒りではなく、この仕組み全体に向かう怒りだ。
知らせれば止められる。
でも。
「行くな」
口から出ていた。
ドランが振り返った。周囲が静かになった。
「……なんだ、お前」
「生存率が低い。今日は行くな」
ドランが俺の顔を見て、次に胸のギルドバッジを見た。命運鑑定士のバッジ。表情が変わった。
「はあ? ハズレ職のお前に何がわかる」
「《命運読み》で見た。今日のお前の生存率は34%だ」
静寂。
それから——笑いが起きた。
「34%? 半分以上生きてるじゃないか」
「3回に1回は死ぬ数字だ」
「でも今日は死なない方の66%だろ、オレは」
ドランは笑いながら言った。周囲も笑った。
俺は何も言えなかった。
言えなかった、というより——言葉が出なかった。この男は数字の意味がわかっていない。34%を「66%の方」だと思っている。確率を、自分に都合のいい話として読んでいる。
ガルドが俺の袖を引いた。小声で言った。
「止めたんだから、いいんじゃないか」
「止まっていない」
「……そうだけど」
「34%は34%だ。本人がどう思おうと、数字は変わらない」
ドランはすでに俺から背を向けて、仲間と笑いながらギルドに入っていった。
俺は数字を頭の中で反復した。
34%。
賭博神殿は今頃、このドランに賭ける客を集めている。Bランク冒険者の単独5層挑戦。オッズはそこそこ高いはずだ。神殿は胴元として、どちらに転んでも収益を得る。
ドランが死んでも、神殿は笑う。
ドランが生き残っても、神殿は笑う。
数字を持っているのは神殿だけで、挑戦者は自分の生存率すら知らずに賭けに乗っている。
俺はギルドの壁に背をつけて、空を見上げた。
朝の光が白く、眩しかった。
「なあ」
ガルドが隣に立った。
「お前、怒ってる?」
「……分析中だ」
「さっきも同じこと言ってたけど、今回は顔が違う」
俺はガルドを見た。
「どう違う」
「さっきの分析中は冷静な顔だった。今は、口が少し固い」
俺は意識して顔の力を抜こうとした。抜けなかった。
「……この仕組みが嫌いだ」
声に出したのは初めてだった。
「どの仕組み」
「自分の数字を知らないまま賭けに乗せられる仕組みだ。神殿は知っている。挑戦者は知らない。その差の上に、神殿の収益が乗っている」
ガルドはしばらく黙った。
珍しかった。この男が黙るのは珍しい。
「……だから番狂わせを起こすのか」
俺は答えなかった。
答えなかったが——否定もしなかった。
ガルドはそれ以上聞かなかった。
二人で並んで、ギルドの前に立っていた。市場の方から、荷馬車の車輪が石畳を叩く音が聞こえてくる。
しばらくして、ガルドが言った。
「そのドランって人、帰ってきたら何か言う気?」
「何も言わない」
「言わないの?」
「言っても意味がない。ただ——」
俺は紙を出した。5層の気泡パターン、沼の変色、振動。ガルドが教えてくれた情報が並んでいる。
「次は俺が5層に入る。俺のオッズで、俺に賭けた人間が配当を得る。それだけだ」
「それが答えなの?」
「今のところは」
ガルドはその紙を見て、少し考えてから言った。
「……一緒に入っていい? 5層」
「ダメだ」
「なんで」
「お前が入ると俺のオッズが動く。計算が狂う」
「じゃあ、6層は?」
「まだ4層クリアしたばかりだ」
「でもいつかは」
「……考える」
ガルドは「考える、か」と繰り返して、また空を仰いだ。
夕方、賭博神殿の水晶球の前で、ドランが5層から担ぎ出されたというのを酒場で聞いた。死んではいない。ただ、三度蘇生されたらしい。
三度。
俺はジョッキを置いて、宿に帰った。
部屋で紙を広げて、5層の攻略ルートの続きを書いた。気泡の前兆から逃げるルート、沼を避ける岩の配置、振動を感知するための足の使い方。
全部埋めるまで、夜が明けた。
翌朝。
ギルドに向かう途中、ドランとすれ違った。
目が合った。
ドランは何も言わなかった。俺も言わなかった。
ただ、ドランの目が昨日と少し違った。何かが薄くなった目だ。記憶か。経験か。どちらが削られたのかはわからない。
《命運読み》が弾いた。
[冒険者・ドラン 生存率:34% 脅威度:B- ——]
数字は変わっていなかった。
俺は前を向いて、歩き続けた。
5層の情報は、もう揃っている。




