第4話「三日後の4層」
三日経った。
装備を揃えるのに二日かかった。残りの一日は、4層に入った冒険者の帰還を待って、話を聞いて回った。骨顎狼の出現パターン、通路の分岐、水が溜まっている場所。銀貨4枚と、飯を一食おごる約束で、三人から話を引き出した。
情報料としては安い。
朝の五時。ダンジョンの入口に着いたとき、ガルドはすでにいた。
石壁にもたれて、目を閉じている。立ったまま寝ている。
「……来たのか」
「約束したじゃん」
目を開けずに言った。
「約束はしていない」
「お前が『好きにしろ』って言った」
「それは黙認であって——」
「来ていい、ってことだろ」
目が開いた。欠伸を一つして、俺の装備を見た。腰のポーチが三日前より重い。ベルトに短剣が増えている。それだけ見て、ガルドは小さく頷いた。
「準備してきたんだ」
「当たり前だ」
「三日でそんなに変わるの」
「変わる。情報が全部だ」
「情報って、どうやって集めたの」
「冒険者から直接聞いた。4層に入った奴を三人捕まえて」
「お金払ったの?」
「銀貨4枚と飯一食」
ガルドは少し考えた顔をした。
「……それって、お前が直接聞きに行ったの。ひとりで」
「そうだ」
「へえ」
「なんだ」
「いや、なんか意外で。お前って、人と話すの得意そうじゃないから」
俺は返事をしなかった。得意かどうかは関係ない。必要だからやった。それだけだ。
「入口で待て。三日前と同じ条件だ」
「わかった。でも一個だけ」
「なんだ」
ガルドは石壁から背を離して、俺の顔を真っ直ぐ見た。
「今日は行ける?」
それだけを聞いた。余計なことは何もつけなかった。
俺は少し間を置いた。
「行ける」
「そっか」
ガルドは頷いて、また石壁にもたれた。目を閉じる。
俺は石段を降りた。
4層の冷気は、三日前と変わらなかった。
湿った空気が首筋に触れる。天井から水滴が落ちる音。松明の火が理由もなく揺れる。慣れるものではない。ただ、今日は身体が強張らなかった。知っているからだ。
俺は入口の正面ではなく、右の通路に折れた。
三日前は左から入って骨顎狼に当たった。聞き取り調査で判明したことがある——骨顎狼は一定のルートを巡回している。朝の五時から六時にかけては、左翼の通路にいる確率が高い。右翼から回れば、最初の三分は遭遇リスクが下がる。
そこで《命運読み》を流す。
通路の奥。小型の魔物が二体。脅威度D。
《命運読み》が弾いた。
[湿地蜘蛛×2 生存率:99% 脅威度:D 推奨行動:牽制後通過可]
問題ない。
短剣を一本抜いて、壁際に投げた。音を立てて跳ねた短剣に向かって二体が動く。その間に、俺は逆側の壁に張り付いて通路を抜けた。足音を殺したまま、三歩、四歩。
背後で蜘蛛が短剣に食いついている音がした。
次の分岐。右に曲がる。通路の幅が少し広くなる場所だ。ここに水場がある。骨顎狼は水を飲む習性があると聞いた。今の時間帯に水場にいる可能性は——
《命運読み》が弾いた。
[骨顎狼 生存率:94% 脅威度:B+ 推奨行動:即時退避]
いた。
水場の手前、通路が折れる手前に影がある。こちらにはまだ気づいていない。
三日前と同じ数値だ。脅威度B+。生存率94%。
違うのは——今日は退避先がある。
俺は音を立てずに二歩下がって、右の壁に開いた窪みに身を押し込んだ。人ひとりが立てる程度の凹み。三人目の冒険者に教えてもらった場所だ。「4層は壁の窪みを覚えとけ、命綱になる」と言っていた。
骨顎狼が動いた。
巡回のルートで、こちらの通路を横切っていく。俺のいる窪みの前を通過した。骨格の軋む音が、すぐ目の前を過ぎていった。
息を止めた。
10秒。20秒。
音が遠くなった。
俺は窪みから出て、水場を右に折れた。
4層のボスエリアは、通路が開けた小部屋になっている。
天井が高くなって、水滴の音が響き方を変える。松明が一本立ててあって、石の柱が二本、中央に向かって斜めに倒れている。おそらく昔は建物だった場所だ。
部屋の奥に、骨顎狼がいた。
さっきの個体ではない。もう一体いる。聞き取りで知っていた。4層の主は番で動いている。一体が巡回している間、もう一体は中央で待機する。
《命運読み》が弾いた。
[骨顎狼(待機個体) 生存率:93% 脅威度:B+ 推奨行動:即時退避——ただし単体確認済、回避可能性あり]
回避可能性あり。
初めて出た文言だった。三日前は出なかった。情報の差だと思った。俺が4層を知ったことで、《命運読み》の精度が上がった。
俺は腰のポーチから小袋を二つ出した。中身は砕いた岩塩と硫黄を混ぜたもの。冒険者が使う撒き物だ。骨格だけの魔物は嗅覚が敏感になる、という話を聞いていた。
一つ目を右の柱の奥に投げた。
音がした。骨顎狼が頭を向ける。
俺は左に動いた。部屋の端、出口に近い側の壁まで。もう一つの小袋を、骨顎狼から一番遠い場所の床に転がした。
骨顎狼は一体だ。どちらの音に向かうか。
向かったのは最初の小袋の方だった。
俺は走った。
出口は部屋の右奥だ。骨顎狼が右の柱の向こうにいる間が、通過できる唯一の窓だ。足音を殺す余裕はない。ただ速く。
8秒で出口に手が届いた。
石の扉を抜けた瞬間、背後で骨顎狼が吠えた。
遅い。
扉の向こう側で、俺は壁に背をつけて息をついた。手が少し震えていた。怖かったからではない。たぶん、アドレナリンというものだと思う。数字で説明できる現象だ。
《命運読み》が視界の端に残像のように数値を出した。
4層クリア。
外に出ると、ガルドが立っていた。
もたれていた石壁から背を離して、こちらを見ている。
「終わった?」
「ああ」
「どうだった」
俺は少し考えた。どうだった、という問いにどう答えるのが正確か。
「計算通りだった」
「怖かった?」
「アドレナリンが出た」
「それ怖かったってこと」
「生理反応だ」
「同じじゃん」
ガルドはそう言って、少し笑った。三日前と同じ笑い方だ。呆れているのか、面白がっているのか、俺にはいまだにわからない。
並んで石段を下りた。朝の光が強くなっていた。出るのに一時間かかっていたらしい。街が動き始めている。荷馬車の音、市場の呼び込みの声、鍛冶の音がどこかから届いてくる。
「次は5層か」
「その前に情報を集める」
「また冒険者に聞き込みするの?」
「そうだ」
「俺も聞き込み手伝えるかな」
俺は少し間を置いた。
「お前のやり方で聞き込みができるか」
「できると思う。なんとなく」
「……なんとなく、で人に話を聞けるのか」
「俺、わりと誰とでも喋れるから」
それはそうかもしれない、と思った。この男は初対面の俺に断りもなく向かいに座って、普通に会話を始めた。人見知りという概念がない。
「手伝うなら条件がある」
「なんでも」
「聞き込んだ内容を全部正確に俺に報告すること。お前の解釈は要らない。聞いた言葉をそのまま」
「それだけ?」
「それだけだ」
ガルドはしばらく黙った。少し意外そうな顔だった。
「……厳しくないな、条件」
「お前の話を聞く価値があるかどうか、まだわからない。だから試す」
「試すって言い方、正直だな」
「正確なだけだ」
「同じじゃん」
また同じ言葉を返してきた。俺は溜め息をついた。ガルドは笑った。
市場の方から、焼いたパンの匂いが流れてきた。昨日から何も食べていないことを思い出した。胃が鳴った。
ガルドが俺の腹の方を見た。
「飯食った?」
「これから」
「俺も。一緒に行く?」
「……お前が払うなら」
「え、俺が?」
「お前は三日前から俺の時間を使っている。その分だ」
「うわ、きっちりしてる」
「嫌なら断れ」
「行く行く。俺が払う」
ガルドはそう言って、先に歩き出した。方向が違う。
「市場は逆だ」
「こっちの方が安くて美味い店があるから」
「どこの店だ」
「なんとなく知ってる」
俺は一秒止まった。
「なんとなくで飯屋を知っているのか」
「何度か迷い込んだことがある」
「……迷い込んで、店を知った」
「そう。美味かったから覚えてた」
俺はもう何も言わなかった。
ついていくことにした。
その日の夕方。
賭博神殿の管理室で、リーセ・ヴァルトは報告書を書いていた。
4層クリア。片瀬司。所要時間63分。
ペンを置いて、数字を見た。
4層の平均クリアタイムは47分だ。三日前に骨顎狼に追い詰められた同一人物が、16分遅れではあるが単独クリアした。
問題は所要時間ではない。
問題は、聞き取りをした冒険者の証言だ。今朝の段階で、片瀬司が三人の帰還冒険者に銀貨を払って情報収集をしていたことが確認されている。
自分の計算で動く人間だ、と最初から思っていた。
だが情報収集まで含めた準備をしてから動く、というのは——計算というより、戦略だ。
リーセはペンを取り直して、報告書の余白に小さく書いた。
「片瀬司:単なる《命運読み》依存ではない。情報収集能力を持つ。今後の攻略パターンに変数として組み込む」
書いてから、ペンを止めた。
5層の攻略が始まれば、また観察する機会がある。
それだけのことだ。
水晶球が静かに光を放っていた。




