第3話「4層の匂い」
ダンジョンの入口は、街の東端にある。
朝の五時。石畳はまだ夜の冷気を抱えていて、足裏に伝わる硬さがいつもより鋭く感じた。松明の火が風に揺れるたび、壁の影が伸びたり縮んだりする。焦げた油の匂いと、その奥に混じる土と黴の匂い——ダンジョンの匂いだ。
吸い込むたびに、胃の底がきゅっと縮む。
「よお」
声がして振り返ると、ガルドが欠伸をしながら歩いてきた。目が半分しか開いていない。寝ぐせが盛大に跳ねていて、革鎧の留め具が一つ外れたままだ。
「なんでいる」
「見に来た。ちゃんと起きれたな、お前」
「当たり前だ」
「いや、なんか心配で。お前って絶対前の日眠れないタイプだろ」
「眠れた」
「本当に?」
「本当だ」
「顔がちょっとやつれてない?」
俺は返事をするのをやめた。やつれてはいない。ただ、四時間しか眠れなかったのは事実だ。それを言う気はない。
ガルドは俺の顔をじっと見て、それから「あ、やっぱり」という顔をした。声には出さなかったが、顔に全部書いてあった。
「入口で待て。部外者は入れない」
「わかってる。外で待つよ。でもさ、一個だけ聞いていい?」
「なんだ」
「4層って、3層と何が違うの」
俺は少し考えた。教える義理はない。ただ、この男が純粋に知りたがっているのは顔を見ればわかった。損得で動いていない顔だ。
「湿度が高い。視界が狭い。通路の幅が半分になる」
「へえ。それって戦いにくい?」
「俺には関係ない。接近戦をしないから」
「じゃあ何で戦うの」
「頭で戦う」
「頭で?」
「相手の生存率と脅威度を読んで、戦わずに済む道を選ぶ。それが俺のやり方だ」
ガルドはそれを聞いて、しばらく黙った。黙りながら、俺の顔をじっと見ている。
「……それ、楽しいの?」
予想外の問いだった。
「楽しいかどうかの話じゃない」
「でも楽しくなきゃやってらんなくない? ダンジョンって死ぬかもしれないのに」
「楽しいより、勝てるかどうかの方が重要だ」
「いや俺は楽しくないと勝てないけどな」
「そういう人間もいる」
「お前は楽しくなくても勝てるの?」
俺は答えに詰まった。
楽しいという感覚がないわけではない。数字が噛み合ったとき、計算通りに番狂わせが起きたとき、たしかに何かがある。それを楽しいと呼ぶのかどうか、考えたことがなかった。
「……行く」
「あ、逃げた」
「逃げていない」
「今の間は逃げだよ。答えたくなかったんだろ」
「分析中だっただけだ」
「おんなじじゃん」
俺は向き直って石段を降り始めた。背中でガルドが「頑張れよ」と言った。振り返らなかった。
4層に降りた瞬間、湿った冷気が首筋に触れた。
壁が濡れている。天井から水滴が落ちて、足元の石畳に染みを作っている。松明の火が風もないのに揺れた。通路の幅が狭い。両手を広げたら壁に届く。天井も低い。
嫌な層だ、と思った。
数字じゃなくて、皮膚がそう言っている。
俺は歩きながら《命運読み》を流し続けた。角を曲がるたびに数値が弾かれる。小型の魔物、天井に張り付いた何か、床の亀裂の向こうで動くもの——全部数値になって視界の端に並ぶ。
問題は、ひとつだけ数値が突出して高い、ということだ。
《命運読み》が弾いた。
[未確認 生存率:—— 脅威度:B+ 推奨行動:即時退避]
B+。
3層の最大値はCだった。
俺は壁際に背をつけて、息を殺した。暗い。松明の光が届かない通路の奥に、何かがいる。じっと待つ。30秒。1分。
ゆっくりと、影が形になった。
でかい。4本足で、肩の高さが俺の胸まである。皮膚がなく骨格が剥き出しの狼型の魔物。顎が二重になっていて、外側が内側を包むようにゆっくりと開く。
骨顎狼。
4層の主として文献に記録されている個体だ。
逃げた。
考えるより先に足が動いていた。
来た道を引き返す。通路の構造を頭の中で再生しながら角を曲がる、また曲がる。背後で骨格の軋む音がする。4本の骨足が石畳を叩く音が反響して、倍に聞こえる。
次の角を曲がった瞬間、壁だった。
行き止まり。
振り返ると、暗がりから骨顎狼が角を曲がってくるのが見えた。外側の顎がゆっくりと開く。
《命運読み》が弾いた。
[骨顎狼 生存率:96% 脅威度:B+ 推奨行動:即時退避——]
退避先がない。
壁に背をつけた。右手に短剣。意味があるかわからない。それでも手は下ろせなかった。
骨顎狼が跳んだ。
ぐしゃ、という音がした。
骨格が折れる音だ。俺の骨ではなかった。
骨顎狼が横に吹き飛んで、壁に叩きつけられていた。通路の入口に、ガルドが立っていた。右手の甲に血が滲んでいる。息は乱れていない。
「よお」
「……入るなと言った」
「お前の顔が変わったから」
「外から見えるわけがない」
「入口で振り返ったとき、眉間の皺が違った」
骨顎狼が立ち上がろうとした。ガルドが一歩踏み込んで顎の付け根に膝を叩き込んだ。くぐもった音がして、また倒れた。それでも動く。
「しぶとい。これが4層の主?」
「そうだ」
「なるほどね。でも倒せる」
「今の装備で倒せる相手じゃない」
「俺は倒せる気がする」
「根拠は」
「なんとなく」
ガルドはそう言って、また踏み込んだ。
三分もかからなかった。骨顎狼は通路の端で動かなくなった。ガルドは肩で息をして、血の滲んだ右手をぶらぶらさせながら振り返った。
「終わった」
「……ああ」
俺はポーチから包帯を出した。
「貸せ」
「いいよ別に、これくらい」
「感染する。貸せ」
「お前って意外と世話焼きだな」
「違う。お前が死んだら次の賭けに影響が出る」
「え、それだけ?」
「それだけだ」
「冷たいな」
「包帯を巻いている間は喋るな。ずれる」
「はいはい」
ガルドは黙った。三秒だけ。
「なあ」
「ずれる」
「ちょっと聞いていい?」
「後にしろ」
「今日って失敗?」
手が止まりそうになった。止めなかった。
「退避だ」
「でも4層クリアできなかったじゃん」
「想定外の個体がいた。装備を見直して出直す。それだけだ」
「悔しくないの?」
「悔しいかどうかは関係ない」
「でも顔に出てるよ」
「出ていない」
「出てる。さっきから眉間がずっとこうなってる」
ガルドが自分の眉間に指を当てて、険しい顔を作ってみせた。似ていた。腹が立った。
「……余計なことを言うな」
「本当のことじゃん」
「本当でも言わなくていいことがある」
「え、そうなの? 俺そういうの苦手で」
「知っている」
「知ってんの?」
「二日話せばわかる」
ガルドはそれを聞いて、なぜかちょっと嬉しそうな顔をした。俺が自分のことを観察していたのが嬉しかったらしい。そういう顔をする人間だとは思っていなかった。
包帯を結んで、手を離した。
「三日後に出直す」
「また来ていい?」
「入口で待つだけなら」
「一緒に入ろうよ。今日みたいなのがいるなら俺がいた方がよくない?」
「お前がいると計算が狂う」
「計算が狂うって、邪魔ってこと?」
「邪魔というより——お前の動きが読めない。《命運読み》がエラーを返す」
ガルドが少し目を細めた。
「エラー?」
「お前の直感値が数値にならない。計算蟲も弾けていないはずだ」
「……それって、すごいの?」
「わからない。見たことがないから」
「俺、変なの?」
「変かどうかじゃなくて、未知だ」
ガルドはしばらくその言葉を噛んでいた。噛みながら、右手の包帯をじっと見ていた。
「なあ」
「なんだ」
「お前、俺のこと怖い? エラーが出るから」
俺は少し考えた。
「怖いというより、気になる」
「気になる」
「ああ」
「それって——」
「分析したいという意味だ。勘違いするな」
「してないしてない」
ガルドはまた肩を揺らして笑った。さっきより大きく。石造りの通路に、その笑い声が反響した。
外に出ると、朝の光が眩しかった。
並んで石段を上りながら、ガルドがぽつりと言った。
「俺の直感、昔一回外れたことある」
俺は足を止めなかった。ただ、耳だけを向けた。
「友達が死ぬとき。助けに行けると思ったのに、間に合わなかった」
「……そうか」
「そのときだけ、なんとなくが外れた。今でも理由わかんない」
石段を上る足音だけが続いた。
俺は何を言えばいいかわからなかった。計算できない話だ。確率でも期待値でも整理できない話が、世の中にはある。
「お前だったらどう考える?」
ガルドが聞いてきた。責めているわけではない。本当に知りたがっている顔だ。
「……直感は確率だ。100%はない」
「それだけ?」
「それだけだ。お前が悪かったわけじゃない」
「冷たい答えだな」
「そうかもしれない」
「でもなんか——」
ガルドが空を見上げた。
「楽になった。ちょっとだけ」
俺は返事をしなかった。
するべき言葉が見つからなかったし、しなくてもいい気がした。
外の空気は、ダンジョンの黴の匂いとは違って、朝の草の匂いがした。夜明け前に入ったダンジョンから出ると、いつも世界が少し違う場所になっている気がする。
「三日後、また来る」
「入口で待て」
「考えとく」
「待て、と言っている」
「考えとく」
ガルドは欠伸を一つして、手を振りながら歩いていった。
俺は背中を見送りながら、頭の中に書き込んだ。
直感値エラー。未知。友人の死。——要観察。
それから、もう一行。
三日後の装備リスト。骨顎狼、対策可能なはずだ。
朝の光の中を、一人で歩いた。




