18話「生還記録ゼロ」
朝、データを閉じた。
燭台はとっくに消えていた。
外が明るくなっているのに気づかないまま、十七件の記録を何度も読み返していた。
十七件全滅。
共通点を探した。
崩落の順番に規則性があるか——なかった。
魔物が関与しているか——十七件中、十一件は魔物の記録がない。崩落だけで死んでいる。
時間帯に差があるか——記録が途切れているため不明。
わからない、ということだけがわかった。
顔を洗って、外に出た。
朝の空気が冷たかった。
石畳が昨夜の雨で濡れていて、靴底が滑った。一歩目で気づいて、歩き方を変えた。
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ギルドに寄ってからリーセに会いに行くつもりだったが、広場を横切ったところで先に見つけた。
噴水の前だった。
昨日と同じ場所に、同じ立ち方で立っていた。
ただ今日は、フードを下ろしていた。
朝の光が横から当たっていた。
目の色が薄いのは知っていたが、今日はその薄さがよくわかった。
「待っていたのか」
「……通り道です」
「毎回通り道だな」
リーセは少し間を置いた。
「掲示板で確認しました。昨日、8層はクリアしていない」
「ああ」
「連続崩落に遭いましたか」
俺は足を止めた。
「知っていたのか」
「……はい」
短かった。
でもその一言に、何かが詰まっていた。
「データに生還記録がない、ということも」
「知っていました」
俺はリーセを見た。
《命運読み》を流した。
[リーセ・ヴァルト 生存率:99% 脅威度:E 観察:強 賭け:強 ——微細な揺れ]
数値の端に、今まで見たことのない滲みが出ていた。
嘘をついているときのブレとは違う。
もっと細かい、内側から漏れてくるような揺れ。
「なぜ言わなかった」
リーセはしばらく噴水を見ていた。
「言えば、行くのをやめると思ったから」
「やめない」
「……わかっています。だから」
言いかけて、止めた。
「だから?」
「——言えませんでした」
矛盾している。
でも俺は、その矛盾を詰めなかった。
詰める必要がない、と思った。
なぜそう思ったのかは、わからなかった。
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近くのベンチに座った。
昨日と同じベンチだった。
噴水の音が、今日も低く続いている。
「連続崩落のパターンを知っているか」
「記録はありません。ただ——」
リーセが外套の内側から、折り畳んだ紙を出した。
「私が8層に入ったとき、連続崩落に遭いました。生き残っています」
俺は少し驚いた。
「お前が生還記録の一件か」
「記録していません。上層部に知られたくなかった。非公式で入っていたので」
「何のために入った」
「……片瀬さんが入ることになると思ったから。事前に確認しておきたかった」
俺のために、非公式で8層に入った。
それをデータに残さなかった。
昨日は言わなかった。
今日、言った。
なぜ今日言ったのか、聞こうとして——やめた。
「連続崩落から、どう生き残った」
リーセは紙を広げた。
几帳面な字で、図が描いてあった。
「崩落は三方向から来ました。でも——同時ではなかった」
「同時に見えた」
「見えます。でも最初の一枚が崩れてから、次の一枚が崩れるまでに、0.2秒の差があります」
0.2秒。
「それを使った」
「一枚目が崩れる音を聞いて、その方向に一歩踏み込みました。崩れた直後は、同じ場所は連続して崩れない。一枚崩れた直後の場所が、一瞬だけ安全になる」
俺は図を見た。
崩落の順番が、矢印で書いてあった。
左→右→正面。その三つが、0.2秒ずつずれている。
「崩れた場所に、あえて踏み込む」
「はい。逃げるのではなく、一歩だけ先に崩れた方向へ」
逆だ。
俺が昨日やったことの逆だった。
昨日は後ろに跳んで生き残った。
それは偶然ではなく——後ろだけが、最後に崩れる方向だったからだ。
つまり、連続崩落には順番がある。
「順番は毎回同じか」
「わかりません。私が経験したのは一回です。ただ——床の継ぎ目の音を聞けば、次に鳴く場所が少し前に察知できます。崩れる直前、継ぎ目が二回鳴く。一回目で場所を把握して、二回目で踏み込む」
俺は頭の中で組み立てた。
継ぎ目の音を聞く。
一回目で場所を確認。
二回目で一歩踏み込む。
崩れた瞬間、すでにそこにいる。
生存率を計算しようとして——できなかった。
自分のことは読めない。
でも、手はある。
「ガルドの直感が使えるかもしれない」
リーセが顔を上げた。
「崩落に反応したことがあるか」
「7層で——崩落ではなく、片瀬さんの危機に反応していました。それは」
「十分だ」
俺がピンチになれば、ガルドの直感が反応する。
ガルドの直感は俺より速い。
つまり——ガルドが反応した方向に、俺が踏み込む。
計算蟲より速い直感と、継ぎ目の音と、リーセの図。
三つを組み合わせれば、突破口になる。
「見えた」
独り言になった。
リーセが俺の顔を見ていた。
「……そういう顔をするんですね」
「何の顔だ」
「計算が合った顔です。初めて見ました」
俺は少し考えた。
「いつも計算しているが」
「いつもは、計算している顔です。今のは——合った顔でした」
違いがわかるのか、と思った。
でも言わなかった。
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立ち上がったとき、ガルドが広場の入口から歩いてきた。
俺たちを見て、少し笑った。
「やっぱりここにいた」
「探したのか」
「ギルドにいないから、もしかしてと思って」
ガルドはリーセを見た。リーセはガルドを見た。
「昨日の話、聞いた?」
「連続崩落の突破口を教えてもらった」
「へえ」
ガルドはリーセを見たまま、言った。
「ありがとな。昨日、あいつ帰ってきてからずっとデータ読んでたよ。たぶん朝まで」
「余計なことを言うな」
「事実だろ」
リーセが俺を見た。
「……そうだったんですか」
「データを確認する必要があった」
「朝まで」
「必要があった」
リーセは少しの間、俺を見ていた。
それから、視線を噴水に戻した。
「……無理しないでください」
小さい声だった。
命令でも懇願でもない。
ただ、そこに置かれた言葉だった。
ガルドが俺の脇腹を肘で突いた。
小さく、一回だけ。
無視した。
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昼にギルドに寄ったとき、ドランがいた。
今日は掲示板の前ではなく、窓際の席に座っていた。
依頼票を読んでいた。
俺が入ってきたのに気づいて、顔を上げた。
「8層、どうだった」
「退避した」
「そうか」
それだけだった。
いつもなら、そこで終わる。
でもドランは依頼票を置いて、続けた。
「連続崩落か」
「知っているのか」
「蘇生から戻ってきた奴に聞いた。8層の話を集めていた」
俺は少し考えた。
「何のために」
ドランは少し間を置いた。
「……わからん」
三度目のわからんだ。
でも今回は、わからんの中に何かが入っていた。
《命運読み》を流した。
[ドラン 生存率:98% 脅威度:D 感情値:――(決まりかけている)]
「決めた後の何か」が、「決まりかけている」に変わっていた。
何かが、進んでいる。
「8層の情報が集まったら教えてやってもいいぞ」
ドランが言った。
俺は少し驚いた。
驚いたが、顔には出さなかった。
「なぜ」
「お前が先に行くなら、お前が生き残った方が俺には都合がいい」
「どういう都合だ」
「……まだわからん」
四度目だった。
でも今日の「わからん」は、一番重かった。
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夕方、宿に戻った。
窓から入る光が橙になっていた。
机の上にリーセの図を広げた。
崩れた場所に踏み込む。
0.2秒のズレを使う。
ガルドの直感を信じる。
三つを組み合わせる。
自分の生存率は読めない。
でも手はある。手があれば、動ける。
燭台に火を点けた。
今夜も揺れなかった。
——声は嘘をつく。
数字は嘘をつかない。
でも今日、数字じゃないものが三つ、俺を助けた。
リーセの図。
ガルドの直感。
ドランの「情報を集めていた」。
全部、計算の外から来た。
それでも計算に組み込める。
計算の外にあるものでも、俺の計算の中に入れれば——数字になる。
そういうことかもしれない。
データを閉じた。
明日、8層に入る。
窓の外で、水晶球の光が夜空に溶けていた。
今夜は、揺れているかどうか確認しなかった。
確認しなくていい、と思った。
それが何を意味するのかは、まだわからなかった。




