第17話「床が鳴く」
8層の入口は、7層より五十段深いところにあった。
降りるほどに空気が変わった。
湿度が上がる。石の匂いに、土の匂いが混じってくる。
7層の金属臭とは違う。もっと古い、何百年も積み重なってきたような匂いだ。
最後の段を降りたとき、足元の感触が変わった。
石畳じゃない。
踏んだ瞬間にわかった。石の下に、空洞がある。そういう感触だ。薄い板の上を歩いているような、頼りない響き。
「なんか、頼りないな」
ガルドが足踏みをした。
「やめろ」
「確認してただけだ」
「確認する必要はない。データで出ている」
俺は歩き出した。
一歩ごとに、足裏で床の厚みを測るような癖がついた。
三歩目で、やめた。
測れるわけがない。
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十メートルで《命運読み》を起動した。
弾かない。
魔物の気配がない。
8層のデータを頭の中で広げた。
241件。死亡記録が多い。原因の六割が魔物ではなく崩落だ。
つまりここは——魔物より床が殺す層だ。
「首の後ろ、どうだ」
「今は何もない」
「崩落に反応するかどうか確認したい。何か感じたらすぐ言え」
「わかった」
ガルドは素直に頷いた。
7層以降、こういうとき言い返さなくなった。
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三十メートルで最初の崩落が来た。
音が先だった。
——継ぎ目が、鳴いた。
リーセが言った通りだった。
小さい音だ。石が擦れるような、乾いた細い音。振動より先に来た。
俺は横に跳んだ。
一秒後、踏んでいた場所が消えた。
音もなく、ただ抜けた。
穴の底は見えなかった。暗くて、深い。
ガルドが俺の腕を掴んでいた。
「聞こえたのか」
「聞こえた」
「俺は聞こえなかった」
ガルドが穴を覗いた。
「深いな」
「覗くな。縁が崩れる」
ガルドが一歩引いた。
俺は息を整えた。
継ぎ目の音は聞こえる。ガルドには聞こえない。
崩落の前兆は、俺の耳に頼ることになる。
問題は——三割、振動の方向と崩落の方向がずれる、ということだ。
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五十メートルで魔物と遭遇した。
8層の魔物は、データの中に「岩喰い」という名前で出ていた。
四足歩行。低い体高。石畳と同じ色をしている。
特徴は——崩落を起こしながら動く。
天井からでも壁からでもなく、床から出てきた。
足元の石畳が膨らんだ、と思った瞬間、それが割れた。
《命運読み》が弾いた。
[岩喰い 生存率:54% 脅威度:B+ 推奨行動:距離を取れ]
54%。
石纏いの初回より低い。
「来た」
「見えてる」
ガルドが剣を抜いた。
岩喰いは低く構えていた。
四本の足が、石畳を掴んでいる。爪が長い。その爪で床を砕いて移動する。
「近づくな。爪が床を砕く。崩落に巻き込まれる」
「じゃあどうする」
「引きつけて、横から入る。床を砕く前に仕留める」
言いながら、計算した。
岩喰いが爪を使うまでの間隔——データでは平均三秒。最短一秒。
一秒のときが問題だ。
「俺が音を出す。お前が横から入れ。一撃で仕留めろ」
「一撃は無理かもしれない」
「なら二撃。三撃はだめだ」
「なんで」
「三秒以内に決めないと床が——」
床が鳴いた。
今度は岩喰いの足元からだった。
方向が読めなかった。
俺は跳ぶ方向を一瞬、迷った。
迷った、その一瞬に——
「右」
ガルドの声だった。
考えるより先に体が動いた。
右に跳んだ。
左の床が、音もなく抜けた。
岩喰いが穴に落ちた。
鳴き声もなく、消えた。
俺とガルドは、穴の縁から三十センチのところに立っていた。
しばらく、動けなかった。
「首の後ろか」
ガルドが答えた。
「違う。右にいるお前の顔が、また重なった」
見ていないのに。
それが二度目だった。
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七十メートルで二体目の岩喰いが出た。
今度は天井から落ちてきた。
崩落ではなく、魔物の落下だった。
パターンが違う。
《命運読み》が弾く。
[岩喰い 生存率:57% 脅威度:B 推奨行動:後退]
脅威度がBに下がっていた。
個体差か、疲弊しているのか。
「後退する」
「なんで、さっきは——」
「天井から落ちた。爪が床に届いていない。今は普通の魔物として戦える」
後退しながら、岩喰いの動きを見た。
天井から落ちた衝撃で、右前足の動きが鈍い。
「右前足が弱い。そこを狙え」
ガルドが踏み込んだ。
岩喰いが爪を振った。
ガルドが滑るように入り込んで、右前足の付け根を打った。
崩れた。
床に伏せた岩喰いに、ガルドがもう一撃入れた。
動かなくなった。
「速かったな、今回」
「右前足が使えなかったからだ」
「よく見てるな」
「データがある」
ガルドは少し笑った。
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八十メートルを超えたあたりで、床の鳴き方が変わった。
それまでは単発だった。
一カ所が鳴いて、一カ所が崩れる。
それが——連続し始めた。
左が鳴いた。
右が鳴いた。
正面が鳴いた。
三方向から同時に。
俺は足を止めた。
《命運読み》を広く流した。
魔物の反応はない。
崩落だけが、来る。
「どこに跳ぶ」
ガルドが言った。
計算した。
三方向が崩れるなら、残るのは——後ろだけだ。
でも後ろに跳べば、来た道を戻ることになる。
「後ろに跳べ」
「戻るのか」
「今は戻る」
跳んだ。
正面の床が三枚、連続して抜けた。
ドミノのように、順番に。
音が大きかった。
石が落ちていく音が、下からいつまでも聞こえていた。
深い。
ガルドが隣に着地した。
埃が舞い上がった。
二人とも、しばらく動かなかった。
「今日は、ここまでだ」
俺が言った。
「クリアしないのか」
「連続崩落のパターンが読めていない。データにない。今日持ってきた情報では足りない」
「……そうか」
ガルドは穴の向こうを見た。
崩れた先の通路が、向こう側に続いている。
「悔しくないか」
「悔しいかどうかより、死ぬ方が困る」
「それ、悔しいってことじゃないのか」
返事をしなかった。
——悔しい、という感覚かどうかはわからない。
でも、引き際に名前をつけるなら、そうかもしれない。
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地上に出ると、夕方だった。
空が赤かった。
西の雲が燃えているみたいに橙で、端だけ紫になっていた。
ガルドが大きく息を吐いた。
「生きてる感じがする」
「今日は特にそう言うな」
「今日は特にそう思う」
俺は空を見た。
崩落の音が、まだ耳の奥に残っていた。
「連続崩落の情報、リーセが持ってるかもしれない」
「聞くか」
「聞く。明日」
「明日、か」
ガルドが少し笑った。
「なんだ」
「いや。リーセに会う口実ができたな、と思っただけだ」
「口実じゃない。情報収集だ」
「そうだな」
全然そう思っていない顔だった。
俺は歩き出した。
靴底が、石畳を踏む音がした。
崩れなかった。
地上の石畳は、崩れない。
当たり前のことが、今日は少しだけ、ありがたかった。
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宿に戻って、データを広げた。
241件の中に、連続崩落の記録を探した。
あった。十七件。
ただし生還記録がない。
十七件全部、そこで記録が途切れている。
俺はその数字を見た。
十七件、全滅。
データにない、とさっき言った。
正確には——データはある。ただし生還した人間のデータがない。
つまり連続崩落から生き残った人間は、今まで一人もいない。
今日、俺たちは戻った。
生き残った。
次に入るとき——また連続崩落が来る可能性がある。
燭台に火を点けた。
今夜も揺れなかった。
——数字は嘘をつかない。
十七件全滅という数字も、嘘をつかない。
それをどう覆すか。
それだけを、考えた。




