第16話「数字じゃないもの」
翌朝、ギルドに行く前に靴底を確認した。
7層の石畳は6層より硬い。
三体と格闘して、かかとの端が少し削れていた。
まだ履ける。でも8層に入る前には換えた方がいい。
そういうことを考えながら歩いていると、路地の角でリーセと鉢合わせた。
正確には、鉢合わせた、というより——待っていた、という立ち方だった。
フードを上げていた。両手を外套の中に入れていた。
昨夜からいたのか、今朝来たのか、顔からは読めなかった。
「7層、クリアしましたね」
「昨日の夕方に」
「知っています。掲示板で確認しました」
俺より先に確認していた。
それだけのことだが、少し引っかかった。
「8層のデータを持ってきました」
外套の中から封筒を出した。
昨日のうちに準備していたらしく、封蝋がきれいだった。
「早い」
「7層は長くかかると思っていました。予想より早かった」
「褒めてるか」
「……事実です」
口癖の「そう」じゃなかった。
少しだけ、違った。
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近くの広場の端に、石造りのベンチがあった。
朝早いせいで人はいない。
噴水が低い音を立てていた。
朝の光が水面を跳ねて、石畳に細かい模様を作っていた。
封筒を開けた。
8層のデータ——サンプル数241件。7層より少ない。
「7層より死亡例が多い、ということか」
「はい。8層は7層と構造が違います。魔物より、地形が問題です」
「地形」
「崩落します。床が、突然」
短く言った。
でもその短さに重さがあった。
「前兆は」
「記録によれば、低い振動が2〜3秒前。ただし7層の突風と違って、振動の方向と崩落の方向が一致しないケースが三割あります」
「三割」
「三割です」
俺は数字を頭に入れた。
三割のズレ。それを補正する方法を、データから引き出せるかどうか。
「ガルドの直感が機能するかもしれない」
「……7層で何かありましたか」
顔を上げた。
リーセがこちらを見ていた。
「観察」の数値が端に光っている、とわかった。流さなくても。
「なぜそう思う」
「ガルドの名前を出したのが、今日で三度目です。7層に入る前は二度でした。何か変わった」
計算が速い。
俺のことを、ずっと数えていた。
少し間を置いた。
「声のことを話していいか」
リーセの手が、外套の中で少し動いた気がした。
「聞きます」
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話した。
七十メートルで声が変わったこと。
「帰れるぞ」から「計算では届かない」に変わったこと。
頭が一瞬白くなったこと。
白くなったとわかったから、余計に嫌だったこと。
ガルドが「なんとなく、今は俺が考える番だと思った」と言ったこと。
それで震えが止まったこと。
話し終えて、少しだけ後悔した。
話すつもりはなかった。
でも口が動いた。
リーセはしばらく噴水を見ていた。
「声が変わった、というのは」
「最初は帰還を使ってきた。次は計算を否定してきた」
「……学習しています」
「声が?」
「神が。あなたが帰還に揺れないとわかったから、次の弱点を探した」
俺は少しの間、それを考えた。
「神が俺を観察している」
「最初からです。ただ、7層で一段、踏み込んできた」
噴水の音が続いていた。
朝の光が少し強くなっていた。
「怖いですか」
リーセが聞いた。
珍しかった。
リーセが感情を問いかけてくるのは、初めてだった。
「怖い、という感覚かどうかわからない」
「わからない?」
「頭が白くなった。でもそれが怖さかどうかは——名前をつけていない」
リーセはしばらく黙っていた。
「私は」
小さな声だった。
「私は、怖かったです。7層に入ったとき」
俺は顔を向けた。
リーセは噴水を見たまま、続けた。
「声に名前を呼ばれました。死んだ人間の名前じゃない。私自身の、奥にあるものを。——うまく言えませんが」
「言えなくていい」
短く言った。
リーセが少し、肩の力を抜いた気がした。
「だから、引っ張られないでください、と言いました」
「自分が引っ張られたから」
「……そう」
今度はいつもの相槌だった。
でも今日は、その「そう」の重さが違った。
《命運読み》を流した。
[リーセ・ヴァルト 生存率:99% 脅威度:E 観察:強 賭け:強]
「賭け」が「中」から「強」になっていた。
何に賭けているのか、まだわからない。
でも今日、一段上がった。
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封筒を上着にしまって、立ち上がった。
リーセも立ち上がった。
「一つだけ」
「なんだ」
「8層は、崩落の前に音がします。振動より先に、床の継ぎ目が鳴く。データには出ていませんが——私が調査で入ったとき、そうでした」
「継ぎ目が鳴く」
「小さい音です。ただ、静かにしていれば聞こえる」
俺はそれを頭に入れた。
データにない情報だ。リーセが自分の経験から出した情報だ。
「ありがとう」
言ってから、自分でも少し驚いた。
礼を言うつもりはなかった。
リーセは一瞬だけ止まった。
「……どういたしまして」
たぶん、リーセも言うつもりはなかった。
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昼前にギルドに寄ると、入口にドランがいた。
待ち構えていた、という感じではなかった。
入ろうとして、俺が来るのを見て、止まった。という順番だった。
「片瀬」
「ああ」
「7層、クリアしたんだな」
「昨日」
ドランは少し間を置いた。
《命運読み》を流した。
[ドラン 生存率:98% 脅威度:D 感情値:――(静かな、決めた後の何か)]
昨日と変わっていた。
「静かな何か」が、「決めた後の何か」になっていた。
「一つ聞いていいか」
「聞け」
「6層に入らなかったのは——怖かったからだ」
俺は返事をしなかった。
「お前に生存率34%と言われた。無視した。三度蘇生された。——それでもまだ、6層に入ろうとした」
「知ってる」
「でも入れなかった。お前たちが降りていくのを見て、足が動かなかった。Bランクの俺が、命運鑑定士に、足を止められた」
ドランの声は低かった。
怒りではない。
「それを、お前に言いたかった」
「なぜ」
「——わからん」
11話と同じ言葉だった。
でも今日の「わからん」は、違う重さだった。
俺は少し考えた。
「34%で無視して、三度蘇生されて、それでも入ろうとしたのなら——お前は臆病じゃない」
「慰めか」
「計算だ。臆病な人間は、34%を見た時点で動かない」
ドランが俺を見た。
「俺も動かないことがある。勝算がなければ動かない。それが臆病なのか計算なのか、自分でもわからないときがある」
言ってから、思った。
これは話すつもりじゃなかった。
今日は話すつもりじゃないことを、二度話した。
ドランは少しの間、黙っていた。
「……お前、意外と話すんだな」
「そうでもない」
「そうでもないことはないだろ」
ガルドに似たことを言う男だ、と思った。
ドランはギルドの扉を引いた。
入る前に、少しだけ振り返った。
「8層、気をつけろよ」
それだけ言って、入っていった。
《命運読み》の数値が、まだ頭に残っていた。
「決めた後の何か」。
何を決めたのかは、わからない。
でも何かが、動いた。
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夕方、宿に戻った。
窓から見える空が、橙から紫に変わるところだった。
昨夜の燭台が、まだ机の上にある。
8層のデータを広げた。
241件。崩落の記録。三割のズレ。床の継ぎ目が鳴く。
ガルドの直感が崩落に反応するかどうか、まだわからない。
反応するなら、生存率は上がる。
反応しないなら、別の手を考える。
燭台に火を点けた。
揺れなかった。
今夜は、揺れなかった。
——答えはまだ出ていない。
でも今日、リーセが「怖かった」と言った。
ドランが「足が動かなかった」と言った。
ガルドが「なんとなく」で俺の頭の白さを止めた。
数字じゃないものが、今日は多かった。
それでも、計算は通じた。
データを読み始めた。
燭台の火が、静かに揺れていた。




