15話「計算の外」
朝、目が覚めたとき、燭台はとっくに消えていた。
いつ寝たのか、わからなかった。
天井の染みが、朝の光の中で昨夜より薄く見えた。
起き上がって、窓を開けた。
冷たい空気が顔を打った。
石畳が朝露で濡れていて、遠くで鳥が鳴いている。
——本当に、帰りたいのか。
昨夜の問いが、まだそこにあった。
答えは出ていない。
出ないまま、顔を洗った。
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ギルドで7層のオッズを確認した。
5.4倍。
昨日より少し下がっていた。
計算蟲は早い。下見で入っただけでも、データを拾っていく。
「今日か」
ガルドが隣で掲示板を見た。
「今日だ」
「声、また聞こえると思うか」
「聞こえる」
「引っ張られそうか」
少し間を置いた。
「わからない」
ガルドは何も言わなかった。
それでいい、という顔をしていた。
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7層の入口に着いたのは昼前だった。
階段を降りると、例の空気が来た。
重い。密度が高い。肺が少しだけ抵抗する感じ。
壁の光の筋が、今日も静かに明滅していた。
「行くぞ」
「おう」
ガルドの返事は短かった。
いつもより少しだけ、低かった。
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三十メートルで《命運読み》を起動した。
反応がない。
石纏いは壁に溶けている。前回と同じだ。
ガルドが首の後ろに手を当てた。
「ざわっとしてる」
「方向は」
「……右の壁、少し先」
前回より絞れていた。
俺は右壁を見た。光の筋の間に、動かない影がある。
《命運読み》を集中させた。
弾いた。
[石纏い 生存率:61% 脅威度:B+ 推奨行動:先制攻撃]
「右壁、四メートル先。一体だ」
「先手打つか」
「打つ。お前が右から、俺が音を出す」
小石を蹴った。
壁に当たった瞬間、ガルドが動いていた。
石纏いが剥がれた。
ガルドの剣が関節の内側を狙った——フィネから聞いた弱点だ。
一撃では仕留めきれなかった。
でも、動きが止まった。
俺は逆側に回り込んだ。
膝の内側。もう一度。
生存率が67%に上がった。
二撃目でガルドが仕留めた。
「関節、効くな」
「フィネの情報だ」
「その人、今度飯でも奢りたい」
返事をしなかった。
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五十メートルを超えたところで、聞こえた。
前回と同じ場所だった。
頭の内側に触れてくる、形のない声。
——帰れるぞ。
足は止めなかった。
今日は止めなかった。
でも、聞こえた瞬間に——昨夜の燭台を思った。
風もないのに揺れていた火を。
答えの出なかった問いを。
歩き続けながら、奥歯を一度だけ噛んだ。
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七十メートルで二体目と遭遇した。
天井からではなく、正面からだった。
通路の幅が狭くなっている場所で、石纏いが真正面に立っていた。
前回のパターンと違う。
《命運読み》を流した。
[石纏い 生存率:58% 脅威度:B+ 推奨行動:後退]
後退。
でも後ろには通路がある。後退すれば——
「首の後ろ、ぞわっとした」
ガルドが低く言った。
「後ろか」
「たぶん」
挟まれる。
前後に一体ずつ。
通路が狭い。左右の壁は使えない。
俺は《命運読み》を後方に流した。
弾いた。
まだ遠い。でも来ている。
「前の一体を先に仕留める。お前が正面、俺が——」
そのとき、声が来た。
——お前の計算では、届かないぞ。
今回は違った。
「帰れるぞ」じゃなかった。
計算を、否定してきた。
一瞬だけ、頭の中が白くなった。
白くなった、とわかった。
わかったから、余計に嫌だった。
「片瀬」
ガルドの声が来た。
「聞こえたか」
「——聞こえた」
「今のは俺も聞こえた」
俺は顔を上げた。
「お前も?」
「声じゃなかった。感覚だ。首の後ろがぞわっとしたのと同時に、なんか、お前がやばいって——」
ガルドが言いかけて止めた。
それから、続けた。
「——なんとなく、今は俺が考える番だと思った」
根拠のない断言だ。
いつもの、ガルドだ。
でも今は——それでいい。
「聞く」
「正面の一体、俺が引きつける。お前は後ろを先にやれ。狭い通路なら一体ずつしか来れない」
「後ろの距離が——」
「間に合う。なんとなく」
数字じゃない。
根拠もない。
でも俺は、ガルドの「なんとなく」を計算に組み込むことにしていた。
6層でそれを学んだ。
「わかった。やれ」
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ガルドが正面の石纏いに向かって走った。
大声を上げながら、剣を鳴らしながら。
石纏いの注意が前に向いた。
俺は後ろに走った。
《命運読み》を流しながら。
後方の石纏いが、通路の曲がり角から姿を現した。
まだ十メートルある。
壁際に寄った。
来るのを待った。
相手が走ってくる。
脅威度が上がった。
六メートル。四メートル。
膝の内側を狙う。一撃で仕留める必要はない。動きを止めればいい。
三メートルで踏み込んだ。
剣が通った。
生存率が63%に上がった。
もう一撃。
関節が砕ける感触があった。
石纏いが崩れた。
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振り返ると、ガルドが正面の一体と格闘していた。
腕に傷ができていた。
でも、追い詰めていた。
「右の関節」
「わかってる」
最後の一撃はガルドが入れた。
石畳に崩れ落ちる音がした。
しばらく、二人とも動かなかった。
ガルドの息が荒かった。
俺の手が、少し震えていた。
声のせいだ。
計算を否定された瞬間、頭が白くなったことが、まだ残っていた。
「片瀬」
「なんだ」
「さっきの声、お前に何て言ったんだ」
少し間を置いた。
「計算では届かない、と」
ガルドは少しの間、黙っていた。
「届いたじゃないか」
「届いた」
「じゃあ嘘だ」
簡単に言った。
根拠もなく、証明もなく。
でも——そうだ。
届いた。
「嘘か」
「嘘だ。神でも声でも、嘘はつく」
数字は嘘をつかない、と俺は言い続けてきた。
声は数字じゃない。
だから嘘をつく。
それだけのことだ。
震えが、止まった。
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出口まで残り二十メートルのところで、三体目が出た。
天井からだった。
ガルドの首の後ろがぞわっとした瞬間、俺は横に跳んでいた。
着地の衝撃で膝が痛んだ。
でも直撃は避けた。
《命運読み》を流した。
[石纏い 生存率:66% 脅威度:B 推奨行動:側面から攻撃]
脅威度がBに下がっていた。
疲弊しているのか、この個体が弱いのか。
「最後だ。一体ずつやってきた。同じようにやれる」
「おう」
ガルドの返事はもう荒くなかった。
二人で関節を狙った。
三撃で仕留めた。
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出口の光が見えたとき、足が少しだけ重かった。
出た。
地上の空気が、肺に入ってきた。
昼の光が眩しかった。
石畳が温かかった。
ガルドが隣に立った。
腕の傷から血が滲んでいた。
「生きてる感じがする」
「毎回言うな」
「毎回思うんだから仕方ない」
俺は空を見た。
雲が流れていた。
速い風が上の方を吹いているらしく、雲の端がちぎれながら動いていた。
「ガルド」
「なんだ」
「さっき、俺がやばいと思ったのは——直感か」
ガルドは少し考えた。
「直感、というか。首の後ろがぞわっとしたのと、お前の顔が重なった。それだけだ」
「俺の顔を見たのか」
「見てない。でも重なった」
見ていないのに重なった。
それは直感じゃない。もっと別の何かだ。
俺は《命運読み》をガルドに向けた。
[ガルド・ロア 生存率:89% 脅威度:A 直感値:——ERROR——]
エラーのまま。
正体はまだわからない。
でも今日、ガルドの「なんとなく」が俺の頭の白さを上書きした。
それだけは、確かだった。
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夕方、ギルドの前を通りかかったとき、ドランがいた。
掲示板の前に立っていた。
7層クリアの報告が、今日の夕方に貼り出されていた。
命運鑑定士・片瀬司。7層クリア。生存率最終値69%。
ドランはそれを見ていた。
俺が通りかかっても、振り返らなかった。
掲示板から目を離さなかった。
《命運読み》を流した。
[ドラン 生存率:98% 脅威度:D 感情値:――(薄い、静かな何か)]
濁りが消えていた。
代わりに、静かな何かが残っていた。
名前のつかない数値だった。
俺は通り過ぎた。
ガルドが小声で言った。
「声かけなくていいのか」
「今はいい」
「なんで」
「あいつが自分で答えを出すまで、数字が動かない」
ガルドは少し考えて、頷いた。
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宿への道を歩きながら、今日のことを整理した。
石纏い三体。
生存率最終値69%。
声に一度、頭が白くなった。
でも届いた。
計算は通じた。
声は嘘をついた。
——数字は嘘をつかない。
声は嘘をつく。
だから声より数字を信じる。
それだけだ。
上着の内ポケットに手を当てた。
リーセからもらったデータが入っている。
8層のデータは、まだ来ていない。
次にリーセに会ったとき——今日のことを話すかどうか、決めていなかった。
話す必要はないかもしれない。
でも、話したい気がしないわけでもなかった。
そこだけが、計算の外だった。




