14話「滲むもの」
翌朝、ガルドの傷口は腫れていなかった。
宿の窓から差し込む朝の光の中で、腕を出させて確認した。
昨夜のうちに洗って布を巻いていたらしく、巻き方がひどかった。
緩すぎて、寝ている間にずれていた。
「巻き直す」
「いい、自分でやる」
「見てから言え」
ガルドは渋々腕を差し出した。
傷は浅い。縁がわずかに赤いが、腫れも熱もない。
毒ではなかった。
「問題ない」
「だろ。言っただろ」
「昨日の時点ではわからなかった」
「お前、心配してたのか」
「リスク管理だ」
ガルドがにやっとした。
俺は布を巻き直して、端を結んだ。
「きつくないか」
「ちょうどいい」
「なら次から自分でこの締め方にしろ」
「覚えらんない」
「覚えろ」
ガルドは巻かれた腕を持ち上げて、しみじみと眺めた。
「お前って世話焼きだよな」
「違う」
「いや、世話焼きだ。絶対」
「お前が死んだら7層の変数が一つ消える」
「冷たいなあ」
言いながら、笑っていた。
俺は道具をしまって、立ち上がった。
午前中、ギルドで7層の追加情報を集めた。
掲示板の依頼票を端から確認して、7層経験者の名前を三人リストアップした。
そのうち二人は街を離れていた。
一人だけ、ギルドの奥の席にいた。
フィネという女だった。
三十代半ばに見える。左腕の袖が短く、古い火傷の痕が肘から先に広がっていた。
「7層のことを聞きたい」
単刀直入に言った。
フィネは依頼票から目を上げて、俺を見た。
「命運鑑定士か」
「そうだ」
「噂は聞いてる。座れ」
向かいに座った。
ガルドは少し離れた席で腕を組んで、壁を見ていた。
「何が聞きたい」
「石纏いの弱点と、声のことだ」
フィネの目が少し変わった。
「声を聞いたのか」
「昨日入った。二体仕留めて出てきた」
「初日で二体か」
「毒の確認のために退避した」
「賢いな」
褒めているのか確認しているのかわからない言い方だった。
フィネは依頼票を伏せて、腕を組んだ。
「石纏いは頭より関節だ。肘と膝の内側だけ岩に覆われていない。そこを狙え」
「データには出ていなかった」
「そこを狙える奴が少ないからだろう。あいつらは速い。近づく前にやられる」
「昨日は曲がれないことを使った」
「それは賢い。ただ二体以上いると壁が使えない。開けた場所に誘い込むな。狭い通路で一体ずつやれ」
メモを取りながら聞いた。
フィネは淡々と話した。経験を売るような雰囲気はなかった。
ただ聞かれたことに答えている、という感じだった。
「声は」
フィネの手が、少しだけ止まった。
「何を聞かれた」
「帰りたいか、帰れるぞ、と」
「……そうか」
短く言って、フィネは左腕に視線を落とした。
火傷の痕を見ているのか、見ていないのか。
「私は、死んだ仲間の名前を呼ばれた」
静かな声だった。
「一度だけか」
「7層にいる間、ずっとだ。入るたびに聞こえた。だから7層は三回で止めた」
「今は入らないのか」
「入れない」
それ以上は言わなかった。
俺も聞かなかった。
「声の正体を知っているか」
「知らない。神殿に聞いても教えてくれなかった。ただ——」
フィネは顔を上げた。
「声が言うことは、全員、自分が一番望んでいるものだという話だ」
俺は少しの間、その言葉を頭の中に置いた。
「一番望んでいるもの」
「ああ。否定しても、無視しても、ずっと言い続けてくる。——だから厄介なんだ」
ギルドを出ると、空は曇っていた。
雲の端が白く光っている。雨になるかもしれない。
石畳がわずかに湿気を帯びて、足音が朝より少し鈍くなっていた。
ガルドが隣に並んだ。
「聞いてたか」
「だいたい」
「どう思う」
「声が言うことは、一番望んでることって話だろ」
「ああ」
「お前の場合は帰還か」
「そう聞こえた」
ガルドは少し考えるような間を置いた。
珍しかった。こいつが考える間を取るのは。
「俺も入ったら聞こえるのかな」
「ガルドには聞こえなかっただろ、昨日」
「昨日は聞こえなかった。でも声が直感に引っかからなかっただけかもしれない」
それは考えていなかった。
ガルドの直感は音や殺気に反応する。
人語に近い「声」には、反応しないのかもしれない。
あるいは——ガルドが一番望んでいるものが、まだ形になっていないか。
「お前が一番望んでいるものは何だ」
聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。
ガルドは少しも間を置かずに答えた。
「強くなること」
「それだけか」
「それだけじゃないけど、一番はそれだ」
「友人の話か」
ガルドの歩調が、一瞬だけ変わった。
すぐに戻った。
「……まあ、な」
「聞こえたとき、どうするつもりだ」
「無視できないだろうな、正直」
俺はガルドの横顔を見た。
《命運読み》は流さなかった。
流さなくても、こいつが嘘をついていないのはわかった。
「無視できなくなったら言え」
「なんで」
「お前が声に引っ張られたら、俺の生存率が下がる」
ガルドはしばらく黙って、それから小さく笑った。
「やっぱ世話焼きだ」
「違う」
「絶対違わない」
昼過ぎ、ギルドの前でドランとすれ違った。
昨日のような待ち構えた様子はなかった。
ただ、出てくるタイミングが重なった。
ドランは一瞬だけ俺を見た。
《命運読み》が弾く。
[ドラン 生存率:98% 脅威度:D 感情値:――(薄い)]
感情値の濁りが、昨日より薄くなっていた。
何かが変わっている。何が変わったのかはわからない。
「7層か」
ドランが言った。
「今日は情報収集だ」
「そうか」
それだけだった。
通り過ぎていった。
ガルドが小声で言う。
「あいつ、変わったよな」
「かもしれない」
「何があったんだ」
「わからない。数字じゃ読めないことがある」
二度目だった、その言葉を言うのが。
夕方、宿への道を歩いていると、路地の入口にリーセが立っていた。
昨日と同じマントだった。
フードは下ろしていた。
「早い」
「8層のデータはまだありません」
「わかってる。声のことを聞きに来た」
リーセは少しだけ目を細めた。
「入ったんですね、昨日」
「ああ。聞こえた」
「……そう」
いつもの相槌。でも今回は間があった。
「何を言われましたか」
「帰りたいか、帰れるぞ、と」
リーセは視線を少し落とした。
石畳の継ぎ目あたりを見ていた。
「声は何ですか」俺は聞いた。「神殿は知っているはずだ」
「……知っています」
初めてだった。
リーセが即座に認めたのは。
「教えられますか」
「一部だけ」
「聞く」
リーセは顔を上げた。
夕光が横から当たって、目の色が思ったより薄いことがわかった。
「声は、神の副産物です」
「副産物」
「神はダンジョンを通じて人間の感情を収集しています。恐怖、歓喜、執念——それが神の糧になる。その収集の過程で、神が無意識に漏らしているものが声です」
俺は少しの間、黙っていた。
「つまり神が俺の内側を読んだということか」
「読んだというより——触れた、に近いと思います。神に悪意はないかもしれない。ただ収集する過程で、あなたが一番強く持っているものに触れてしまう」
「帰還が、俺の中で一番強いものだと」
リーセは答えなかった。
答えない、ということが答えだった。
「お前はどうだ」
「私は」
「7層で声を聞いたことがあると、昨日の顔が言っていた」
リーセの視線が、わずかに動いた。
「……管理主任として、調査で入ったことがあります」
「何を言われた」
間があった。
風が路地を抜けた。マントの裾が揺れた。
「——教えません」
短かった。
でも拒絶ではなかった。
声のトーンが、少しだけ違った。
いつもの「答える必要がない」とは、違う。
「わかった」
「……聞かないんですか」
「お前が教えないと言ったなら聞かない」
リーセはしばらく俺の顔を見ていた。
何かを測るような、でも昨日とは少し質の違う視線だった。
「一つだけ、言います」
「聞く」
「声に引っ張られないでください」
それだけだった。
命令でも懇願でもなく、ただ——言葉として、そこに置かれた。
《命運読み》を流した。
[リーセ・ヴァルト 生存率:99% 脅威度:E 観察:強 賭け:中]
「賭け」の値が、また上がっていた。
前回「微」だったのが「中」になっている。
何に賭けているのか、数値は教えてくれない。
「7層、また入るつもりです」
「知っています」
「準備が整ったら」
「データが揃い次第、届けます」
リーセはフードを上げた。
昨日と同じ動作だった。
でも今日は、路地を出る前に一度だけ振り返った。
何も言わなかった。
ただ見た。
それからフードを少し直して、歩いていった。
路地に一人残った。
風が通り抜けた。
さっきより冷たくなっていた。夜が近い。
声のことを考えた。
神が人間の感情に触れる過程で漏れ出すもの。悪意はないかもしれない、とリーセは言った。
悪意がないなら、なぜあれほど正確なんだ。
帰りたいか、帰れるぞ。
——俺が一番強く持っているもの。
本当にそうなのか、と思った。
帰還は目的だ。でも一番強く持っているものかどうかは、自分ではわからない。
《命運読み》は自分には使えない。
だから自分の数値を知る方法がない。
知らないまま、動き続けるしかない。
上着の内ポケットに手を当てた。
フィネから得た情報と、リーセのデータが重なって入っている。
「さて」
独り言が出た。
石纏いの関節を狙う。
声は無視する。
——数字は嘘をつかない。
でも声は、数字じゃない。
そこだけが、まだ読めなかった。
宿に戻って、燭台に火を点けた。
オレンジの光が、天井の染みを照らした。
紙を一枚取り出した。
何かを書こうとして、止まった。
——本当に、帰りたいのか。
答えが出なかった。
出ないまま、燭台の火を見ていた。
炎は揺れていた。
風はなかった。
それでも、揺れていた。
消すのが惜しくなって、しばらくそのままにしていた。




