13話「声のする層」
7層の入口は、6層より三十段深いところにあった。
階段を降りるごとに、空気が変わった。
湿度じゃない。重さが違う。肺に入る空気の密度が、少しずつ増していくような感覚。
ガルドが一段後ろを歩きながら、鼻をすんと鳴らした。
「なんか、臭くないか」
「土と、金属」
「金属?」
「古い鉄みたいな匂いだ。血に近い」
ガルドが一瞬黙った。
「……やな表現するな」
「正確な表現だ」
階段が終わった。
足を踏み入れた瞬間、視界が変わった。
天井が高い。
6層は圧迫感のある低い天井だったが、7層は逆だった。見上げると闇が続いていて、どこまであるのか判断できない。
壁は黒い岩だった。
ただの黒じゃない。岩の表面に、薄い光の筋が走っている。
一本、また一本。脈打つように、ゆっくりと明滅していた。
「光ってる」
ガルドが壁に手を伸ばした。
「触るな」
止める間もなかった。
ガルドの指先が岩に触れた。
何も起きなかった。
「冷たい。ただの岩だ」
「だから触るなと言った」
「なんだよ、怖かったのか」
「リスク管理だ」
ガルドは壁から手を離して、光の筋を眺めた。
「きれいだな」
返事をしなかった。
——綺麗だとは思った。思ったが、言わなかった。
三十メートルほど進んだところで、《命運読み》を起動した。
周囲に反応はない。
魔物の気配がなかった。
おかしい。
312件のデータを昨夜読み込んだ。7層は入って早々に魔物と遭遇するケースが全体の七割を超えていた。それが、静かだ。
ガルドが足を止めた。
「首の後ろ、ちょっとある」
「どの程度だ」
「ぞわっとまではいかない。ざわっと、くらい」
「方向は」
「……わからん。どこかにいる、くらいしか」
ガルドの直感が方向を絞れていない。
6層では縦穴ごとに機能していたのに。
俺は《命運読み》を広く流した。
弾かない。
弾かないのに、静かじゃない気がした。
「進む。ただし壁際を歩け。中央は避ける」
「なんで」
「天井が高い。上からの奇襲に対応しにくい。壁があれば背後は取られない」
ガルドは素直に従った。
このあたりは、もう言い合いをしない。
五十メートルを超えたあたりで、聞こえた。
最初は耳鳴りだと思った。
高くも低くもない、一定の音。空気が震えているような、でも音というより——言葉に近い何か。
足を止めた。
「なんか聞こえるか」
ガルドに聞いた。
「何が」
「声みたいなもの」
ガルドは首を傾けた。しばらく耳を澄ませるような顔をしていた。
「——聞こえない」
俺だけか。
《命運読み》を起動したまま、音に意識を向けた。
輪郭はない。方向もない。ただ、頭の内側に直接触れてくるような感覚だった。
言葉ではなかった。
でも意味があった。
——帰りたいか。
鼓膜じゃなく、もっと奥で聞こえた。
足の裏が冷たかった。石畳の冷気が、靴底を通り抜けてきた。
俺は息を一度だけ、ゆっくり吐いた。
「片瀬?」
「問題ない。進む」
「顔色悪いぞ」
「暗いから見間違えだ」
ガルドは何か言いたそうな顔をしたが、黙って歩き始めた。
七十メートル地点で、魔物と遭遇した。
天井からだった。
《命運読み》が弾く間もなかった。
ガルドが俺の腕を掴んで横に引いた。
直後、何かが頭上から落ちてきた。
石畳に叩きつけられた音がした。
振り返ると、二メートルを超える何かが這い上がっていた。
黒い。
岩と同じ色をしていた。壁に張り付いていれば気づかない。
《命運読み》が弾いた。
[石纏い(いわまとい) 生存率:64% 脅威度:B+ 推奨行動:距離を取れ]
64。
6層の骨顎狼が96%だったことを思えば、開幕でこれは重い。
「でかい」
ガルドが剣を抜いた。
「待て。動くな」
「なんで」
「色を見ろ。岩と同じだ。——もう一体いる」
ガルドの動きが止まった。
俺は壁際に意識を走らせた。
光の筋が走る黒い岩。同じ色の魔物。
見つけられない。でも《命運読み》を広く流すと——
弾いた。
左の壁、三メートル先。
張り付いている。
「左壁、三時の方向。俺が音を出す。動いた瞬間にお前が右に走れ」
「音って何で」
「石を投げる」
拾う間もなく、足元の小石を蹴った。
左壁に当たって、乾いた音が響いた。
影が動いた。
ガルドがすでに走っていた。
先に動いていたのか、音と同時だったのか、わからない。
最初の一体が、ガルドを追った。
俺は逆方向に走りながら《命運読み》を流し続けた。
64%が、60%になった。
下がっている。
「ガルド、左に曲がれ」
「なんで」
「曲がれ」
返事より先に体が動いていた。さすがだ。
ガルドが曲がった瞬間、魔物が壁に激突した。
慣性を制御できていない。直線の速度は高いが、曲がれない。
生存率が67%に戻った。
「今だ。頭を狙え、横から」
ガルドの剣が光の筋を反射して、一瞬白く見えた。
二体を仕留めるのに十分かかった。
ガルドの右腕に浅い切り傷ができていた。
二体目が壁から剥がれるとき、爪が掠めた。
「たいしたことない」
「見せろ」
「いいって」
「見せろ」
ガルドは渋々腕を出した。
浅い。ただし岩と同じ色の爪だ。毒の可能性がある。
「帰る」
「え、もう?」
「今日は下見だ。傷口を確認してから判断する」
「でも——」
「引き際も計算のうちだ」
ガルドは口をへの字にしたまま、でも歩き始めた。
入口まで戻る途中、もう一度聞こえた。
今度は、はっきりしていた。
——帰れるぞ。
足が、止まった。
一秒か、二秒か。
石畳の冷気が靴底から這い上がってくるのが、やけにはっきりわかった。
歩き出した。
止まったことに、自分で気づいた。
気づいたことが、少しだけ嫌だった。
声は続きを言わなかった。
誘うでもなく、脅すでもなく、ただ——そこにあった。
俺は前だけ見て歩いた。
《命運読み》を起動しようとして、やめた。
対象がないなら、弾かない。
それはわかっている。
わかっているのに、起動しかけた自分が少しだけ嫌だった。
地上に出ると、夕方の空気が頬を打った。
昼間の熱が残った石畳。
遠くで鳥が鳴いている。
市場の喧騒が、風に乗って切れ切れに届く。
ガルドが大きく伸びをした。
「いやー、生きてる感じがする」
「毎回言うな」
「毎回思うんだから仕方ない。なあ、7層ってさ」
「なんだ」
「俺、声聞こえなかったけど——お前には聞こえたんだろ」
返事をしなかった。
「顔に出てたぞ」
「出てない」
「出てた。目が少し、遠くなった」
ガルドは案外こういうことに気づく。
直感だけで生きているくせに、人の変化には敏い。
「聞こえた」
「何て」
「——帰りたいか、と。帰れるぞ、と」
ガルドは少しの間、黙っていた。
「帰りたいのか」
「わからない」
正直に言った。
——本当に、わからなかった。
「わからないって言えるんだな、お前も」
「たまにはある」
「そっか」
それだけだった。
追いかけてこなかった。
ガルドはそういう男だ。
根拠なしに断言するくせに、人の答えは待てる。
宿への道を歩きながら、声のことを考えた。
あれは何だ。
ダンジョンの声、とリーセは言った。人によって内容が違う、とも。
俺に帰還を語りかけてきた。
——つまり、俺が何を望んでいるか、知っている何かがいる。
《命運読み》は他人にしか使えない。
自分の数値は読めない。
でもあの声は、俺の内側を読んだ。
数字じゃない方法で。
上着の内ポケットに手を当てた。
312件のデータが入っている。
この中に、声の正体を示す記録はなかった。
——次にリーセに会ったとき、聞く。
そう決めた。
夜が来ていた。
水晶球の光が、遠くでまた揺れていた。
今日も、見なかったふりをした。




