12話「7層の値段」
朝、目が覚めたとき、上着の内ポケットが少し重かった。
昨夜折り畳んだ紙が、まだそこにある。
当たり前だ。紙は逃げない。
それでも確かめずにはいられなかった。
——7層、準備できました。
文字は変わっていなかった。
俺は紙を畳み直して、また同じ場所に戻した。
ギルドで7層のオッズを確認した。
5.8倍。
6層クリアの情報が出回ってオッズが下がり、さらに昨日の間に削られていた。
計算蟲は早い。人の噂より早く動く。
「また下がってる」
ガルドが横から掲示板を覗いた。
「5.8か。6層のときより低いな、最初から」
「俺の評価が上がってるからだ」
「それって喜ぶとこじゃないのか」
「配当が減る。喜ばない」
ガルドが肩をすくめた。
「で、リーセとはどこで会うんだ」
「神殿側から指定してくる。昨日の紙に場所がなかった」
「待ちか。お前、待つの嫌いだろ」
嫌いだ、とは言わなかった。
——正確には、待つのが嫌いなんじゃない。
読めない時間が嫌いなんだ。
指定が来たのは昼過ぎだった。
ギルドの受付にいたアネットが、小さく折った紙を差し出した。
「神殿の方から、預かりました」
困惑が、またほんの少し端に滲んでいた。
俺は受け取って、その場で開く。
——市場の北端。水汲み場の裏。夕刻。
署名はない。
でもわかる。昨夜と同じ字だ。
夕刻より少し早く着いた。
水汲み場の裏は、市場の喧騒から一枚壁を隔てた路地だった。
石畳が古く、目地に苔が詰まっている。水受けの縁が長年の使用で丸く削れていた。
水の音だけが、低く一定に続いている。
リーセはすでにいた。
神殿の制服ではなく、薄い灰色のマントを羽織っている。フードは下ろしていた。
壁に背を預けて、腕を組んで、俺が来るのを見ていた。
《命運読み》が弾く。
[リーセ・ヴァルト 生存率:99% 脅威度:E 観察:強 賭け:微]
数値に変化はない。
でも「賭け」の値が、前回より少し強くなっていた。
「早いですね」
「お前も早い」
「神殿の人間は時間に正確です」
「神殿の外でも?」
リーセは答えなかった。
答える必要がないと判断した顔だった。
彼女は懐から薄い封筒を取り出した。
「7層のデータです。サンプル数は6層より少ない——312件。死亡例が多くて、記録が途切れているものが相当数あります」
「死亡例が多い」
「蘇生が追いつかなかったケースも含めて、7層の致死率は全層中で最も高い。生還率は43%」
43。
数字を頭の中で転がした。
6層が68%だったことを思えば、落差がきつい。
「わかった」
手を伸ばすと、リーセは封筒を渡した。
ただし、すぐには離さなかった。
「一つ、聞いていいですか」
俺は封筒を引いた。リーセの指が、ほんの一瞬だけ抵抗するような間があって、それから離れた。
「聞け」
「なぜ7層に行くんですか」
「オッズを取るためだ」
「それだけ?」
「それだけだ」
リーセは少しだけ黙った。
水の音が低く続いている。
「嘘ですね」
俺は封筒を上着の内側に収めた。
「根拠は」
「あなたのオッズの動かし方を見てきました。利益だけが目的なら、もっと安全な層で長く稼ぐほうが合理的です。でも、あなたは毎回次の層に行く」
「効率の問題だ」
「そうは見えません」
言い切った。
感情が動いた顔ではない。ただ静かに、計算で出した結論を告げる口調だった。
「——帰る方法を探してる」
自分でも少し驚いた。
言うつもりじゃなかった。
リーセが初めて、わずかに目を細めた。
「帰る、というのは」
「この世界じゃない場所に。俺には元いた場所がある」
「……そう」
いつもの短い相槌だった。
でも今回は、その後に言葉が続いた。
「最深部まで行けば、帰れると思っているんですか」
「わからない。ただ、神の恩寵とやらが唯一の手がかりだ」
「根拠のない賭けですね」
「根拠のない賭けはしない」
「でも今は根拠がない」
「——だから情報を集めてる」
リーセは少しの間、俺の顔を見ていた。
観察している、という顔だった。
値踏みとは違う。もっと静かな、何かを測るような視線。
「一つ、話します」
声のトーンが落ちた。
周囲を確認するような間があった。
「神殿の上層部は、あなたの帰還を望んでいません」
「知ってる」
「知っていて続けるんですか」
「知ってるから計算してる」
リーセは一瞬だけ、何かを言いかけた。
口が開いて、でも言葉にならないまま閉じた。
「……そう」
今度は短かった。
彼女は壁から背を離した。マントのすそが石畳を掠める。
「7層の特徴を一つだけ、口頭で補足します」
「聞く」
「記録には出てきませんが——蘇生から戻った冒険者が複数、同じことを言っています」
水の音が、ふっと低くなった気がした。
「7層には、声があります」
「声?」
「ダンジョンの声です。何かを語りかけてくる。内容は人によって違う。ただ全員が、『聞こえた』と言う」
俺はリーセの数値を流した。
「観察:強」の端に、今まで見たことのない滲みが出ていた。
数値じゃない。形のない、何か薄いもの。
「お前も聞いたことがあるか」
リーセは答えなかった。
答えない、ということが答えだった。
彼女はフードを上げた。
「次に会うのは8層のデータを取りに来るときです」
「お前から来るのか、俺が行くのか」
「私が来ます」
「神殿に知られる」
「問題ありません」
問題ない、という言葉の裏に何があるのか、俺には読めなかった。
数値も、今は教えてくれなかった。
リーセは路地を出ていった。
石畳の足音が、遠ざかって、消えた。
しばらくそこに立っていた。
水受けの縁に手をついた。冷たかった。
石の冷たさが、指先から手のひら全体に広がってくる。
——7層には、声がある。
何を語りかけてくるのか。
俺に語りかけてくるものがあるとして、それは何だ。
《命運読み》は答えてくれない。
このスキルは他人のことしか教えてくれないから。
自分のことは、いつも自分で決めるしかない。
封筒の厚みを、上着の上から確かめた。
312件のデータが入っている。
「さて」
水音を背に、路地を出た。
空が橙から紫に変わりかけていた。
市場の喧騒が、壁の向こうで続いている。
——7層のオッズは、今日の夕方で何倍になった。
明日の朝、確認する。
数字は、嘘をつかない。




