第9話 出動! ポンコツ新人と救急車同乗研修
今日のユキと麻那は、地域の消防署に詰め、待機室のパイプ椅子に座っていた。
ユキの病院で毎年行われている『救急車同乗研修』。プレホスピタル(病院前救護)を学ぶため、新人が一人ずつ救急車に乗り込むというものだ。
本来は新人単独の研修だが、今年からは「連携強化」の名目でプリセプター(指導係)も同行することになってしまった。
救急車内の設備説明を終えた後、要請が来るまでは待機室で過ごす。
ユキは顔馴染みの救急隊員たちと軽く雑談を交わしながら、リラックスして過ごそうとしていた。
一方、新人の麻那はというと――。
「ついにプレホスピタルの最前線ですね! 私、どんな重症患者様でも心に寄り添って――」
無駄にテンションが高く、キラキラしている。
(……はぁ。大丈夫かなぁ。というか、私の方が大丈夫かな……)
ユキは麻那の空回り具合にため息をつきつつ、自分の胃のあたりをそっと押さえた。
実はユキ、極度の車酔い体質なのだ。
出勤前と消防署到着後の二回に分けて、しっかりと規定量の上限まで酔い止めを飲んできている。
『とにかく今日一日、吐かずに乗り切る』
それが、今日のユキの裏ミッションだった。
今日の研修中は、かかりつけがない限りユキ達の病院のERが全件引き受ける契約になっている。
しばらく待機をすると、出動命令の電子チャイムが署内に流れた。
その直後に本指令が放送された。
『救急出動。救急出動――』
すぐさま二人は、隊員に続いて救急車に乗り込む。
サイレンの大きな音と無線の音が鳴り響き、車体が大きく揺れ出す。先ほどまで鼻息荒く語っていた麻那のやる気は隠れ、ガチガチに緊張して、車がカーブするたびに「ひっ」と小さく悲鳴を上げ手すりにしがみついている。
『現着します!(現地に到着)』
それぞれが緊張したまま救急車から降りると、そこには重症患者――ではなく。
ただ泥酔して、道端の溝にすっぽりハマってしまった高齢男性がいた。
通りかかった人が通報してくれたらしい。
隊員がストレッチャーにおじいちゃんを乗せ、車内に収容する。
搬送先は、ユキ達が働いている病院だ。
「雪下さん、研修ルール通り貴院へ直行します」
「はい」
隊員はユキに声をかけ、無線で受け入れ準備の連絡をしている。
泥酔のおじいちゃんは、転んだ際に擦りむいたのか頭部から少し出血しているものの、他は無傷。
『泥酔している』という点を除けば、意識もしっかりしている。
ただ、とにかく『臭い』。
酒の匂いと、溝の泥と、そして――明らかに漏らしてしまっている排泄物の悪臭。
それが、密閉された救急車の狭い車内に、容赦なく充満していく。
(うっ……!!)
ただでさえ揺れで気持ち悪いのに、この悪臭。
ユキは座席のシートベルトで固定されながら、必死に口呼吸をして吐き気を堪えた。
そんなユキの死闘など知る由もなく、隊員は麻那にモニターの装着とバイタルサインの測定を促した。
麻那は血圧計のマンシェットを巻きながら、患者の顔を覗き込む。
「大丈夫ですか? どこか痛いところはないですか?」
寄り添うように声をかける麻那。
しかし男性は目を閉じたまま、呂律の回らない口調でだらしなく絡み始めた。
「お、ねーちゃんかわいいねぇ」
ユキはその様子を薄目で観察しながら、ツッコむ余裕はない。
ガタガタと容赦ない揺れと、充満する悪臭で、ユキの『車酔いゲージ』はゴリゴリと削られていく。
(やば。……吐きそう。お願いだから、早く着いて……!)
*
なんとか患者をERに引き継ぎ、再び消防署の待機室へ戻ってきた。
ユキは必死に車酔いを治めようと、椅子に深く腰を掛けじっとしていた。
まだ休憩も十分に取れないうちに、すぐ次の出動命令が署内に響く。
『救急出動。救急出動。急病。成人男性、室内にて転倒、意識障害あり――』
指令の音声が住所を読み上げるより早く、ユキは飲んでいたミネラルウォーターのキャップをキュッと締め、ガレージへ向かった。
サイレンを鳴らし、現場へ急行する救急車。
車内で激しく揺られながら、隊員がユキに声をかける。
「雪下さん、あと三分で現着します。『意識なし、いびきあり』とのことです!」
「了解。高橋さん、JCS(意識レベル)300を想定して。呼吸も止まりかけているはず。あと、隊員がまず状況確認するから、私たちは機材を持って後に続くわよ!」
「は、はいっ!」
現場に到着し、数分後。救急隊員がストレッチャーで素早く患者を車内に収容し、ガチャン! と重たいバックドアが閉まる。
『現着、収容! これより搬送開始します!』
サイレンが再び鳴り、救急車が発進する。
隊員が無線で消防署へ連絡をとり、次に病院へ連絡する。
「JCS300、血圧210の120、HR(心拍数)110、SpO2(酸素飽和度)ルームエアーで88! 瞳孔3の3、対光反射鈍。右半身麻痺疑い、到着まであと五分!」
(脳出血か。今ここで呼吸が止まってもおかしくない――)
車酔いで顔面蒼白のユキだったが、患者のバイタルサインと状態を見て、瞬時に脳内で変換した。
一方の麻那は、メモ帳を開いたまま完全にフリーズしていた。
「えっ、ジェイ……えっ? 血圧いくつって言いました?」
隊員の申し送りが早すぎて、麻那の耳には全く聞き取れなかったのだ。
救急車がさらに加速する。
「右曲がります! 揺れますよ!」
交差点を曲がった救急車は大きく揺れ、座ったままバランスを崩した麻那は「きゃっ!」と頭上の棚にゴツンと頭をぶつけた。
「いった……」と涙目でつぶやく麻那。
だが、ユキは麻那に気遣うことなく、患者の顎を持ち上げ、気道を確保しながら鋭い声を出す。
「高橋さん、アンビュー(蘇生バッグ)!! 早く、一秒でも早く酸素を送って!」
麻那は震える手でアンビューバッグを掴むが、患者の口元に密着させる手元が定まっていない。
モニターの数値が、警告アラームを鳴らし続ける。
【SpO2 86%】。数値はさらに下がっている。
「もたもたしないで、しっかりシール(密着)させて! 脳圧が上がってる、このままだと心臓止まっちゃう!」
ユキは麻那の手を上から力強く押さえつけ、無理やりマスクを固定させた。
シュッ、シュッ、と規則正しくバッグを押し込む。
「高橋さん、このリズム、忘れないで。私が吸引やるから、あなたはバッグを押し続けて。いい?」
「……うぅ、は、はい!」
麻那は涙を溜めたままバッグを押し続ける。
【BP(血圧)218/125】
ユキはモニターから目を離さず、狭く揺れる車内で的確に処置を進める。
「雪下さん、病院に連絡入れます!」
助手席から隊員が無線機を手に、ユキに声をかけた。
「脳外(脳神経外科)レッド! JCS300、血圧218、SpO2低下、右麻痺! 甲斐先生に直通でお願いします!」
ユキは指示を飛ばし、もう一度患者の瞳孔を確認した。
そして、隣で震えながらバッグを押す麻那へ、真っ直ぐに視線を向ける。
「……高橋さん。ちゃんと見ておきなさいね。これが私たち救命ナースの戦ってる現場だから」
麻那は顔を上げられないまま、ただ必死に手を動かし続けた。
「――あと一分で病院到着!」
前方の窓から見慣れた病院が見えてきた。
あそこには、あの冷徹な医師が、手術の準備をして待っているはずだ。
「よし。高橋さん、よく頑張った。申し送りは私がやるから、一字一句漏らさず聞いててね。――行くよ!」
救急車がブレーキと共にERの搬入口に滑り込む。
バックドアが開くと、そこにはストレッチャーを待ち構える甲斐公貴とスタッフたちの姿があった。
「甲斐先生! 六十代男性、自宅で倒れているところを家族が発見。JCS300、血圧218、右半身麻痺、対光反射鈍! 車内でSpO2低下したため、アンビューで換気しつつ搬入しました」
ユキはストレッチャーを降ろしながら、早口だが噛むことなく、完璧な申し送りをした。
甲斐は短く「了解した」と頷き、すぐさま患者の瞳孔にペンライトを当てる。
「オペ室に連絡。CT撮って直行する。……雪下、よく繋いだ」
「はい」
甲斐たちがストレッチャーと共に嵐のように処置室の奥へ消えていく。
その後ろ姿を見送った瞬間――。
プツン。
ユキの中で、張り詰めていた気力の糸が切れた。
同時に、先ほどまで気合いでねじ伏せていた『究極の車酔い』が押し寄せてきた。
「……ゆ、雪下先輩!?」
麻那が声をあげ、ユキに駆け寄る。
無理もない。振り返ったユキは、雪下という名が冗談に聞こえないほど、彼女の顔面が雪のように真っ白で、壁に寄りかかっていたのだ。
「先輩! しっかりしてください! だ、誰か、ストレッチャー! あっ、バイタルも測らなきゃ!」
「……コラ。……いいから、高橋さんは、自分の……記録、まとめなさい……」
ユキはうわ言のように呟き、白目を剥いてガクンと膝から崩れ落ちた。
◇
「お疲れ……、私……」
その夜。
ユキは自宅のベッドの上で、廃人のように横たわっていた。
今日はレモンサワーを飲む元気もない。
テーブルの上には、コンビニで買ってきた経口補水液と、胃薬だけがポツンと置かれている。
天井を見つめながら、昼間の自分の惨態を思い出す。
申し送りを終えた後、エチケット袋に顔を突っ込んでえずく自分。
そこを通りかかった甲斐が「……お前、患者より顔色悪いぞ」と呆れ果てた顔をしていたのを、鮮明に覚えている。
「あー、もう最悪……。あんなとこ、甲斐先生には見られたくなかったのに……」
恥ずかしさでベッドの上で、ゴロゴロと身悶えする。
けれど、隣で泣きそうになりながらアンビューバッグを揉んでいた麻那の顔を思い出すと、少しだけ口角が上がった。
あの子も、今日で少しは『現場のリアル』が分かったはずだ。
「ま、先輩っぽいとこも見せられたし、いっか」
ユキは寝返りを打ち、スマホでいつもの『雨音』のBGMを流した。
ザアザアという規則正しい音が、車酔いの名残を優しく洗い流してくれる。
救急は止まらない。
けれど。
「……明日の私。もう、車には乗らないでね……」
ユキは小さく呟きながら、泥のような眠りへと落ちていった。




