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キュウメイナース、ユキちゃん  作者: 逢見彩依
第2章 傷だらけのリハビリ
9/10

第9話 出動! ポンコツ新人と救急車同乗研修


 今日のユキと麻那は、地域の消防署に詰め、待機室のパイプ椅子に座っていた。

 

 ユキの病院で毎年行われている『救急車同乗研修』。プレホスピタル(病院前救護)を学ぶため、新人が一人ずつ救急車に乗り込むというものだ。

 本来は新人単独の研修だが、今年からは「連携強化」の名目でプリセプター(指導係)も同行することになってしまった。

 

 救急車内の設備説明を終えた後、要請が来るまでは待機室で過ごす。

 ユキは顔馴染みの救急隊員たちと軽く雑談を交わしながら、リラックスして過ごそうとしていた。

 

 一方、新人の麻那はというと――。


「ついにプレホスピタルの最前線ですね! 私、どんな重症患者様でも心に寄り添って――」


 無駄にテンションが高く、キラキラしている。


(……はぁ。大丈夫かなぁ。というか、私の方が大丈夫かな……)


 ユキは麻那の空回り具合にため息をつきつつ、自分の胃のあたりをそっと押さえた。


 実はユキ、極度の車酔い体質なのだ。

 出勤前と消防署到着後の二回に分けて、しっかりと規定量の上限まで酔い止めを飲んできている。

『とにかく今日一日、吐かずに乗り切る』

 それが、今日のユキの裏ミッションだった。


 今日の研修中は、かかりつけがない限りユキ達の病院のERが全件引き受ける契約になっている。

 

 しばらく待機をすると、出動命令の電子チャイムが署内に流れた。

 その直後に本指令が放送された。


『救急出動。救急出動――』

 すぐさま二人は、隊員に続いて救急車に乗り込む。

 

 サイレンの大きな音と無線の音が鳴り響き、車体が大きく揺れ出す。先ほどまで鼻息荒く語っていた麻那のやる気は隠れ、ガチガチに緊張して、車がカーブするたびに「ひっ」と小さく悲鳴を上げ手すりにしがみついている。


『現着します!(現地に到着)』

 

 それぞれが緊張したまま救急車から降りると、そこには重症患者――ではなく。

 ただ泥酔して、道端の溝にすっぽりハマってしまった高齢男性がいた。

 通りかかった人が通報してくれたらしい。

 

 隊員がストレッチャーにおじいちゃんを乗せ、車内に収容する。

 搬送先は、ユキ達が働いている病院だ。


「雪下さん、研修ルール通り貴院へ直行します」

「はい」


 隊員はユキに声をかけ、無線で受け入れ準備の連絡をしている。

 

 泥酔のおじいちゃんは、転んだ際に擦りむいたのか頭部から少し出血しているものの、他は無傷。

 『泥酔している』という点を除けば、意識もしっかりしている。


 ただ、とにかく『(くさ)い』。

 酒の匂いと、溝の泥と、そして――明らかに漏らしてしまっている排泄物の悪臭。

 それが、密閉された救急車の狭い車内に、容赦なく充満していく。


(うっ……!!)

 

 ただでさえ揺れで気持ち悪いのに、この悪臭。


 ユキは座席のシートベルトで固定されながら、必死に口呼吸をして吐き気を堪えた。

 

 そんなユキの死闘など知る由もなく、隊員は麻那にモニターの装着とバイタルサインの測定を促した。

 麻那は血圧計のマンシェットを巻きながら、患者の顔を覗き込む。


「大丈夫ですか? どこか痛いところはないですか?」


 寄り添うように声をかける麻那。

 しかし男性は目を閉じたまま、呂律の回らない口調でだらしなく絡み始めた。


「お、ねーちゃんかわいいねぇ」


 ユキはその様子を薄目で観察しながら、ツッコむ余裕はない。

 ガタガタと容赦ない揺れと、充満する悪臭で、ユキの『車酔いゲージ』はゴリゴリと削られていく。


(やば。……吐きそう。お願いだから、早く着いて……!)



 *


 なんとか患者をERに引き継ぎ、再び消防署の待機室へ戻ってきた。

 ユキは必死に車酔いを治めようと、椅子に深く腰を掛けじっとしていた。


 まだ休憩も十分に取れないうちに、すぐ次の出動命令が署内に響く。


『救急出動。救急出動。急病。成人男性、室内にて転倒、意識障害あり――』


 指令の音声が住所を読み上げるより早く、ユキは飲んでいたミネラルウォーターのキャップをキュッと締め、ガレージへ向かった。


 サイレンを鳴らし、現場へ急行する救急車。

 車内で激しく揺られながら、隊員がユキに声をかける。


「雪下さん、あと三分で現着します。『意識なし、いびきあり』とのことです!」

 

「了解。高橋さん、JCS(意識レベル)300を想定して。呼吸も止まりかけているはず。あと、隊員がまず状況確認するから、私たちは機材を持って後に続くわよ!」


「は、はいっ!」


 現場に到着し、数分後。救急隊員がストレッチャーで素早く患者を車内に収容し、ガチャン! と重たいバックドアが閉まる。


『現着、収容! これより搬送開始します!』


 サイレンが再び鳴り、救急車が発進する。

 隊員が無線で消防署へ連絡をとり、次に病院へ連絡する。


「JCS300、血圧210の120、HR(心拍数)110、SpO2(酸素飽和度)ルームエアーで88! 瞳孔3の3、対光反射鈍。右半身麻痺疑い、到着まであと五分!」


(脳出血か。今ここで呼吸が止まってもおかしくない――)


 車酔いで顔面蒼白のユキだったが、患者のバイタルサインと状態を見て、瞬時に脳内で変換した。

 一方の麻那は、メモ帳を開いたまま完全にフリーズしていた。


「えっ、ジェイ……えっ? 血圧いくつって言いました?」


 隊員の申し送りが早すぎて、麻那の耳には全く聞き取れなかったのだ。

 救急車がさらに加速する。


「右曲がります! 揺れますよ!」


 交差点を曲がった救急車は大きく揺れ、座ったままバランスを崩した麻那は「きゃっ!」と頭上の棚にゴツンと頭をぶつけた。


「いった……」と涙目でつぶやく麻那。

 だが、ユキは麻那に気遣うことなく、患者の顎を持ち上げ、気道を確保しながら鋭い声を出す。


「高橋さん、アンビュー(蘇生バッグ)!! 早く、一秒でも早く酸素を送って!」


 麻那は震える手でアンビューバッグを掴むが、患者の口元に密着させる手元が定まっていない。

 

 モニターの数値が、警告アラームを鳴らし続ける。


 【SpO2 86%】。数値はさらに下がっている。


「もたもたしないで、しっかりシール(密着)させて! 脳圧が上がってる、このままだと心臓止まっちゃう!」


 ユキは麻那の手を上から力強く押さえつけ、無理やりマスクを固定させた。

 シュッ、シュッ、と規則正しくバッグを押し込む。


「高橋さん、このリズム、忘れないで。私が吸引やるから、あなたはバッグを押し続けて。いい?」


「……うぅ、は、はい!」


 麻那は涙を溜めたままバッグを押し続ける。

 

【BP(血圧)218/125】


 ユキはモニターから目を離さず、狭く揺れる車内で的確に処置を進める。


「雪下さん、病院に連絡入れます!」


 助手席から隊員が無線機を手に、ユキに声をかけた。


「脳外(脳神経外科)レッド! JCS300、血圧218、SpO2低下、右麻痺! 甲斐先生に直通でお願いします!」


 ユキは指示を飛ばし、もう一度患者の瞳孔を確認した。

 そして、隣で震えながらバッグを押す麻那へ、真っ直ぐに視線を向ける。


「……高橋さん。ちゃんと見ておきなさいね。これが私たち救命ナースの戦ってる現場だから」


 麻那は顔を上げられないまま、ただ必死に手を動かし続けた。


「――あと一分で病院到着!」


 前方の窓から見慣れた病院が見えてきた。

 あそこには、あの冷徹な医師が、手術の準備をして待っているはずだ。


「よし。高橋さん、よく頑張った。申し送りは私がやるから、一字一句漏らさず聞いててね。――行くよ!」


 救急車がブレーキと共にERの搬入口に滑り込む。

 バックドアが開くと、そこにはストレッチャーを待ち構える甲斐公貴とスタッフたちの姿があった。


「甲斐先生! 六十代男性、自宅で倒れているところを家族が発見。JCS300、血圧218、右半身麻痺、対光反射鈍! 車内でSpO2低下したため、アンビューで換気しつつ搬入しました」


 ユキはストレッチャーを降ろしながら、早口だが噛むことなく、完璧な申し送りをした。


 甲斐は短く「了解した」と頷き、すぐさま患者の瞳孔にペンライトを当てる。


「オペ室に連絡。CT撮って直行する。……雪下、よく繋いだ」

「はい」


 甲斐たちがストレッチャーと共に嵐のように処置室の奥へ消えていく。

 その後ろ姿を見送った瞬間――。


 プツン。

 ユキの中で、張り詰めていた気力の糸が切れた。

 同時に、先ほどまで気合いでねじ伏せていた『究極の車酔い』が押し寄せてきた。


「……ゆ、雪下先輩!?」


 麻那が声をあげ、ユキに駆け寄る。

 無理もない。振り返ったユキは、雪下という名が冗談に聞こえないほど、彼女の顔面が雪のように真っ白で、壁に寄りかかっていたのだ。


「先輩! しっかりしてください! だ、誰か、ストレッチャー! あっ、バイタルも測らなきゃ!」


「……コラ。……いいから、高橋さんは、自分の……記録、まとめなさい……」


 ユキはうわ言のように呟き、白目を剥いてガクンと膝から崩れ落ちた。


 ◇


 「お疲れ……、私……」


 その夜。

 ユキは自宅のベッドの上で、廃人のように横たわっていた。

 

 今日はレモンサワーを飲む元気もない。

 テーブルの上には、コンビニで買ってきた経口補水液と、胃薬だけがポツンと置かれている。


 天井を見つめながら、昼間の自分の惨態を思い出す。

 申し送りを終えた後、エチケット袋に顔を突っ込んでえずく自分。

 そこを通りかかった甲斐が「……お前、患者より顔色悪いぞ」と呆れ果てた顔をしていたのを、鮮明に覚えている。


「あー、もう最悪……。あんなとこ、甲斐先生には見られたくなかったのに……」


 恥ずかしさでベッドの上で、ゴロゴロと身悶えする。

 けれど、隣で泣きそうになりながらアンビューバッグを揉んでいた麻那の顔を思い出すと、少しだけ口角が上がった。


 あの子も、今日で少しは『現場のリアル』が分かったはずだ。


「ま、先輩っぽいとこも見せられたし、いっか」


 ユキは寝返りを打ち、スマホでいつもの『雨音』のBGMを流した。

 ザアザアという規則正しい音が、車酔いの名残を優しく洗い流してくれる。


 救急は止まらない。


 けれど。


「……明日の私。もう、車には乗らないでね……」


 ユキは小さく呟きながら、泥のような眠りへと落ちていった。

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