第8話 理想と現実のトリアージ
「……おいひい〜! 今日、当たりの日ですね、先輩!」
ここは病院内の職員専用の食堂。ユキは先輩である川田と向かい合って、日替わりランチを食べている。
今日のメニューは、ユキの大好きなチキン南蛮定食だ。目の前のトレーには、タルタルソースがたっぷりとかかったチキンと、山盛りのキャベツ。小鉢と味噌汁、そして湯気をたてる白いご飯が並んでいる。
「ユキちゃん、ほんとに幸せそうに食べるねぇ。……それで? 久々のプリセプター(教育係)はどうなのよ?」
「あ、そうそう。聞いてくださいよ!」
ユキは箸を持ったまま、前のめりになって愚痴を爆発させた。
「もう本当、高橋さんたら『患者様の心に寄り添う』ばっかりで、全然技術が追いついてないんですよ! おしゃべりしてないで手を動かせって感じです!」
「プッ! あはは!」
「ちょっと先輩、何笑ってるんですか」
「だってさ、昔のユキちゃんもあんな感じだったじゃない。まさか自分が『患者さんがかわいそうですぅ〜』って泣いてたの、忘れたの?」
「うっ……!」
痛いところを突かれ、ユキはチキン南蛮を喉に詰まらせそうになった。
「そ、それは黒歴史で、私のプリセプターだった川田先輩しか知らないんだから、絶対に内緒ですよ!」
「はいはい。そうね、あの泣き虫なユキちゃんも、立派に成長したもんねぇ」
「ま、まあ、とにかく! 高橋さんにも、甲斐先生みたいな冷血ロボットのようになれとは言いませんけど。もうちょーっと現場を見てほしいというか……。変なところで地雷踏まないか、ハラハラしっぱなしですよ」
ユキは大きくため息をつき、お茶をごくりと飲み干した。
午後からの業務も、あの「夢みがちな新人」のお守りが待っている。
(どうか、午後も平和でありますように)
ユキのそんなささやかな願いが、数時間後に最悪な形で裏切られることを、この時の彼女はまだ知る由もなかった。
◇
ランチから戻ったユキは、麻那と合流してICUの業務をこなしていた。
救急カートのチェックが終わったところで直通電話が鳴る。
ユキは麻那に「見てて」と合図を送り、受話器を取った。
「はい、ICUです」
『OPE室です。SAH(くも膜下出血)の緊急オペ、終了しました。これからそちらに患者さんをお連れします』
ICUに運び込まれた患者は、四十代の男性。
朝、意識不明の状態でERに搬送され、そのまま直接OPE室へ運ばれていた。
今のところなんとか命は取り留めたが、予断を許さない状況だ。
ユキは麻那に説明をしながら、素早く処置をしていく。電子カルテを二人で確認し、観察すべきところなどを質問形式で指導していく。
処置が一段落し、麻那にモニターの見方を教えていた、その時。
慌ただしい足音と共に、この患者の家族がICUに到着した。
カルテには「遠方からの出張中」という情報があった。妻と見られる女性は、知らせを聞いて大急ぎで駆けつけたのだろう。
彼女は青ざめた表情で、ボロボロと涙を流しながら患者のベッドへ近づいてきた。そしてユキと麻那を見るなり、縋るように尋ねる。
「夫は……この人は大丈夫なんですか! いつ、どこで倒れちゃったんですか!?」
(この後、甲斐先生からのIC(病状説明)があるはず。下手に看護師から病状や詳細は伝えるわけにはいかない――)
妻の言葉を聞いて、ユキは頭の中で瞬時に対応を計算した。まずは落ち着かせて、医師を呼ぼう。
「落ち着いてください。先ほど手術が終わった――」
「あの! 奥様、落ち着いてください!」
ユキの言葉を遮って、隣にいた麻那が一歩前に出た。
そして、『患者、家族に寄り添う』という言葉を履き違えた、謎の使命感を燃やし、馬鹿正直に、ハキハキとした声で言い放った。
「ご主人は〇〇の繁華街のラブホテルから搬送されました! デリバリーヘルスご利用中に倒れられまして――」
ユキは絶句し、信じられないという顔で麻那を凝視する。
デリバリーヘルスとは、いわゆる風俗だ。
(ちょっ、おま、バカァァァッ!! それ今言わなくていいやつ!!)
ユキは心の中で盛大に叫んだ、その時。
ピタッと、妻が流していた涙が嘘のように止まった。
悲しみに暮れていたはずの顔が、スゥッと感情の抜け落ちた「無」になり――次の瞬間、額に青筋を浮かべた般若のような形相へと変わった。
ピコン、ピコン。
モニターの無機質な音だけが響く中、ICUの空気は、完全に凍りついた。
◇
嫌な空気が流れる中、ユキはなんとか妻を落ち着かせ、甲斐のIC(病状説明)に同席した。
それが終わると、甲斐はナースステーションの奥にある準備室に麻那を呼び出した。ユキもその後ろについていく。
「お前の仕事は治療に必要な『医療情報』を正確に伝えることだ。事実を並べて、家族を混乱させて破滅させることじゃない」
甲斐は麻那を冷めた目で見下ろし、短く叱責した。
さすがのユキも、今回ばかりは甲斐の言葉には同意せざるを得なかった。
(……まぁ、これは叱られても仕方ないよね。いや、でも私がプリセプターだし、とばっちり受けるじゃん……)
ユキが心の中でため息をついたのと同時に、麻那がまたボロボロと泣き出した。
「……うぅ、すみません。私、情報をしっかり伝えれば、ご家族も状況がわかって安心できると思って……うぅっ」
甲斐は呆れたように短く息を吐き、その冷え切った視線を麻那からユキへ移した。
「雪下。お前がよく指導しておけ」
「……はい」
それだけを言い放ち、甲斐はさっさと立ち去った。ユキはげんなりした表情を必死で隠しつつ、麻那の方へ振り返り、両手で彼女の肩を掴んだ。
「高橋さん。患者や家族に誠実でいることは大事だけど、その場任せで全部口に出せばいいってことじゃない。相手がパニックになっていたら、肝心な治療の話が耳に入らなくなっちゃうでしょ?」
「うぅ……はいぃ……」
「だから、順を追って、相手が受け止められるタイミングを見て説明しなきゃいけない。患者さんの命と家族の『これから』を守るためにね」
「……そんなに悪いことだったんですね。私、ただカルテに書いてあることをそのまま……すみません……」
麻那はズズっと鼻をすすり、少しだけ首を傾げて、涙目のまま雪を見上げた。
「……あの、雪下先輩」
「なに?」
「そもそも『デリバリーヘルス』って、何を頼むところなんですか? 健康食品か何かですか……?」
ピシッと、ユキはフリーズした。
こいつ、意味もわからずカルテに書いてあったことを、馬鹿正直に大声で読み上げていたのか。
(……そこから!? そこから教えなきゃいけなかったのかぁぁっ……!)
ユキは両手で顔を覆い、今日一番のため息をついた。
◇
アパートまでの帰り道。
今日もしっかり残業をして、夜道を歩く。
ユキはビールと焼き鳥の入ったコンビニの袋を片手に、重い足を動かしていた。
「もぉ〜! ヘトヘトなんだけど! まだ子守始めてから一週間もたってないじゃん!」
先が思いやられる……。
そんな思いが、周りに誰もいないのをいいことに、特大の愚痴となり口から飛び出す。
ぶつぶつ言いながらアパートまで帰ると、ドアの前に段ボールの置き配がしてあった。
送り主はおばあちゃんだ。部屋に運び込んで開けてみると、中には泥付きの野菜や、タッパーに詰められた手作りのおかずが入っていた。
ユキは着替える前にスマホを取り出し、おばあちゃんに電話をかけた。
「……もしもし?」
「あ、もしもし、おばあちゃん? ユキだけど。荷物受け取った! ありがとう、ほんとに助かるー」
「ユキ? ああ、届いたんだね。……あんた、また無理してない? 声が疲れてるよ」
電話越しの少し掠れた声に、ユキは無意識に肩の力を抜いた。
「……あー、ううん。今日はね、ちょっと先輩っぽいことしたからね」
「そうかい。ユキの手は温かいからね。きっと患者さんも、後輩の子も。安心するねぇ」
「ふふっ、ありがと。……また休みとって、そっちに帰るね」
電話を切ると、今日一日の疲れがスッと抜けていった感覚があった。
自分の不器用な手が、誰かを安心させているのだろうか。そうであってほしいと願いながら、ユキは少し胸がポカポカしたまま、風呂へ向かった。
◇
頭にヘアバンドをつけたままのパジャマ姿で、冷蔵庫からビールを取り出し、プシュッと音を立てて開ける。
テーブルの上の今日の酒のお供は、コンビニの焼き鳥と、おばあちゃんの手作りの煮物だ。
出汁の染みた大根を口に入れると、優しい甘さが広がった。
「いっただきまーす! 今日は最高のおかずだし! 明日はやっと休みだし!」
ユキは機嫌よく缶ビールを傾け、ぐいっと煽る。
「ぷはぁ〜っ! 今日は寝落ちするまで漫画読んじゃおうかなぁー?」
救急は、止まらない。
ベッドの上で、ゴロゴロとスマホで漫画を読んでいると、案の定すぐに心地いい眠気がやってきた。
「……明日の私。朝寝坊しようね……」
ユキは幸せなため息をつき、ゆっくりと目を閉じた。




