第7話 嵐を呼ぶ、泣き虫ルーキー
「え、私がですか!?」
ユキは師長室に呼び出されていた。
師長は、眉を下げ微笑みながらユキの肩に手を置いた。
「今年の新人、ユキちゃんにお願いしたいの」
「えっ、プリセプター(教育係)ですか!? 私、もう七年目ですし、通常は三、四年目がする――」
「本来担当するはずだった子が産休に入っちゃってね。人員不足なのよ」
(いやいや、私自身が今、感情のリハビリ中で一杯一杯なんですけど!?)
「それに……、今のユキちゃんなら、厳しさと優しさの両方を教えられると思って」
「……はぁ。わかりました……」
◇
師長の押しに負け、ユキは結局プリセプター(教育係)を引き受けた。
ユキの病院では、新人ナースは入社後、病院全体のオリエンテーションを経て任命式にて配属先が発表される。
高橋麻那もすでに救命センターには配属されていたが、これまでは研修や採血室での勤務ばかりだった。今日初めて、プリセプターについてERの実践に入る初日だ。
「高橋麻那です! 私の目標は、患者様の心に一番近くで寄り添えるナースになることです!」
ICUのナースステーションで元気よく挨拶をしたのは、ユキが受け持つ新人だ。
少し明るめの髪を一つに結び、メイクもバッチリ。
いかにも『今どきの子』だが、目はキラキラとしており、やる気が伝わってくる。
忙しいICUのスタッフは、「はいはい」「よろしくー」と軽く反応しただけだ。
教育係でもあるユキは、彼女のそのやる気に満ちた言葉を聞き、胸の奥がざわついた。
『寄り添えるナース』
それはかつて自分が信じていた言葉であり、甲斐に「自己満足」と切り捨てられた言葉だったからだ。
(……うわぁ。やりにくい子が来たなぁ)
ユキは内心、そんなことを思いながら大きなため息を吐き出した。
そもそも、プリセプターになると、新人勤務に合わせて必然的に『日勤』ばかりが連続するシフトを組まれることになる。
夜勤や変則シフトに慣れきった身体には、毎朝同じ時間に起きて満員電車に揺られるというだけで、かなりの体力を削られるのだ。
ただでさえ寝不足なのに、やりにくい新人の子守りまで追加されるなんて。
(……こりゃ、先が思いやられる)
◇
今日の担当のERへと移動したユキは、まずは命に関わらない軽症患者の対応から麻那に任せることにした。
めまいを訴えて搬送された八十代の女性。
バイタル(血圧や脈拍など)を測り、医師の問診へ繋ぐのが最初のミッションだ。
その間に自分の記録を済ませようとPCへと向かったユキだったが、記録を終えても、麻那がいつまで経っても戻ってこない。
様子を見にいくと、麻那は血圧計を巻いたまま、患者と笑顔で話し込んでいた。
耳に入ってきたのは「孫が今度大学に……」という世間話。麻那はそれにニコニコと付き合っていたのだ。
ERは待合室に多くの患者が溢れかえっている状態だ。
ユキは急かした言い方で声をかける。
「高橋さん、バイタルとれた? この方は次、先生の問診があるから。早く次の患者さんの採血に回って」
「あ! はいっ、すみません!」
急かされた麻那は、慌てて隣のベッドへ向かった。
次のミッションは、高齢男性の採血だ。
ユキは手順などの確認のために、隣からそっと覗き込んだ。
焦っているせいか、麻那の手が小さく震えていることに気がついた。
一度刺すが、血管に当たらず失敗。
「す、すみません……」
二度目の挑戦も失敗した。
「痛い! あんた新人か? 下手くそだな」
患者は不機嫌な声で、麻那に文句を言った。
麻那の肩がビクッと跳ねて涙目で謝る。
「うぅ、ごめんなさい」
見かねたユキは「すみません。私、代わりますね」とサッと間に割って入り、採血を一度で終わらせた。
すると、なんと麻那が患者の目の前で泣き出してしまったのだ。
(患者の前で泣くなんて!)
急いで麻那の腕を掴み、人目のいない廊下へ連れ出すと、麻那はさらに涙を溢れさせた。
「私、患者さんに痛い思いをさせて……かわいそうで……」
ユキは泣きながらそう言う麻那を見て、やり場のない苛立ちを覚えていた。
(技術不足を棚に上げて、かわいそうって何? 泣きたいのは刺された患者でしょ)
泣きじゃくる麻那を前にして、ユキは慰めようか、それとも叱ろうかと迷い、かける言葉を選んでいた。
強く注意をするべき場面だとは分かっている。けれど、ユキの脳裏には、先日ICUで自分自身が涙を流してしまった記憶がよぎっていた。
(自分だって泣いたばっかりなのに。どの口がこの子を叱れるの?)
そんな引け目から、ユキが黙り込んでしまった、その時。
「おい」
背後から、冷たい声が聞こえた。
振り返ると、そこにはスクラブを着た甲斐公貴が立っている。
甲斐は、泣いている麻那を一瞥し、感情のない声で言い放った。
「泣くなら場所を変えろ。現場の邪魔だ」
その氷のような一言に、麻那は「ひぃっ」と短く悲鳴を上げ、顔を覆ったままトイレに駆け込んでしまった。
残されたユキは、気まずさのあまり甲斐から目を逸らす。
甲斐は小さくため息をつくと、ユキへとジトリと冷ややかな視線を向けた。
何も言わなかったが、その視線はあからさまに『お前の教育はどうなっているんだ?』と語っていた。
甲斐が足音を響かせて立ち去った後、ユキは膝に手をつき深くため息をつく。
「……はぁぁ……。もう、胃が痛い」
白衣の上から胃のあたりをギュッと押さえる。
新人には泣かれ、天敵(甲斐)には睨まれ。
ただでさえ自分の感情のリハビリで一杯一杯なのに、この先どうなることやら。
前途多難という言葉しか、今のユキには思い浮かばなかった。
◇
終業後、ユキはICUのナースステーションに忘れ物をしたことを思い出し、取りに戻った。
歩き慣れた廊下を歩き、休憩室に入ろうとした時、中に誰かがいることに気づく。
入り口からそっと覗き込むと、そこには麻那がいた。彼女は練習用の採血キットを使い、ボロボロと泣きながら針を刺す練習を繰り返していた。
「次は絶対……うぅ……絶対成功させないと……」
日中はあんなにイライラさせられたのに、その健気な姿を見て、毒気を抜かれた。
そして同時に、七年前の自分の姿が重なる。
――不器用で、泣き虫で、それでも必死だった新人時代の自分。
(……なんだ。……昔の私、そっくりじゃん)
ユキは「はぁ」とため息をつくと、わざと足音を立てて休憩室に入り、麻那の背後から声をかけた。
「……角度、もうちょっと寝かせたほうが入りやすい」
麻那がビクッと肩を揺らし振り向く。ユキの顔を見るなり、その涙でぐしゃぐしゃの顔をパッと輝かせた。
「雪下先輩!!」
「はいはい、泣かないの。ほら、もう一回やってみて」
(やっぱり、前途多難だなぁ……)
ユキはその今にも子犬が尻尾を振るような、あどけない笑顔を見ながら、心の中で呆れたように呟いた。
◇
「お疲れー、私!!」
プシュッ! と良い音と共に、レモンサワーの缶を高く掲げ、今日も一人で乾杯。
テーブルの上には、もちろんコンビニの焼き鳥もある。
風呂上がりのパジャマ姿。髪も適当にアップにまとめただけのユキは、焼き鳥を頬張り、キンキンに冷えたレモンサワーを流し込んだ。
「……あー、まじで最高! だって今日はほんとーに疲れたんだもん!」
誰に言い訳をするでもなく独り言をこぼして、ユキはほろ酔いのまま、ベッドの枕に顔を埋める。
救急は、明日も止まらない。
プリセプターの仕事も、まだまだ終わらない。
「……明日の私、子守りもよろしくね……」
ユキは幸せなため息をつき、泥のような眠りへと落ちていった。




