第6話 邪魔な涙
仕事中に感情を溢れさせてしまったあの日から、数日後。
ユキは休日明けの勤務に入っていた。
いつものように、愛用の薄紫色の聴診器を首にかける。
その冷たい感触に、スッと背筋が伸びる気がした。
――あの時。
『私はもう逃げない』
そう決意したユキは、小さく深呼吸をして、気合を入れ直して現場に立つ。
けれど、ERの自動ドアが開いた瞬間、いつもとは違う『重さ』がのしかかってくるのを感じた。
はじめに搬送されてきたのは、脱水症状のある患者だ。
ユキはいつものようにルート確保(点滴)をする。
腕を圧迫し、静脈の位置を確認する。アルコール綿で消毒し、針を刺そうとした瞬間――。
指先に、患者の肌の「体温」が伝わった。
「っ……」
生々しい温かさに、一瞬指先が震える。
(なんかっ……怖い)
必死に気持ちを落ち着かせ、なんとか針を刺してルートを確保した。
ユキにとっては、ルート確保は毎日何回もするような、呼吸と同じ日常業務だ。
けれど、今日は機械的なスムーズさがない。
じわりと冷や汗が背中を伝う。
そんなユキの不安をよそに、救急搬送は止まらない。
すぐに次のホットラインが鳴る。
交通事故の患者。二十代、男性。
自転車と軽自動車の接触事故だ。
顔面からの血にまみれ、止血しながらストレッチャーからベッドへ移動する。
「「1、2、3――」」
看護師がルートを確保し、ユキはバイタル管理をしながら、止血と洗浄の処置と補助に当たった。
処置中、患者が苦痛で呻き声をあげる。
「うぅ……」
その血液まみれの顔と、苦しそうな声を聞いた瞬間。
ユキの脳裏に、先日ICUで息を引き取った患者の遺書――『もう無理』という文字がよぎった。
しかも、幻聴のように弟・龍太郎の声と重なる。
「ぁっ……!!」
目の前の患者が死んでしまうビジョンが浮かび、ユキの手は完全に止まってしまった。
アンビューバッグとカテーテルを握ったまま、固まった。
その一瞬の静止で、気道確保の介助がコンマ数秒、遅れた。
よりによって。
その気道確保をしている医師は、甲斐公貴だった。
甲斐は粗暴にユキからカテーテルを奪い取り、その手を払いのける。
自ら処置を引き継ぎ、怒鳴りつけた。
「代われ! 誰か他のナース!」
すぐに別の看護師が交代に入り、ユキは青ざめたまま、後ずさりで彼らの後ろに控えた。
気道確保が済み、命を取り留めた患者がICUへ運ばれていく。
嵐が去った処置室に、重苦しい静寂が場を支配する。
残ったのは、手袋を外す甲斐と、立ち尽くすユキだけだ。
甲斐はユキを見ずに、冷たく言い放つ。
「邪魔だ。今の数秒で、患者が死ぬ可能性があった」
その声の冷たさに、ユキは何も言い返せない。
甲斐はゴミ箱に手袋を投げ捨て、鋭い視線をユキに向けた。
「あの時みたいに泣くのは勝手だし、感情を持つのも自由だ。……けどな」
一歩、距離を詰められる。
「恐怖に振り回されて手が止まるなら、ここにはいらない。出ていけ」
突き放す言葉に、ユキは動揺した。
感情を取り戻すことは、プロとしての死を意味するのか?
正解がわからないまま、ユキはその場から逃げ出すことしかできなかった。
◇
終業時間まで、ユキの脳内では甲斐に叱責された言葉が、呪いのようにずっと再生されていた。
更衣室を出て、うつむいたまま重い足取りで家への道を歩く。
アスファルトを見つめて歩く視界の端に、見慣れたアパートのドアが見えてきた。
そのドアの前に、小さくうずくまっている人影がある。
「……姉ちゃん、おっそい」
顔を上げたその人物は、弟・龍太郎だった。
ユキは驚いて小走りで近づく。
外廊下の灯りの下で見る弟は、以前より頬がこけ、少し痩せているように見えた。
けれど、龍太郎はユキと目が合うなり、ニカっと明るい笑顔を作って見せた。
「姉ちゃん、顔死んでるぞ。飯食ってんのか?」
「え……そう、かな。龍太郎こそ」
ユキは、さっきまで落ち込んでいたことを悟られないよう無理やり口角を上げた。
姉として、心配させまいとする精一杯の虚勢だ。
すると、龍太郎はユキの腕をグイッと掴み、強引に歩き出した。
「肉だ、肉! 今日は俺の奢り!」
「ちょ、ちょっと龍太郎!?」
問答無用で、アパートから連れ出される。
強引な弟。けれど、手首を掴むその手の温度は、驚くほど温かかった。
その体温が、昼間現場で感じた『死への恐怖』を、少しだけ溶かしてくれた気がした。
◇
ユキと龍太郎は、アパートから近い焼肉屋に入った。
「うっわー、久しぶりだわ、この店」
「あー……私も久しぶりかも」
煙たい店内で龍太郎が肉を焼き、どんどんユキの皿に乗せていく。
二人の前には、ビールとレモンサワー。
「ほら、姉ちゃん、食え! 仕事キツいんだろ?」
「……まあね。……龍太郎も大変なんでしょ? あんたも食べなきゃ」
龍太郎は「ははっ」とはにかみ、焼いた肉を口に入れた。
「「うま」」
姉弟で声がハモった。
二人は顔を見合わせて、プッ、と同時に吹き出した。
ユキは目の前で笑う弟を見て、安堵していた。
同時に、あの日見た「動かない患者」と「泣き叫ぶ遺族」の姿が脳裏をよぎり、『この笑顔を失うのが怖い』という恐怖も再燃する。
(あんな絶望、二度としたくない。でも私が怖がっていたらこの子も……誰も救えない……)
ユキは心の中で呟く。
その間、龍太郎がビールのジョッキを傾けながら、遠くを見ていた。
「……俺もさ、頑張んねーとな……」
その小さな呟きは、店内の喧騒にかき消され、ユキの耳には届かなかった。
◇
焼肉を散々食べた後、龍太郎は「泊まってくわ」と言って、ユキの部屋へ一緒に帰った。
ユキが風呂から出ると、龍太郎はソファで高いいびきをかいて寝てしまっている。
まるで子供のような寝顔だ。
ユキはその顔を見て、幼少期の龍太郎を思い出しクスッと笑った。毛布をかけ直し、そっと弟の頬に手を伸ばす。
――温かい。
生きている体温だ。
今日、ERで患者に触れた時は、その体温が「消えていくもの」に思えて、怖くてたまらなかった。
けれど、今は違う。
ここにある温もりは、私が「守らなきゃいけないもの」だ。
怖がって手が止まれば、この寝顔さえ守れなくなる。
それなら、私は何度だってあの血の匂いがする現場に立つ。
手が震えても、足がすくんでも、歯を食いしばって。
救急は、明日も止まらない。
だから、震えて怖がっている暇なんてないのだ。
ユキはパン、と両手で自分の頬を叩いた。
「……よし。明日の私、リハビリ開始!」
ニカっと笑って、小さくガッツポーズを作る。
「もう怖くないよ!」




