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キュウメイナース、ユキちゃん  作者: 逢見彩依
第1章 明日の私に任せて
5/10

第5話 ちゃんと感じる、その痛み


 その日、ユキは日勤帯のICU勤務のシフトに入っていた。

 出勤時に見上げた空は、今にも泣き出しそうな厚い雲に覆われていた。


 ICUの中は、空調が効いていて外の天気など関係ないはずだ。

 けれど、今日の空気はやたらと湿っぽく、肌にまとわりつくような重たさがあった。


 悪い意味で、静かだった。

 重症患者の搬送が途絶え、モニターの電子音だけが規則正しく、ピッピッと、無機質なリズムを刻んでいる。

 ユキはこの湿った静けさが嫌いだった。

 経験上、こういう低気圧が近づく息苦しい空気の日には、「とんでもない仕事」が運ばれてくるからだ。


 ――プルルルル!!


 張り詰めた静寂を切り裂くように、ホットラインがけたたましく鳴り響いた。

 医師が受話器を取る。ユキは手を止めて、その背中を凝視した。


 受話器を置いた医師が振り返り、ユキを見据えて叫ぶ。


「雪下、準備!! ERからすぐにここに上がる! 二十代男性、CPA(心肺停止)だ」

「はい!」


 ユキは返事をしながら、もう身体は勝手に動いていた。

 モニター、人工呼吸器、DC(電気ショック機器)、救急カート。

 ベッドサイドのスペースを確保し、受け入れ体制を整える。秒単位の戦いだ。


 すぐに、ストレッチャーが雪崩れ込むように入ってきた。

 そばには甲斐公貴と、馬乗りになって胸骨圧迫を続ける看護師。

 ユキは走り寄りながら、モニターを接続し、ルート(点滴)を確認する。

 

 患者は全身打撲。顔面は元の造形がわからないほど腫れ上がり、口からはチューブが突き出している。

 申し送りによれば、高所からの転落事故。転落した先に、走行していたトラックが衝突したという。

 ERで最低限の処置だけ行い、ほぼ素通りでICUに運び込まれた。

 

「離れて! ショック行きます!」


 ドォン、と身体が跳ねる。だが、波形は戻らない。


「心タンポナーデ(心臓の周りに血が溜まる状態)だ。圧迫されて動いていない。……ここで開胸する」


 甲斐の判断に、スタッフが一瞬ざわついた。ICUでの緊急開胸手術は最終手段であり、滅多に行われることではない。

 甲斐と目があう。ユキは力強く頷き、開胸セットへと向かった。


 無影灯の下、甲斐を含む医師たちがメスを握る。

 ジジジッ、と肉が焼ける音。

 電気メスで皮膚を焼く独特の焦げた臭いが、マスクを通過して鼻腔を突いた。

 胸が開かれる。甲斐が直接、手で心臓を掴んでマッサージを行う。直接心臓マッサージ。

 その間、ユキは額に汗を浮かべながら、次々と指示される薬剤を注入し、記録を取り、モニターを凝視し続けた。

 

(戻って! お願い!)


 甲斐の目つきは鋭く研ぎ澄まされていた。けれどその手は、冷静に、無駄なく破れた血管を縫合し、心臓を刺激し続けている。

 一時的に波形は出る。けれど、形を成さず、すぐにフラット(心停止)に戻ってしまう。

 

(まだ20代。若い。生きてほしい)

 

 血液の鉄臭い臭いが充満する中、ユキは必死に祈った。

 ふと、ベッドに寝かされ胸を開けられているこの青年が、弟・龍太郎と同じくらいの背格好に見えることに気づく。


(……なんで、龍太郎?)


 嫌な汗が背中を伝った。

 顔は潰れていてわからない。同年代でたまたま背格好が似ているだけだ。関係ない。

 そう言い聞かせようとした時、甲斐が静かに手を止めた。

 

「……止めよう。もう心筋が動いていない」


(そんな……っ)


 ユキの祈りも虚しく、蘇生を止める判断が出た。


「……14時45分、死亡確認」


 甲斐の言葉が届き、ユキはやるせなさを押し殺して記録した。

 その時、「ユキちゃん、ちょっと」と背後から声がした。振り向くと同僚の看護師で、その隣に警察官が立っている。


「すみません、身元確認のため我々が預かっていました。彼の……所持品です。返却します」


 そう言って、警察官は黒いショルダーバッグをデスクの上に置き、それを開けた。

 中身はスマホ、財布、車の鍵のみ。

 彼は財布を取り出し、その中から免許証を出して見せた。


「〇〇〇〇さん、25歳。家族にはこちらから連絡してあります。もうすぐここへ到着すると思います」


 そう言って、掲げていた免許証と財布をユキに手渡した。


「25歳……」


 弟・龍太郎と全く同じ年齢だ……。ユキはさぁっと血の気が引くのを感じた。

 その時、手に持っていた患者の財布の外ポケットから、紙切れのようなものが覗いていることに気がついた。

 それを少し引っ張ってみると、手書きで書かれた文字が数行。


『もう無理。

 仕事も辛いし、彼女とも別れた。

 何もかも疲れた』


 それはたった今、自分達が蘇生を試みた患者の遺書だった。

 ユキはそれを見て、すぐに警察官に報告し、渡した。


 けれど、ユキの網膜には、あの『もう無理。』という文字が焼き付いて離れない。

 その瞬間、背筋が凍りついた。


 ――『仕事辞めたいわ〜(笑)マジで無理。』


 かつての龍太郎のメッセージが、脳内で響く。

 ユキは、気づいてしまった。

 

(あれは冗談なんかじゃなかった。SOS だったのかも)


 あの時、私が電話に出ていれば。忙しいなんて言い訳をして切り捨てなければ。

 この患者がもしも龍太郎だったら?

 そんな考えに至り、ユキは恐怖で震えた。


 その時、患者の家族がICUの中に到着した。

 通された家族の中に、ユキと同年代の女性がいた。患者の姉だろう。

 彼女は変わり果てた弟の姿を見るなり、その場に泣き崩れ、なりふり構わず叫び声を上げた。


「うそ、嘘でしょ……ねえ、嘘って言ってよぉ!!」

 

 その悲痛な叫びが、ICU中に響き渡る。

 ユキは動けなかった。

 目の前で泣き叫ぶ女性が、まるで「未来の自分」のように見えたからだ。


 ――『……話したいことあってさ』


 弟・龍太郎の声がフラッシュバックする。

 もし、あいつが本当に死んでいたら。

 今ここで泣き叫んでいるのは、私だったかもしれない。


(怖いっ……)


 恐怖と、後悔と、目の前のどうしようもない悲しみが、一気に押し寄せる。

 ユキの目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。

 もう、止められなかった。


 これでは、プロ失格の姿だ。そんなことはユキも理解している。

 けれど、どうすることもできず、顔を両手で覆い背を向けることが精一杯だった。

 

 そんなユキの近くを甲斐が通りかかり、彼女の肩に一瞬だけ手を置き、静かに言った。


「……今日は帰れ。もういい」


 それは突き放すような言葉ではなく、彼なりの「これ以上ここにいたらお前が折れるぞ」という配慮だった。


 ◇


 帰り道。ユキの目は、まだ赤く腫れている。

 いつもの公園のベンチで、温かいカフェオレを口に含む。


「……甘い」

 

 カフェオレの甘さが、昨日までの「麻痺した甘さ」ではなく、疲れた体に染み渡る「生きている甘さ」のように感じた。


(泣くのは辛い。感情を持つのは痛い)


 ユキはもう薄暗くなった宵色の空を見た。


(でも、おばあちゃんは言っていた。痛みを知っている手だけが、誰かを救えるんだって)


 ユキは震える手で、ポケットからスマホを取り出し、龍太郎にメッセージを送る。


『今度、絶対飯行こう。奢るから』


 既読はまだつかないし、いつ返事が来るか分からない。

 今度会ったら、ちゃんと顔を見て、姉として、看護師として、あいつの話を聞こう。


 遠くでサイレンが聞こえる。

 ユキはゴミ箱にカップのゴミを捨て、立ち上がり顔を上げた。


 救急は、今日も止まらない。


 家路につくユキの足音は、力強くアスファルトに響く。瞳には、強い意志が宿っていた。

 

 ……でも、私はもう逃げない。明日の私も、きっと戦える。


「明日からの私! まっかせたよー!!」



 【第1章 完】


 

 To be continued……

 Next▶︎第2章「傷だらけのリハビリ」

 


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