第4話 不器用な唐揚げと、切ってしまった電話
ガタン、ゴトン。
朝の通勤電車の揺れに合わせ、ユキはノイズキャンセリングのイヤホンを耳に押し込んだ。
流しているのは音楽ではない。無音だ。
外の雑音を遮断した静寂の中で、昨日の甲斐の言葉だけが反芻される。
『優しさで時間を使うな』
『それが誰かの遅れになる』
ユキは電車の窓に映る自分の顔を睨む。
ふんわりしたメイク。優しげな眉。……こんなの、今の現場にいらない。
(分かってる。結果を出せばいいんでしょ、結果を)
最寄駅で降り、病院へと向かうアスファルトの上を歩く。
コツ、コツ、コツ。
ヒール音を一定のリズムに保ちながら、ユキは頭の中で今日のルールを刻み込む。
――余計な口を挟まない。
――共感もしない。
――ただ、業務を遂行する。
頭の中で繰り返すのは、打倒・甲斐公貴のための三箇条だ。
あの医師のやり方が「正解」だと言うなら、完璧にコピーしてやる。その上で、文句一つ言わせない仕事をしてやるのだ。
「……よし!」
病院の従業員専用入口のドアの前で、ユキは深く息を吸い込んだ。
スイッチ、オン。
そこにいたのは、いつもの「ほんわかナース」ではなく、冷徹な仮面を被った「ロボット・ユキ」だった。
◇
日勤が始まり、戦場のようなERで、ユキは淡々と業務をこなしていた。
次の患者は、一歳の男児。高熱による熱性痙攣で搬送されてきた。
到着時には痙攣は治っており、今は落ち着いている。しかし、母親は初めての出来事に顔を青くしていた。
これまでのユキなら、母親の背中をさすり、「怖かったですね」と声を掛けていただろう。
けれど、今日のユキは違った。
「あの……、また痙攣したらどうすれば……」
母親は不安そうに、震えた声でユキに縋るように尋ねた。
ユキは母親の目を見ず、手元のパンフレットを一枚抜き取って差し出した。
「こちらに書いてある通りです。帰宅後、痙攣が五分以上続いたら救急車を呼んでください。それ以下なら、様子見で結構です」
「えっ……」
「以上、説明終わります。お大事に」
ユキは母親の呆然とした表情に気づかないふりをして、カーテンをシャッと閉めた。
すぐに次の仕事に取り掛かる。
(これでいい。これで時間の短縮はできた)
そう自分に言い聞かせる胸の奥が、ちくりと痛んだ。
◇
午後の業務が落ち着いた頃、ナースステーションの隅で川田に呼び止められた。
「……ユキちゃん、ちょっといい?」
川田の声のトーンが低い。ユキはぴくりと肩を揺らした。
「さっきの熱性痙攣の子のお母さんから、クレームが入った。『看護師さんが突き放すようで怖かった』って」
ユキは息を呑んだ。
自分は何もおかしなことをしていない。甲斐の言うとおり、効率的に動いただけだ。
ユキは唇を噛み、反論しようと顔を上げた。
「でも、説明はしました。処置も間違ってません」
「手順の話をしてるんじゃないの」
川田は静かに、真っ直ぐにユキの目を見た。
「今日のユキちゃん、まるで甲斐先生の出来損ないみたいだった」
「っ……」
「甲斐先生の真似してどうするの? ユキちゃんには、ユキちゃんの看護があったはずでしょ?」
その言葉は、どんな叱責よりも深くユキの心に突き刺さった。
◇
休憩室で一人、ユキは冷めたカフェオレのカップを見つめていた。
(甲斐先生みたいになれない。……でも、昔の自分にも戻れない)
中途半端な自分。
優しさを捨てようとして、結局、患者を傷つけただけだった。
自分の居場所がどこにもないような気がして、ユキは深い溜息をついた。
「あーあ……。私、どうしたいんだろう」
◇
その夜、病院の近くの居酒屋で、救命センターの新人歓迎会が開かれた。
当日勤務以外の医師・看護師など多くのスタッフが参加し、店内はジョッキがぶつかる音と笑い声で溢れている。
その賑やかな席の隅で、ユキは小さくなっていた。
昼間の失敗と、川田に言われた言葉が頭から離れない。
さらに最悪なことに、斜め向かいの席には、あの甲斐公貴が仏頂面で座っていた。
(うわ……き、気まずい。よりによってこんなに近くの席なんて……)
甲斐は相変わらずむすっとした顔で、周囲の喧騒をよそにウーロン茶を飲んでいる。テーブルには大皿の唐揚げやポテトサラダがドーンと置かれているが、ユキは甲斐に委縮して、箸が進まない。
すると、甲斐は無言のまま小皿にいくつかの唐揚げを取り、ユキの目の前にトン、と置いた。
ユキは目を丸くして「え……?」と呟いた。
甲斐はユキを見ようともしない。
「……食わないと持たないぞ。お前のその燃費じゃ」
それだけを言って、甲斐はすぐに視線を逸らし、ウーロン茶のグラスに口をつけた。
ユキは呆然としながら、目の前の小皿を見つめる。
揚げたての唐揚げからは、食欲のそそる脂の匂いが漂ってくる。
(……燃費って、なに?)
言葉は悪いけれど、それはつまり「エネルギー切れを起こしていること」を見抜かれたということだ。
昼間の失敗、川田に言われた言葉。それらで消耗しきって、箸が進まないユキの様子を、この男は見ていたのだ。
(私を否定したくせに。……辞められたら困るってこと? それとも、単なる気まぐれ? ……ううん、違う)
仏頂面のままウーロン茶を飲む彼の横顔は、自分が思っていた「冷血漢」とは、ほんの少し違って見えた。
ユキは唐揚げを一つ、口に運んだ。
サクッとした衣の中から、熱い肉汁がじゅわりと溢れる。
その熱さが、食堂に通って胃に落ちた瞬間。
今日一日、必死に張り詰めていた糸が、プツリと音を立てて切れた気がした。
(……あれ? なんで、私……?)
視界がじわりと滲む。
悔しいけれど、涙が出るほど美味しかった。
口の中に広がる肉の旨味を噛み締めながら、ユキは混乱した頭で、ただ咀嚼を続けた。
◇
新人歓迎会も無事終わり、帰宅途中。
少しほろ酔いのユキは、駅からの道を歩きながら、今日のことをぼんやり思い出していた。
その時、スマホが鳴った。弟・龍太郎からの着信だ。
画面に表示された「バカ弟」の文字を見て、ユキは小さく溜息をついて通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
『あ、姉ちゃん? ごめん今大丈夫?』
いつもなら「よう元気?」と明るく入ってくるはずの弟の声が、今日は少しだけ低く、少し詰まっているような気がした。
「今度、メシいこーぜー。ちょっと……話したいことあってさ」
龍太郎からの食事の誘いはよくあることだ。彼はわざわざユキに会いに田舎から出てくるほどに姉を慕っている。
言葉の端々に迷いのようなものが滲んでいる。
けれど、ほろ酔いの頭と、甲斐のことで容量オーバーになっているユキの脳みそは、その微かなシグナルを拾いきれなかった。
「ごめん、今ムリ! またあとで!」
いつもなら誘いを受けるのだが、今日はいつもより冷たく電話を切った。
今日は精神的に疲れているし、考え事を優先したかったのだ。
プツン、と通話が切れる音が、夜道に吸い込まれていく。
これが後悔の種とも知らずに。
◇
帰宅したユキは、以前プレゼントでもらい自分のご褒美用に取っておいた入浴剤を入れた。
その湯船に、ユキは肩まで深く体を沈み込ませた。
「はぁ〜……生き返るぅ……」
今日一日の疲れが、お湯に溶け出していくようだ。
ぼんやりと天井を見上げる。脳裏に浮かぶのは、あの仏頂面の甲斐の顔だ。
居酒屋での不器用な手つきとボソッと言った言葉を思い出す。
「……食わないと持たないぞ、かぁ」
ただそれだけのことなのに、思い出すと少しだけおかしい。
「ふふっ」
お湯をパシャリと叩き、ユキは小さく笑った。
甲斐公貴という医師は、冷徹なロボットだと思っていた。
けれど、唐揚げをよこす手は不器用だったし、ウーロン茶を飲む横顔は、ただの疲れた人間だった。
(そっか。あの人も、人間なんだ)
「なんだ。意外と人間っぽいとこ、あるんじゃん」
口元が自然と緩んだ。
完璧に見える彼だって、何かを食べて、寝て、明日を迎える。
なら、出来損ないの私が今日一日つまずいたくらいで、腐っている場合じゃない。
彼のやり方をコピーするのは無理でも、ご飯を食べてエネルギーをチャージすることなら、私にだってできる。
嫌なやつだと思っていたけれど、案外、悪い人ではないのかもしれない。
ユキは鼻歌まじりに顔を洗うと、勢いよく湯船から立ち上がった。
救急は明日も止まらない。
けれど、明日は今日より、少しだけうまくやれそうな気がした。
「……よし! 明日の私、任せたよー!」




