第3話 その医師、劇薬につき
「雪下さん、3番のベッド点滴交換!」
「はい! あ、次ウォークイン(徒歩来院)の患者、処置室入ります!」
この日、ユキは久しぶりの日勤勤務だった。この病院のナースはシフトでER、ICUと当番になる。
日勤帯の救急外来は、夜勤とは違う種類の忙しさがあった。
ひっきりなしに来る軽症から中等症の患者たち。戦場というよりは、止まることのないベルトコンベアのようだ。
そんな中、ストレッチャーで搬送されてきたのは17歳の少女。母親も救急車に同乗していた。
申し送りは、OD。母親からの聴取では市販薬を過剰服薬したという。
少女は、吐き気、嘔吐の他に、軽い酩酊状態も認められた。
「わかりますかー? お名前言えますか?」
「うぅ……気持ち悪……」
声かけには反応がある。モニター装着し、バイタルチェック。嘔吐に備え体を横向きに寝かせた。
呼吸は安定している。
すぐに胃洗浄を行うことになり、隣にいた母親に説明と同意書を書いてもらった。
ユキは手際よく太いチューブを準備する。鼻からチューブを挿入すると、少女は苦しそうに顔を歪めた。
母親は「やめて!」と叫びそうになるのを、必死で堪えている。
ユキは母親に聞こえないように少女の耳元で「大丈夫、すぐ終わるからね」と囁いた。
医師からの病状説明の時も、胃洗浄の処置が終わった後も、母親はずっと号泣していた。
不安そうに何度も同じ質問を繰り返し、「この子、死にませんか?」と三度も聞いてきた。
普段なら「大丈夫ですよ」と一言で切り上げて、次の患者へ向かう場面だ。
けれど、ユキは足を止めた。
「心配ですよね。……大丈夫、ゆっくりお話ししましょうか」
ユキは意識的に、声をワントーン柔らかくする。
ベッドの上で眠る娘を見ながら、母親は震える声で口を開いた。
「この子、本当に、大丈夫なんですか……?」
「大丈夫ですよ。命に関わる状態ではありません。ここは安全な場所です」
ユキは母親の背中にそっと手を添え、目線を合わせた。
これは「優しい看護師」の演技だ。けれど、こうして時間をかければ、麻痺した心にも温かい血が通うような気がした。
(ほら、私、ちゃんと優しくできてる。機械じゃない)
自分に言い聞かせるように、ユキは丁寧に言葉を紡いだ。
その時だった。
処置室の空気が、ピンと張り詰める。
キュッ、キュッと床を鳴らす足音が近づき、ユキのいるベッドのカーテンが、勢いよくシャッと開けられた。
そこに立っていたのは、去年この病院に赴任してきた救命医・甲斐公貴だった。
甲斐はユキを一瞥すると、すぐに患者の顔と呼吸状態へと視線を移す。
ユキは慌てて立ち上がり、緊張しながら甲斐の後ろに控えた。彼とは勤務での接点が少なかったが、その冷たいオーラと、「甲斐先生、怖いよね」という噂は耳にしていた。
「バイタルは?」
甲斐は背中を向けたまま、感情のない声で尋ねた。
「バイタル、意識レベルともに安定しています。胃洗浄後は鎮静で眠っています」
「血ガス。あとプシコ、コンサルト回して」
母親に聞こえないよう、甲斐は声量を落とす。
プシコ――精神科へ連絡を回す指示だ。
「はい」
甲斐の指示に無駄はない。身長一八〇センチはあろうかというスクラブ姿。無表情の横顔が、ユキには冷酷な機械のように見えた。
甲斐はもう一度だけユキに視線を向けると、何も言わずにカーテンを閉め、出ていった。
◇
ユキは甲斐に指示された仕事を済ませ、休憩室でやっと腰を下ろしたところに、甲斐が入ってきた。
彼はインスタントコーヒーを淹れながら、ユキを見ようともせず言う。
「さっきの対応、遅い。時間をかける案件じゃない」
ユキは自分に言われていると気づき、咄嗟に反論しようとした。
「あ……はい。でも家族ケアは大事かと――」
甲斐はユキの言葉を遮り、初めてまっすぐに彼女の目を見た。
「家族のケアは大事だ。だが、それはプシコ(精神科)の仕事だ。ここはERだぞ、お前の仕事は次の患者にベッドを空けることだ。違うか?」
ユキは何も言えずに固まる。甲斐はそれだけ言うと、さっさと出ていってしまった。
ユキは、ペットボトルの水を一口流し込み、甲斐のあとを追うように休憩室を出た。
忙しい外来業務に戻り、途中、甲斐の処置の補助につく機会があった。
患者は自転車で転倒した七十代の女性。膝に深い傷を負っている。
甲斐は一目で状況を判断し、ユキにテキパキと指示を出していく。創部を洗浄し、局所麻酔を打ち、流れるような手つきで丁寧に縫合していく。
その針さばきは、まるで精密機械のようだ。他の医者が縫合しても、ここまで速くできないのではないか。そして縫合部分は文句なく美しい。
しかも患者の女性に「痛くないですか?」と時折声をかける余裕すらある。
「外科の外来予約をとって、家族が来院して麻酔が切れたら帰していい」
その処置の一連があまりに速く、正確で、ユキは必死に返事をするのが精一杯だった。
(文句を言ってやろう)と考えていたことさえ、吹き飛んでいた。
器具の片付けをしながら、今日の自分の行動を思い返す。
泣く母親。
背中をさすった自分。
次に待っていた患者たち。
(……私、遅かった)
ユキは「優しさ」だと思っていたことが、プロとしては「遅延行為」だったことに気づかされた。それも自分の心を確かめるための、実験のような理由で。
甲斐への苛立ちは消えないが、それ以上に、ユキは自分の未熟さに恥ずかしさを感じた。
そんな時だった。ユキが手洗い場で手を洗っていると、再び背後から声がした。
「さっきも言ったが、優しさで時間を使うな。ERではそれが誰かの遅れになる。ここでは業務を優先しろ」
そう言って、甲斐は乾いた足音を残して去っていった。
(そんなの分かってるわよ!! やっぱりむかつく……!)
ユキが頬を膨らませ記録に取り掛かると、夜勤のために出勤してきた川田が声をかけてきた。
「……ユキちゃん、大丈夫? さっきの」
顔を上げると、川田が心配そうに眉を下げていた。
「甲斐先生、言い方きついのよね。悪気はないんだろうけど」
川田の言葉は優しい。
普段なら「そうですよー! 怖すぎますよー!」とふざけて同意するだろう。
けれど、今のユキにその余裕がなかった。
視線を、自分の膝の上に落とす。爪が食い込むほど、強く拳を握りしめていた。
「……先輩」
「ん?」
「でも、……間違っては、ないですよね」
「え?」
ユキは顔を上げる。その瞳に、涙はなかった。あるのは燃えるような悔しさだけだ。
「悔しいけど、あの人の言うとおりです。私、自分のためにやってました」
患者のためじゃなく、麻痺した自分の心を取り戻すための実験だった。
患者の家族を、自分の感傷に付き合わせてしまった。
その事実に、今更ながら気づかされたのだ。
川田は少し驚いたように目を丸くし、それからふっと小さく笑った。
「……そっか。ユキちゃんは強いね」
「強くないです。ムカついただけです」
ユキは口を尖らせて、再びモニターに向き直った。
キーボードを叩く音が、普段より強く、荒々しく響いた。
◇
「あーもう! むかつくむかつく〜!」
ユキは「森の香り」のする入浴剤を入れた湯船に浸かり、お湯をバシャバシャと叩く。
(あいつに認めてもらうまでは、絶対に辞めてやらないんだから!!)
入浴後、ユキはいつものようにベッドへダイブした。
救急は、止まらない。
あの嫌な医者も、今ごろ涼しい顔で働いているのだろう。
ユキは布団を頭まで被り、不貞腐れたように呟いた。
「……今日の私はもう閉店。……あとは任せたからね、明日の私」




