第2話 ありがとうってなんだっけ?
「うわあああ――、い、痛い痛い痛いぃ!!!」
患者が半狂乱になり、体をよじる。ストレッチャーが揺れ、心電図モニターのリード線が引きちぎられそうだ。
このままでは危ない。
ユキは迷いなく患者の肩を押さえた。小柄な体に体重を乗せる。
「動かないで! 今、動いたら、余計痛くなります!」
普段の声よりも鋭く、一段低く、強い声だった。
一瞬、患者が気圧されて動きが止まる。
ユキはすかさず医師と目を合わせる。
「今です、先生。鎮静、お願いします」
◇
悲鳴と怒号が入り混じる救急外来の処置室。
ストレッチャーで運ばれてきたのは、男性、22歳。
バイクとトラックの衝突事故で搬送されたその患者は、一見すると凄惨な状態だった。
顔面や四肢からも出血を認め、心電図を切り替え、モニター開始。
患者の顔面はすでに強く腫れ上がり、目が開き切らない。
「ベッドに移動しますよー」
「「――1、2、3!」」
「――ゔ、あああ」
ストレッチャーからベッドへ移動する際も悲鳴が響き渡る。
ユキは冷静に、四肢の止血処置をしながら意識レベルと瞳孔の左右差を追う。
損傷が激しい右腕からは、破れた血管を留めるために医師が鉗子を当てる音が響く。ユキは医師の指示で二本の点滴ルート(ライン)を確保。その手が患者の顔面骨折部に近づくたびに、一瞬だけゾッとする感覚を覚えたが、ユキはすぐにそれを業務で押し殺した。
一刻を争う現場で立ち止まることは許されない。
「意識レベルクリア。気道確保よし。バイタルは安定」
救急隊員からの申し送りでは、バイクで走行中、よそ見をして視線を前方に戻した瞬間、停車していたトラックが目の前にあったのだという。
レントゲンとCTの結果、幸い脳や内臓の損傷は軽度。けれど、顔面骨折と右肩、右前腕の骨折が認められ、ICUには救命医の他に整形外科、形成外科、口腔外科の医師も招集された。
救急車が病院に到着すると、家族もすぐにICUの中へ通された。
「死んじゃう!! あの子が死んじゃう!」
パニックになり、医師の説明もまだ耳に入らないようだ。その泣き声はICUの端まで響く。
(……整形外科の先生、今夜は寝られないな)
大声で叫ぶ家族を、少し離れた場所で見ていたユキは、冷静に今日の患者の回転率を考えていた。
(緊急オペになれば、その後のベッドも確保するとなると、動線が詰まるな……)
すべての処置が終わり、患者の緊急手術も無事に済んで、ユキたちはICUへ戻った。
今は麻酔と鎮痛剤で眠っており、容体は落ち着いている。
今の状態と今後の治療などの説明を聞き終わった家族は、医師が立ち去ったあと、ユキに向けて涙を流しながら頭を下げた。
「命を救ってくれてありがとうございました!」
(命は最初から大丈夫だったけどな……顔の腫れが引くのは2週間はかかる。リハビリ含めて3ヶ月ってところか)
泣き崩れる母親の横で、ユキの頭の中は別の計算をしていた。
感動的な場面のはずなのに、視界の端に映ったのは床に飛び散った血痕と、それを踏んで汚れた自分のナースシューズだった。
(あーあ。これ、おろしたばっかりだったのになぁ……)
そんなことを考えながら、ユキは営業スマイルで返す。
「あ……えと、よかったです。お母さんがついていれば、息子さんも安心ですね」
口から出たのは優しい声色で作られたマニュアル通りの慰め。
そこに心は1ミリも乗っていない。音声データのようだ。
家族はまだ泣いていたが、ユキにはもうそれ以上、言葉は出てこなかった。
(今何時だろう。早く帰って寝たいなぁ)
ユキは心の中でそう思う。
(……あれ?)
その瞬間、自分が感謝の言葉に心底から「喜び」を感じず、代わりに「早く次の業務に移りたい」としか思っていないことにはっと気づいた。
(まただ。私、何も感じてないかも)
その事実が、昨日よりもずっと重く、ユキの心を冷たくした。
新人時代は、その言葉ひとつでモチベーションが上がっていたはずなのに。
(ありがとうって、なんだっけ?)
◇
ユキはガムを噛んでいるのに、まだ眠い。瞼が重く目が開かないのだ。
これはもう、ガムの問題ではない。
「雪下、また夜勤続き?」
ドクターの藤堂先生に声をかけられて、空元気なまま反射的に笑った。
「あ、大丈夫です! ぜんぜん平気です!」
(……たぶんね)
「無理してない?」
「え、そんなことないですよ。だって倒れる時間なんてないですもん〜」
ユキはそう言いつつも、電子カルテを打つ手の動きが普段より遅い。
あと2時間もしたら終業時間だ。
(帰ったら、絶対入浴剤入れて、何も考えずにお風呂へ入ろう!)
視線をPCモニターに戻すと、横から川田に顔を覗き込まれた。
「顔、死んでるけど?」
「わっ、びっくりしたじゃないですかぁ。……メイクで誤魔化してるんで大丈夫ですー」
「今日もあと少しだから頑張んな」
「……先輩ぃ。あと少しって言いますけど、このあとの記録入力、山積みですよ」
ユキはPCのマウスをカチカチと無意味に連打しながら、頬を膨らませた。
「今のうちに糖分補給しないと、私の脳みそ、シャットダウンしますよ」
「はいはい。終わったら高いチョコ買ってあげるから」
「ゴディバでお願いしまーす」
「図々しいね。コンビニに決まってるでしょう?」
「へへ。……でも身体は正直平気なんですよ」
ユキはモニターを見ながら、ぼそっと付け足す。
「たぶん、どっかバグってますけど」
ユキは冗談めかして言ったつもりだった。
けれど、川田は笑わなかった。
彼女はまっすぐユキの目を見ると、諭すような、それでいて心配そうな声で言った。
「……ユキちゃん。バグはね、放置してるとシステムごと落ちるよ」
「え……?」
「無理だと思ったら、ちゃんと先輩に言うんだよ。先輩との約束だからね」
そう言って、川田は眉を下げ、ポンポンと優しく叩いた。
その手の温かさに、ユキは少しだけ胸が締め付けられた。
◇
終業し、私服へ着替え、ロッカーの扉を閉める。
スマホを見ると、弟・龍太郎からのメッセージ。
『姉ちゃん、俺仕事辞めたいわ〜(笑)マジで無理。こっちいつ帰ってくんの?』といういつもの軽い愚痴だ。
「もう、また? 甘ったれんな!」
思わずそう毒づいて、ユキは指を止めた。
この程度の悩みで「辞めたい」なんて言える弟の心が、羨ましく、同時に恐ろしい。
そう思いつつ、ユキは既読はしたものの、返信はしなかった。
◇
帰宅し、お気に入りのラベンダーの香りがする入浴剤を入れた湯船に浸かりながら、ユキは疲れた心と身体が癒されていくのを感じていた。
「はぁ〜……。頭が動いてない。……疲れてるんだな、私」
入浴を終えたユキは、まだ昼だというのに背徳を感じながら冷たいレモンサワーを勢いよく一口あおった。
もう片方の手には、コンビニの焼き鳥。ユキは、特に疲れた日はこのセットを必ず買って帰るのだ。
「ぷはぁ〜〜!! 効くぅ〜! 何も考えないで好きなことするの最高!」
缶のレモンサワーを一本飲み干せば、すぐに眠気がやってきた。
ベッドへダイブする。思考を停止して意識を沈める直前、遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
救急は、今日も止まらない。
だからユキも、止まれない。
「……あとは頼んだよ、明日の私……」




