第1話 カフェオレは正義
「ふぁ〜……って、だめだめ」
病院へ向かう道すがら、大きなあくびをした夕姫(ユキ)は、マスクの中で勢いよく舌を噛んだ。
「……っ! あーもう、地味に痛いやつ……」
涙目になりながら頬をペシペシと叩く。夜勤前のいつものコンビニ。甘いカフェオレとカップスープ、それとおにぎりを抱え、冷たい風に舞う桜に目を細めた。
腕の時計を見ると17時を少し回ったところだ。ユキは時計を見たせいで、カフェオレを持っていた手がつるっと滑った。
落とした! と思った瞬間、慌てて抱きとめる。
(……セーフ!)
ユキにとって夜勤前にカフェオレを失うのは、だいぶまずい。
『雪下夕姫』と書かれた名札のロッカーで、手早く着替えを済ませる。
ポケットには、新人時代から書き留めたアンチョコのパンパンのメモ帳をねじ込み、首には愛用の薄紫色の聴診器をかけた。
これが、ユキの戦闘服だ。そのままナースステーションに向かう。
「今日は絶対、平和な夜勤!!」
胸の前で拳をぎゅっと握り、自分を鼓舞するように頷いた。
けれど、次の瞬間、ユキの顔には苦笑いが漏れた。
「平和っていうと、だいたい忙しいんだよね……」
ナースステーションに入り、今日の自分の予定をボードで確認する。
「ユキちゃん、今日夜勤?」
背後から飛んできた声にユキが振り向くと、先輩である川田仁美が、手袋を外しながら笑顔を向けている。
「川田せんぱ〜い。そうなんです。でも、まだ眠くて……」
情けなく眉を下げて笑うユキに、川田は呆れたようにため息をついた。
「だから、またガム? 噛みすぎじゃない?」
「そうなんですけど、噛みすぎて顎痛くなってきちゃってどうしようと思ってたところです」
「ユキちゃんらしいね、今日は救急外来担当? 」
川田は一瞬考えて、にこっと笑った。
「……静かな夜だといいわね」
「だから〜先輩、それは禁句ですよ!!」
「そうだったわね」
◇
今夜の最初の搬送は、泥酔状態の男性だ。
ストレッチャーの上で、目を閉じて上機嫌に鼻歌を歌っている。音程は外れているし、ここは病院なのだ。
(もう少し静かにしてくれないかなぁ)
けれど、ここに来る人はだいたいそんなお願いは聞いてくれない。
その患者が処置室に入った瞬間、その場の張り詰めた空気が一つ緩んだ。
「立てますかー?」
声をかけると、その患者はニカっと笑い親指を立てて見せた。そのまま起きあがろうとして、案の定ぐらっとふらつく。
「らいじょーぶ」
(……よくはなさそうだけど?)
ユキはそう思いながらも、つい笑顔で返してしまう。
(なんでこんなに酔っ払えるのかな)
「こっちのベッドに移動しますよー」
そう言いながら、上半身を起こすのを手伝い、ベッドへ誘導する。
ユキの視線が、患者の腕にロックオンされた。
アルコールのせいで血管が拡張し、ムキムキと浮き上がっている。
(うわ、めちゃいい血管……! これは18ゲージ(太い針)でも一発で入る優良物件だわ)
泥酔して暴れる患者は迷惑だが、この血管だけは愛おしい。
ユキはうっとりした手つきでその腕をさすりながら、手早くルート確保を済ませた。
すぐに外傷の確認、意識レベル、瞳孔、バイタルチェック。頭と体が勝手に動く。
いつもの手順で、いつもの夜だ。
バイタルを確認し、ユキは一度だけ視線を上げた。
アルコールチェックとドクターの診察が終われば、様子観察で済む……はずだ。
◇
次の救急搬送は、『指』だった。
正確には、指をはさんだ男性で自動ドアに挟まれたらしい。本人はずっと「ドアが悪い」と主張している。
「開いたんですよ、急に」
説明を受けながら、ユキは手袋をはめた。
(ドアは悪くないと思うけど、今は言わない)
腫れた指をそっと持ち上げると、男性は顔をしかめた。
「痛いですか」
「それはもう」
それでも、声は元気だ。骨折の可能性は低そうで、出血もない。レントゲンを撮れば、今日は帰れるだろう。
救急の夜は、こういうところから始まることもある。
指をはさんだ話と、酔って転んだ話と、熱が下がらない子どもの話。命に関わらない搬送が重なると、処置室の空気は少しだけ柔らぐ。
けれどその柔らかさが、長く続かないことを、彼女たちは知っている。
◇
ナースステーションに戻り、記録を終える。
『指』の人は、もうレントゲン待ちだ。
ユキは休憩室のソファに腰を下ろすと、「あ〜……腰が死ぬぅ……」と、可愛くない呻き声を漏らした。
誰も見ていないのをいいことに、足を投げ出し、首を左右にポキポキと鳴らす。
今の姿は、とても患者には見せられない。完全におじさんだ。
ガムを噛む。……硬い。
やっぱり、顎が地味に痛いのは、噛みすぎのせいだと思う。それでもやめられない。
時計を見ると、21時を回ったところだ。まだ夜は始まったばかりだ。
休憩室に川田が入ってきた。
「ユキちゃん、休憩?」
マグカップを持って笑う。
「一応、今のうちに」
川田はマグカップを口元に運び、ふと思い出したように言った。
「あ、そうだ! ユキちゃん、今度の新人歓迎会出席する?」
「一応参加するつもりです! 勤務被ってなかったんで」
「飲み過ぎないでねぇ、この前も藤堂先生困ってたわよ?」
「あはは……そうだったぁ、でも自覚はあります」
(さっきの人のことあんまり言えないや)
◇
そんなことを思った瞬間、ナースステーションの電話が鳴った。慌ててガムを捨て、受話器をとる。
「次、重症です。心肺停止で当院に搬送中」
受話器越しの電話は短く、淡々と伝えられた。常に余計な情報は挟まない。
「はい。準備します」と頷く。
声は、ちゃんと出たことに安心する。
鼻歌が聞こえる救急外来の処置室を、一度だけ振り返る。その鼻歌は、もう遠くに聞こえた。
さっきまで、静かな夜だった。
次運ばれてくるのは、多分違う。
すぐにサイレンの音が近づく。ユキの顔から「ゆるさ」が消えた。
◇
「心肺停止(CPA)、搬送中。意識レベル300」
誰かが言った。声は落ち着いている。
その声が、合図だ。
ユキは手袋を付け替え、診察室の外へ向かう。
頭の中がすっと静かになる。
さっきまで指の話をしている人とすれ違った。看護師に促され、処置室の奥の方へ移されていく。
チラ、と横目で顔をみると申し訳なさそうに頭を下げていた。
救急隊員が押すストレッチャーが入ってくる。
男性。年齢不詳。おそらく六十代。
胸が上下していない。
「モニター上、心停止。心室細動(VF)は見られません」
確認するより先に、体が動く。
身長一五五センチに満たない小さな体でユキは迷いなくストレッチャーに飛び乗る。
考える前に、手が先に動く。
全身の体重を乗せて胸骨を圧迫し、カウントを始める。
「1.2.3.4……」
精一杯両腕を伸ばして、自分のほとんどの体重をかける。
数えている声が、自分のものかわからなくなる。
汗が額を伝った。
搬送中につけられた電極をそのままポータブル型のモニターにつなぐ。
モニター音は心拍と同期していない。
圧迫を、一度止める。
ピッピッと鳴っていたモニターが無慈悲な直線を描き、ピーという耳障りなアラーム音に変わった。
「戻らない」
短い医師の声。細動の反応もなし。
圧迫を再開して、医師は気管内挿管を試みる。
汗が落ちる中、時間だけが過ぎていく。
腕の感覚が、だんだん遠くなる。
もう15分以上経っている。
他のナースと交代しても、腕の痺れは感覚が抜けなかった。
もう一度。
心電図の波形は、一本の線になる。
家族はまだ来ていない。
医師から止める判断が出る。
胸骨圧迫をやめた瞬間、音が消えた。
さっきまで満ちていた緊張が、嘘のように引いていく。
医師は聴診器を胸に当て、それからペンライトで瞳孔を見た。
「23時35分、死亡確認。記録して」
ユキは頷く。
数字を書き、記録をする。
手は迷っていなかった。
手袋を外したら、指先が少し汗ばんでいた。
ふと、強い空腹感がユキを襲った。
人の死に立ち会った直後だというのに、ユキの脳裏には、冷蔵庫に残っているプリンの映像が浮かんでいた。
(……帰ったら、絶対あのプリン食べる。二個食べる)
感傷に浸るよりも、身体が糖分を求めている。
そんな自分が薄情なのか、それともタフなのか、ユキ自身にもわからなかった。
(ガム、まだ噛めるかな……)
◇
家族が到着したのは、死亡確認から20分後だった。
ユキは医師の後ろに立つ。
医師が説明をし、ユキはただそこに立っていた。
説明が終わり、家族がベッドに近づいた。
「……ほんとに、急に逝っちゃったの?」
静かな声で、横たわる男性に声をかけている。
泣き崩れるとか、号泣することもなく、ただ静かに涙が落ちたのが見えた。
「……ありがとうございました」
医師とユキの目を、順に合わせて頭を下げた。
そう言われて、言葉が喉に詰まった。
どう返せばいいのかわからなかったのだ。
結局ユキはその場を離れるまで、何も言えなかった。
そこで、誰かが言った。
「次、入ります」
救急の夜は、まだ止まらない。
◇
朝、夜勤明けの空は、もう太陽が昇っていた。
ユキは病院から家までの間にある公園のベンチに腰を下ろし、買ったばかりのホットのカフェオレを口に含んだ。
一口飲むと口に残る、優しい甘さ。
「……あ」
昨夜亡くなった男性の家族にかけられた「ありがとうございました」という言葉を思い出す。
あの時、自分はどんな顔をしていただろう。悲しいフリをしていたのか。それとも、本当に何も感じていなかったのだろうか。
ユキはカフェオレのカップを見つめた。
このカフェオレの甘さを美味しいと感じる心があるなら、まだ大丈夫だろうか。
スマホを見ると、メッセージの通知が一件入っていた。
弟の龍太郎からだ。『姉ちゃん、生きてる?』という、いつもの生存確認スタンプ。
ユキは口元を少し緩めて『生きてるよ』と短く返し、画面を閉じた。
ユキは最後の一口を飲み干すと、少しだけ顎の痛む顔で、ゆっくりと立ち上がった。
救急は、今日も止まらない。
「帰ってプリン食べよ〜」
それでも、明日の私も、きっと負けない。
明日は明日の私に任せよう。




