第10話 その盾の重さ
深夜のERの休憩室。
ユキにとっては、久しぶりの夜勤だった。カフェオレと、春雨スープやおにぎりが入ったコンビニの袋片手に、小さくあくびをする。
今日は、新人・麻那の初めての夜勤だ。日勤帯とは違う独特の雰囲気や患者層など、まだまだ教えることは山ほどある。
それでも、先日の救急車同乗研修が終わってから、麻那は明らかに手際が良くなった。ユキとの連携も、少しずつスムーズになってきている。
「おはようございます! 雪下先輩」
「おはよう……」
麻那が休憩室に入り、テーブルにカフェオレを置いた。彼女が提げているコンビニの袋には、春雨スープとおにぎりのパッケージが透けて見えている。
「……それ」
「あ、これですか? 雪下先輩が夜勤の時はこれ持ってくって言ってたんで、同じもの買いました」
「……へぇ」
ユキが休憩室から出ると、麻那も子犬のように後ろからついてきた。
最近の麻那は、ユキの「完コピ」を目指し、なんでも真似をする。
(食べ物が同じでも、私のスキルはコピーできないぞ!)と思いつつも、実際、先輩の真似をすることは技術を取得する一番の近道だ。ユキ自身も経験済みだからこそ、あえて何も言わないでいる。
それに、かつての自分を重ねつつ「少しは頼もしくなったかな」と微笑ましくも思う気持ちもあった。
廊下を歩くユキの歩幅まで真似しながら、ナースステーションへ向かう。
「私、夜勤初めてで緊張してましたけど……雪下先輩がいれば、無敵になった気がします!」
頬を上気させ、麻那は無邪気に言った。
(そんなわけあるか! 現場はいつだって想定外なんだから……!)
ユキは喉まで出かかったツッコミを、あえて飲み込んだ。
◇
申し送りが済み、ERの夜勤帯の仕事について説明をしていた時。
ホットラインが鳴り響いた。ユキが素早く受話器をとる。
『お疲れ様です、〇〇消防署の救急隊です。三十代男性、薬物中毒疑いの受け入れお願いできますか?』
「はい、詳細な情報を」
『路上で暴れているところを警察が保護しました。バイタルは問題ないのですが、かなり不穏(暴れている)状態です。そして既往にHCV(C型肝炎)あり。現着まであと五分』
ユキはナースステーションに入ってきてホットラインを聞いていた甲斐の顔を見た。彼が短く頷くのを確認する。
「了解、受け入れます」
「警察官二名同乗中です。お願いします、失礼します」
通話が切れると、その場にいたスタッフたちは「あ、これ今日ヤバいやつだ」と直感し、ピリッとした空気の中で慌ただしく準備に入る。
ユキは麻那に急ぎ足で説明を始めた。
「高橋さん、次、薬中(薬物中毒)の不穏だから。暴れるから、抑制帯と鎮静剤の準備! それとHCVキャリアだから針刺しと血液曝露には絶対に注意して。ゴーグルとガウンも用意!」
患者が搬送される前に、その患者に携わる全スタッフが手袋を二重にはめ、感染防護ガウンとアイシールド(ゴーグル)を装着する。
医療従事者にとって、血液は「命を救う対象」であると同時に「命を脅かす凶器」にもなるのだ。
「高橋さん。薬中は針の使い回しなんかで、C型肝炎やHIVなどの感染症を持ってるケースが多いの。今回も既往にあるから、素手で患者に接触するのは禁止ね!」
「は、はいっ」
麻那は顔を強張らせていたが、ユキはあえてそのままにした。そのくらい警戒する癖がついた方が、現場では生き残れるからだ。
◇
患者が搬送され、四肢を抑制帯でベッドに拘束する。
「〇〇さーん! 少しの間だけ手足が動かないけど我慢してねー! 点滴しますからねー!」
「うおぉ! あんだよ離せェ――!」
呂律の回らない口調で、患者が暴れる。少し動きが緩慢になった隙を突き、ユキは麻那に採血とルート確保を指示した。
麻那が慎重に点滴ルートの確保を試みる。
うまく血管に刺さった。だが、そのルートから、シリンジで血液を吸引している時――。
患者が再び、強く暴れ始めた。
抑制帯をすり抜けて動き、麻那の手元が狂う。
点滴の針が抜け、圧力で押し出された患者の鮮血が、麻那の顔へ向かって飛散した。
ユキの目には、それがスローモーションのように見えた。
「危ない!」
考える前に体が動いていた。
ユキは麻那を突き飛ばし、その上に覆いかぶさった。
パシャッ、という嫌な音がした。
飛散した血液は、不運なことにアイシールドの隙間から入り込み、ユキの左目を直撃した。
「血液曝露! あとお願いします!」
ユキはそう叫んで処置室を飛び出した。
洗面所へ駆け込み、十五分のタイマーをセットする。蛇口を全開にして、左目を直接流水で洗い始めた。
(HCVの血液が私の目に……!! マニュアル通りに洗わないと!)
ユキは必死に流水洗眼をしながら、水の冷たさや石鹸のしみる激痛に耐えていた。
すぐに同僚ナースが駆けつけ、ユキをベッドへ移動させる。生理食塩水のボトルに穴を開け、左目にジャーっとかけてもらいながら洗眼を続けた。
十五分という時間が、永遠のように感じるほど長く感じられた。
その間、「もし感染していたら」という恐怖が脳裏に広がっていく。
(最悪な結果になれば……ナースとして働けなくなる? 家族にも、迷惑をかける?)
洗っても洗っても、見えないウイルスという汚れが落ちないような、逃れようのない絶望感が押し寄せた。
一方、処置室に残された麻那は――。
「先輩、私のせいで……!」
パニックになり、現場の真ん中で泣き喚いていた。
「泣いてる暇があったら、雪下の代わりにこの患者を抑えろ! お前の涙で感染率が下がるわけじゃない!」
そんな麻那を、甲斐の冷たく厳しい一喝が制した。
◇
「……十五分、しっかり洗ったな」
洗眼を終えたユキのもとへ、甲斐がやってきてボソッと声をかけた。
ユキは充血した目を瞬かせながら、コクリと頷く。
「患者の家族から検査同意(法的手続き)をもらっておいた。あとは結果を待て。お前の咄嗟の判断は悪くなかった」
「……はい」
その後、ユキが別室で目を休めていると、麻那がいくつかの書類を抱えてやってきた。
ユキの顔を見るなり、また大粒の涙を溢れさせる。
「ゆ、雪下先輩……! ごめんなさい、本当にごめんなさいっ」
何度も頭を下げる麻那を見て、ユキは困ったように眉を下げた。
「高橋さん。私たちが守るのは患者さんだけじゃない。自分の身も、仲間の身も守らなきゃいけない。……だからこそ、次は私が『盾』にならないで済むように、もっと技術を磨きなさい」
ユキは優しく、そして先輩として厳しく語った。
「でも、高橋さんが悪いわけじゃないからね。採血させたのも、盾になったのも……全部、プリセプターの私の判断だから」
「うぅ……はいぃ……」
麻那は返事をし、手で乱暴に涙を拭うと、ユキの目の前で書類仕事を始めた。
『曝露事故報告書』を震える手で必死に書き上げている。
そんな後輩の背中を見て、ユキは思った。
(ただ泣くだけではなくて、自分でできることを考えてやってる。……成長したなぁ)
それに。
(傷つくのが怖くて逃げていた私が、誰かを守るために傷ついたんだ……)
自分でも驚くほどの行動だった。ユキはプリセプターをしている中で、自分自身も確かに成長できていることを自覚した。
*
終業時間が近づいた頃、甲斐公貴がユキを呼び出した。
例の患者の血液検査の結果が出たとのことだった。
「結果は、やはりHCV陽性だった。HIVやHBV(B型肝炎)は無しだ。今後、お前の血液検査を定期的にする。最終は24週間後だ」
「……」
検査結果を聞いたユキは、自分を落ち着かせようと必死に頭を働かせていた。
(HBVならワクチンがある。HIVなら、あの吐き気の強い予防薬をすぐ飲めば、確率は下げられる。……でもこれ(HCV)には、それがない)
ただ待つだけ。
数週間後、数ヶ月後の採血で、自分の血の中にウイルスが泳ぎ始めるのを、ただ指をくわえて待つしかない。
現場のルールを知り尽くしているユキだからこそ、そのどうしようもない絶望感は深く燻った。
「今は飲み薬で95%完治する時代だ。お前が絶望する段階じゃない」
甲斐は、慰めなのか事実の提示なのかよくわからない言葉を投げた。
ユキは静かに、ただ小さく頷いた。
◇
ユキは大量の事故に関する書類を書き終え、病院を出る頃にはもう午後になっていた。
コンビニでアイスカフェオレを買い、公園のベンチに腰をかける。
「……はぁ〜。やっちゃったな……」
大きなため息をつき、ズズッとストローに口をつける。
甘いはずのカフェオレが、今日は少しだけ苦く感じた。
「……半年後、私の最後の採血が終わる頃には。高橋さんはもう、一人前のナースになってるね!」
強がりのような独り言は、青空に吸い込まれて消えた。
自分が選んだ仕事だ。自分が盾になると決めたんだ。
救急は止まらない。
……結果が出るまでの半年間、私はこの不安を背負ったまま、また明日も現場に立つのだ。
あの盾を、もう一度構えて。
「……よし。明日からの私! 半年間、不安になっても絶対に負けないでね!」
ユキは立ち上がり、空に向かって宣言すると、駅へと向かって力強く歩き出した。
【第2章 完】
To be continued……
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