表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
キュウメイナース、ユキちゃん  作者: 逢見彩依
第2章 傷だらけのリハビリ
10/10

第10話 その盾の重さ


 深夜のERの休憩室。

 ユキにとっては、久しぶりの夜勤だった。カフェオレと、春雨スープやおにぎりが入ったコンビニの袋片手に、小さくあくびをする。

 

 今日は、新人・麻那の初めての夜勤だ。日勤帯とは違う独特の雰囲気や患者層など、まだまだ教えることは山ほどある。


 それでも、先日の救急車同乗研修が終わってから、麻那は明らかに手際が良くなった。ユキとの連携も、少しずつスムーズになってきている。


「おはようございます! 雪下先輩」

「おはよう……」


 麻那が休憩室に入り、テーブルにカフェオレを置いた。彼女が()げているコンビニの袋には、春雨スープとおにぎりのパッケージが透けて見えている。


「……それ」

「あ、これですか? 雪下先輩が夜勤の時はこれ持ってくって言ってたんで、同じもの買いました」

「……へぇ」


 ユキが休憩室から出ると、麻那も子犬のように後ろからついてきた。

 最近の麻那は、ユキの「完コピ」を目指し、なんでも真似をする。

 

(食べ物が同じでも、私のスキルはコピーできないぞ!)と思いつつも、実際、先輩の真似をすることは技術を取得する一番の近道だ。ユキ自身も経験済みだからこそ、あえて何も言わないでいる。

 

 それに、かつての自分を重ねつつ「少しは頼もしくなったかな」と微笑ましくも思う気持ちもあった。


 廊下を歩くユキの歩幅まで真似しながら、ナースステーションへ向かう。

 

「私、夜勤初めてで緊張してましたけど……雪下先輩がいれば、無敵になった気がします!」


 頬を上気させ、麻那は無邪気に言った。


(そんなわけあるか! 現場はいつだって想定外なんだから……!)


 ユキは喉まで出かかったツッコミを、あえて飲み込んだ。


 ◇


 申し送りが済み、ERの夜勤帯の仕事について説明をしていた時。

 ホットラインが鳴り響いた。ユキが素早く受話器をとる。


『お疲れ様です、〇〇消防署の救急隊です。三十代男性、薬物中毒疑いの受け入れお願いできますか?』

「はい、詳細な情報を」

『路上で暴れているところを警察が保護しました。バイタルは問題ないのですが、かなり不穏(暴れている)状態です。そして既往にHCV(C型肝炎)あり。現着まであと五分』


 ユキはナースステーションに入ってきてホットラインを聞いていた甲斐の顔を見た。彼が短く頷くのを確認する。


「了解、受け入れます」

「警察官二名同乗中です。お願いします、失礼します」


 通話が切れると、その場にいたスタッフたちは「あ、これ今日ヤバいやつだ」と直感し、ピリッとした空気の中で慌ただしく準備に入る。

 ユキは麻那に急ぎ足で説明を始めた。


「高橋さん、次、薬中(薬物中毒)の不穏だから。暴れるから、抑制帯と鎮静剤の準備! それとHCVキャリアだから針刺しと血液曝露には絶対に注意して。ゴーグルとガウンも用意!」


 患者が搬送される前に、その患者に携わる全スタッフが手袋を二重にはめ、感染防護ガウンとアイシールド(ゴーグル)を装着する。


 医療従事者にとって、血液は「命を救う対象」であると同時に「命を脅かす凶器」にもなるのだ。


「高橋さん。薬中は針の使い回しなんかで、C型肝炎やHIVなどの感染症を持ってるケースが多いの。今回も既往にあるから、素手で患者に接触するのは禁止ね!」

「は、はいっ」


 麻那は顔を強張らせていたが、ユキはあえてそのままにした。そのくらい警戒する癖がついた方が、現場では生き残れるからだ。


 ◇


 患者が搬送され、四肢を抑制帯でベッドに拘束する。

 

「〇〇さーん! 少しの間だけ手足が動かないけど我慢してねー! 点滴しますからねー!」

「うおぉ! あんだよ離せェ――!」

 

 呂律の回らない口調で、患者が暴れる。少し動きが緩慢になった隙を突き、ユキは麻那に採血とルート確保を指示した。

 麻那が慎重に点滴ルートの確保を試みる。

 うまく血管に刺さった。だが、そのルートから、シリンジで血液を吸引している時――。


 患者が再び、強く暴れ始めた。

 抑制帯をすり抜けて動き、麻那の手元が狂う。


 点滴の針が抜け、圧力で押し出された患者の鮮血が、麻那の顔へ向かって飛散した。

 ユキの目には、それがスローモーションのように見えた。


「危ない!」

 

 考える前に体が動いていた。

 ユキは麻那を突き飛ばし、その上に覆いかぶさった。

 パシャッ、という嫌な音がした。

 飛散した血液は、不運なことにアイシールドの隙間から入り込み、ユキの左目を直撃した。


「血液曝露! あとお願いします!」


 ユキはそう叫んで処置室を飛び出した。

 洗面所へ駆け込み、十五分のタイマーをセットする。蛇口を全開にして、左目を直接流水で洗い始めた。


(HCVの血液が私の目に……!! マニュアル通りに洗わないと!)


 ユキは必死に流水洗眼をしながら、水の冷たさや石鹸のしみる激痛に耐えていた。

 すぐに同僚ナースが駆けつけ、ユキをベッドへ移動させる。生理食塩水のボトルに穴を開け、左目にジャーっとかけてもらいながら洗眼を続けた。

 

 十五分という時間が、永遠のように感じるほど長く感じられた。

 

 その間、「もし感染していたら」という恐怖が脳裏に広がっていく。


(最悪な結果になれば……ナースとして働けなくなる? 家族にも、迷惑をかける?)


 洗っても洗っても、見えないウイルスという汚れが落ちないような、逃れようのない絶望感が押し寄せた。


 一方、処置室に残された麻那は――。


「先輩、私のせいで……!」


 パニックになり、現場の真ん中で泣き喚いていた。


「泣いてる暇があったら、雪下の代わりにこの患者を抑えろ! お前の涙で感染率が下がるわけじゃない!」


 そんな麻那を、甲斐の冷たく厳しい一喝が制した。

 

 ◇


「……十五分、しっかり洗ったな」


 洗眼を終えたユキのもとへ、甲斐がやってきてボソッと声をかけた。

 ユキは充血した目を瞬かせながら、コクリと頷く。


「患者の家族から検査同意(法的手続き)をもらっておいた。あとは結果を待て。お前の咄嗟の判断は悪くなかった」

「……はい」


 その後、ユキが別室で目を休めていると、麻那がいくつかの書類を抱えてやってきた。

 ユキの顔を見るなり、また大粒の涙を溢れさせる。


「ゆ、雪下先輩……! ごめんなさい、本当にごめんなさいっ」


 何度も頭を下げる麻那を見て、ユキは困ったように眉を下げた。


「高橋さん。私たちが守るのは患者さんだけじゃない。自分の身も、仲間の身も守らなきゃいけない。……だからこそ、次は私が『盾』にならないで済むように、もっと技術を磨きなさい」


 ユキは優しく、そして先輩として厳しく語った。


「でも、高橋さんが悪いわけじゃないからね。採血させたのも、盾になったのも……全部、プリセプターの私の判断だから」

「うぅ……はいぃ……」


 麻那は返事をし、手で乱暴に涙を拭うと、ユキの目の前で書類仕事を始めた。

『曝露事故報告書』を震える手で必死に書き上げている。

 そんな後輩の背中を見て、ユキは思った。


(ただ泣くだけではなくて、自分でできることを考えてやってる。……成長したなぁ)


 それに。

 

(傷つくのが怖くて逃げていた私が、誰かを守るために傷ついたんだ……)


 自分でも驚くほどの行動だった。ユキはプリセプターをしている中で、自分自身も確かに成長できていることを自覚した。


 *


 終業時間が近づいた頃、甲斐公貴がユキを呼び出した。

 例の患者の血液検査の結果が出たとのことだった。


「結果は、やはりHCV陽性だった。HIVエイズやHBV(B型肝炎)は無しだ。今後、お前の血液検査を定期的にする。最終は24週間後だ」

「……」


 検査結果を聞いたユキは、自分を落ち着かせようと必死に頭を働かせていた。

 

(HBVならワクチンがある。HIVなら、あの吐き気の強い予防薬をすぐ飲めば、確率は下げられる。……でもこれ(HCV)には、それがない)


 ただ待つだけ。

 数週間後、数ヶ月後の採血で、自分の血の中にウイルスが泳ぎ始めるのを、ただ指をくわえて待つしかない。

 現場のルールを知り尽くしているユキだからこそ、そのどうしようもない絶望感は深く燻った。


「今は飲み薬で95%完治する時代だ。お前が絶望する段階じゃない」


 甲斐は、慰めなのか事実の提示なのかよくわからない言葉を投げた。

 ユキは静かに、ただ小さく頷いた。


 ◇


 ユキは大量の事故に関する書類を書き終え、病院を出る頃にはもう午後になっていた。

 コンビニでアイスカフェオレを買い、公園のベンチに腰をかける。


「……はぁ〜。やっちゃったな……」


 大きなため息をつき、ズズッとストローに口をつける。

 甘いはずのカフェオレが、今日は少しだけ苦く感じた。


「……半年後、私の最後の採血が終わる頃には。高橋さんはもう、一人前のナースになってるね!」


 強がりのような独り言は、青空に吸い込まれて消えた。

 自分が選んだ仕事だ。自分が盾になると決めたんだ。


 救急は止まらない。


 ……結果が出るまでの半年間、私はこの不安を背負ったまま、また明日も現場に立つのだ。

 あの盾を、もう一度構えて。


「……よし。明日からの私! 半年間、不安になっても絶対に負けないでね!」


 ユキは立ち上がり、空に向かって宣言すると、駅へと向かって力強く歩き出した。



 【第2章 完】


 To be continued……

 Next▶︎第3章「鉄仮面のヒビ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ