第14話 仮面に入ったヒビ
ピピッ、ピピッ、ピピッ――!
鼓膜を叩くような赤色アラームの音が、夜のICUの壁に反響した。
あの交通事故で搬送された五歳の男の子。あの日から二週間、なんとか小康状態を保っていた、陽ちゃんのモニターだ。
ICUにいたユキは、慌ててベッドへ向かい、すぐさま対応する。
「誰か甲斐先生と小児科の先生を呼び出して! 高橋さん、救急カート!」
医師が揃うまでの数十秒で、ユキは的確に原因を探った。
呼吸器のアラームは鳴っていない。気道は通っている。
だが、心電図モニターの数値が、みるみるうちに落ちていく。
(脈が60を切った……!)
小児において、徐脈(脈拍60未満)は心停止の前兆であり、同義だ。
ユキは迷わずベッドサイドに立ち、小さな胸の上に両手の指を重ねた。小さな心臓に合わせた指先だけの圧迫で、蘇生を始める。
「陽ちゃん! 陽ちゃん、聞こえる!?」
到着した医師も加わり、必死の蘇生が続けられた。
片手で小さな胸を押し続けるユキの頬を、汗が伝って落ちる。
「陽ちゃん、戻ってきて……!」
その時、報せを受けた家族がICUに駆け込んできた。母親の顔は、すでに涙でぐちゃぐちゃになっていた。
家族とスタッフの祈るような叫びも虚しく、心臓の波形はついに一本の長い線で繋がってしまった。
ピーーーー……。
心電図はフラットのまま、二度と動かなかった。
甲斐が静かに死亡確認を告げ、両親の絶叫がICUに響き渡った。
亡くなった五歳の小さな体のすぐそばで、麻那は声を殺して泣いていた。
ユキは下唇を強く噛み締め、感情に蓋をしてエンゼルケア(死後処置)を施した。
*
夜が明け、日勤業務が始まる頃。
終業時間を迎えたユキは、ようやくICUの圧から解放され、休憩室にいた。
窓の外は、激しい雨が降っている。ユキはソファに沈み込み、ガラスに打ち付ける雨だれをぼんやりと見つめていた。
救えなかった命への無力感が、胸の奥に重く沈んでいる。
思い出すのは、あの日の光景だ。ICUの前で崩れ落ちるように泣いていた、加害者の男。そして、その姿を見て、拳を白く握りしめていた甲斐公貴の姿。
ユキはそっと目を伏せた。
「入るぞ」
扉が開くと同時に、甲斐が休憩室へ入ってきた。
普段は隙のない彼の顔にも、今日ばかりは明らかに疲労の色が滲んでいる。お世辞にも顔色がいいとは言えなかった。
甲斐はユキの存在に気づきながらも何も言わず、少し離れた椅子に腰を下ろした。そして、何かの医学論文に目を落としながら、買ってきたサンドイッチの包みを片手で器用に開け始める。
コト……。
ユキは立ち上がり、彼の目の前のテーブルに、温かいブラックコーヒーの入った紙コップをそっと置いた。
甲斐は怪訝な顔で視線を上げる。だが、ユキは彼を見ず、窓の外の雨を見たまま、静かに口を開いた。
「……先生も、悔しいんですね」
「何の話だ」
「あの日。あの加害者の男が泣いているのを見て……先生、悔しそうな手をしてましたから」
甲斐は紙コップに視線を落とし、小さく自嘲するように鼻で笑った。
「買い被るな。俺はただ、昔の失敗を思い出していただけだ」
「失敗……?」
「昔、同じような事故があった。飲酒運転の車が、親子連れの列に突っ込んだ」
◇
――数年前の、騒然とする処置室。
ベッドに横たわるのは、飲酒運転の車に巻き込まれた、血だらけの小さな子供。
『いってぇな! 俺は悪くねぇよ、あっちが勝手に飛び出してきたんだろ!』
カーテンの向こう側から聞こえる、加害者の男のふざけた怒声と舌打ち。
甲斐はメスを握る手に力を込めた。
胸の奥で男性に対する強烈な『怒り』と、目の前の子どもへの『同情』。
その感情に脳が支配され――甲斐の手が、一瞬だけ止まる。
その、コンマ数秒の遅れ。
その遅れが結果を変えたのかは、今もわからない。そもそも搬送された時点で助かる見込みは限りなく低かったからだ。
それでも。
間に合わなかった命。フラットになったモニターの音。
◇
「……医者が怒りや悲しみに囚われれば、視界が狭まる。判断が遅れる。その一秒が、患者を殺してしまう」
雨音だけが響く休憩室で、甲斐は淡々とした声で言った。
その顔には何の感情も見えない。いや、無理に封じ込めているようだった。
「だから俺は何も感じないようにした。可哀想だとも、憎いとも思わない。数値とデータだけで判断するようにならなければ、あの場に立てない」
甲斐の言葉は、氷のように冷たく、そして痛々しかった。
彼は命の重さを知ってしまったからこそ、鋼鉄の仮面を被ったのだ。
ユキは手元の温かいカフェオレを見つめ、それからまっすぐ甲斐の顔を見た。
「……でも」
「あ?」
「でも地下へ向かうエレベーターの中の先生は、全然違いました」
ユキの言葉に、甲斐の眉がひくりと反応した。
「あの時、死んだはずの患者さんの脈が戻った時。先生はデータとか放り投げて、『戻るぞ!』って、必死な顔でボタン連打してたじゃないですか」
「……」
「先生は機械なんかじゃないです。誰よりも命を諦めきれない、ただの不器用な人ですよね」
ユキの言葉が、静かな休憩室に響く。
いつも張り詰めていた甲斐の仮面に、初めて綻びが生じた瞬間だった。
「感情があるから苦しいけど、だからこそ手は動かせるんだと思います」
(おばあちゃんも言っていた――痛みを知っているからこそ、救えると)
「先生が見落としそうなものは、私が拾いますから。……感情込みで」
甲斐はフッと息を吐き、少しだけ口角を上げて、手元のコーヒーを一口飲んだ。
「……生意気なナースだ」
コーヒーを啜る音と雨の音だけが休憩室に響く。
◇
窓の外を見ると、激しかった雨が少し小降りになっていた。
雨が止んでも、戦場のようなこの仕事は変わらない。
救急は、明日も止まらない。
「……明日の私。どうやら、一緒に戦ってくれる人ができたみたいだよ」




