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キュウメイナース、ユキちゃん  作者: 逢見彩依
第3章 鉄仮面のヒビ
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13/15

第13話 壁一枚の慟哭


 午前のER。


「大丈夫。ほら、この大きな絆創膏にクマちゃんのシール貼ってあげよっか?」


 三歳の男の子。転倒により膝を擦りむき、頭も打ったため救急外来を受診した。

 念の為、頭部CTを撮ることになったが、幸い頭蓋内出血は認められず、診断はたんこぶと膝の傷だけだった。


 新人の高橋麻那が、泣いている男児と同じ目線にしゃがみ込む。そして、三歳の小さな膝に貼られた大きめの傷パッドの上に、笑顔でキャラクターのシールを貼ってあげた。


 男の子はすぐに泣き止み、じっとクマのシールを見た後、ぱぁっと笑顔になった。


 その後、処置室の片付けをしながら、ユキは麻那に声をかけた。


「高橋さん、子供の扱いすごく上手だね」

「えへへ。私、子供大好きなんです!」


 ユキの感心した言葉に、麻那は照れたように笑った。

 

 *


 午前の業務も落ち着いた頃。突如、ホットラインが鳴り響いた。


『救急隊です。交通外傷二名搬送します!』

「はい、詳細を」

 

『一人目。五歳男児、車対歩行者。JCS300。頭部外傷著明。全身多発外傷疑い。現在、酸素投与中』

『二人目。加害車両運転者。五十代男性。意識清明、軽傷。重症小児対応お願いします。到着まで八分です!』

 


 すぐに二台の救急車が到着した。

 最初に搬送されたのは、男児だ。

 小さな身体は血液と泥で汚れ、衣服はところどころ切り裂かれていた。

 額から頬に流れた血が乾きかけ、腕や脚には無数の擦過傷が広がっている。

 呼びかけには反応がない。


 酸素マスクの奥で、微かな自発呼吸だけが続いていた。

 あまりにも小さな身体。大人なら狭く感じるストレッチャーが、今日はやけに広く見えた。


 その姿を見た麻那の顔が、一気に青ざめる。


 そのすぐ後、もう一台のストレッチャーが滑り込んできた。

 五十代男性。意識もあり、申し送り時点では軽傷だ。彼が、この交通事故の加害者だった。


 震える声で、麻那がユキに尋ねる。

 

「ゆ、雪下先輩……運転手の方はどうしますか?」

「二番の処置室へ。バイタルとレントゲン依頼! 高橋さんはそっちについてルート確保して」

 

 ユキは素早く指示を飛ばし、男児の処置へ向き直った。

 男児のベッドには、救急医、ナース、それに駆けつけた小児科医も集まり、一分一秒を争う戦いが始まっていた。


 

 一方、加害者とされる患者と共に処置室へ入った麻那は――。


 男性はキョロキョロとしながら言った。

 

「首が少し痛いな」

 

 だが、麻那は一言も発することなく、黙々と血圧計や心電図のモニターを装着していく。


(五歳のあの子は、もっと痛い思いをしているのに……!)


 さっき、笑顔でシールを貼ってあげた男の子の姿が頭をよぎり、麻那はあからさまに苛立っていた。

 やっと発した言葉も、氷のように冷たく硬い。


「……動かないでください。針、刺しますから」


 麻那の中で、目の前の男に対する嫌悪感がどんどん膨れていく。

 そして、ルート確保のために針を刺す瞬間。怒りに任せて必要以上に強く針を突き刺してしまった。


「いたっ!」

 

 男性は顔をしかめ、腕がビクッと引く。

 その反応に、麻那ははっと我に返った。深く刺しすぎたせいで血管を突き破ってしまい、ルートが取れない。

 麻那は慌てて針を抜き、アルコール綿で止血をしながら、震える手で新しい針を準備した。


(私、今、わざと痛くしちゃった……?)


 自分の内側にある感情に気づき、麻那はごくりと唾を飲み込んだ。

 なんとか処置を終え、逃げるように振り返った、その時。


 処置室の入り口に、ユキが腕を組んで立っていた。

 

「高橋さん。それ片付けたら、裏にきて」

「……はい」


 男児の処置が小康状態になった隙に、ふと麻那のことが気になり様子を見に来ていたのだ。

 麻那は血の気が引いた顔で片付けを終えると、バックヤードで待つユキの前に立った。


 ユキは、感情の読めない静かな瞳で麻那を見据え、低い声で短く告げた。


「今の、なに」


 麻那はビクッと肩を震わせ、ぎゅっと白衣の裾を握りしめた。

 誤魔化すことなんて、できなかった。堪えきれず、麻那の目から涙がボロボロと零れ落ちる。


「……私、最低ですっ……! 分かってるんです。あの人も怪我した患者さんだって……。でもっ、あんなに小さな子が血だらけでっ!」

「……」


 麻那は嗚咽を漏らし、涙を拭いながら感情を吐き出した。


「許せないって思っちゃって……わざと、痛くしちゃいました。私、看護師失格、ですっ……」


 麻那の正直すぎる吐露を聞いて、ユキは小さく息を吐いた。怒りはない。ただ、どうしようもなく「昔の自分」を見ているようだった。


「……高橋さん。気持ちはわかるけど」

「雪下先輩……」

「でもね。私たちは裁判官じゃないの」


 ユキは麻那の肩に、ポンと両手を置いた。


「どんな人間でも、ベッドに寝たら『ただ一人の患者』だよ。感情で処置を変えるようなナースに、患者の命は任せられないよ」


 ユキの言葉は厳しかったが、そこには確かな「プロとしての誇り」と、後輩への愛情があった。

 麻那はユキの目を見て息を呑み、腕で涙を拭った。


「……はいっ。すみません、私……戻ります!」


 *


 被害者男児の意識は戻っていないが、一旦処置が落ち着き、ICUへ上がることになった。

 一方、加害者側の処置も終わり、院内の別室で聴取のために移動する。

 そのタイミングが、偶然にも同時刻だった。


 警察官の一人がユキのそばまで来て、そっと小声で耳打ちをした。


「ご存知だと思いますが、加害者が院内にいる間、被害者のご家族と絶対に会わせないでください」


 ユキは黙って頷く。

 その時、ユキの胸ポケットで医療用PHSが震えた。


「はい、雪下です」

『受付です。交通事故の五歳男児のご両親、今案内スタッフと一緒にそちらのICUへ向かっています』

「――っ、了解!」


 ユキの血の気が引いた。

 素早く視線を巡らせる。ICUへ続くメイン通路。そこには今まさに、警察官に伴われた加害者の男性が車椅子に座り、移動しているところだった。


(まずい。このままじゃ、通路で鉢合わせする……!)


 もし、瀕死の我が子に面会に行く両親と、加害者が鉢合わせしてしまったら。

 両者の最悪な修羅場になるだけではない。警察からも接触は避けるよう要請されている。

 それだけは、絶対に避けなければならない。


「高橋さん、二番処置室開けて! 全開!」

「えっ? は、はいっ!」


 次の瞬間、ユキは通路に向かって走り出しながら叫んだ。


「川田先輩! 車椅子ストップ! 処置室で一分待って!」


 異変をすぐに察知した川田が、警察官の前にサッと両手を広げて立ち塞がる。


「すみません、ちょっとストップで! そのままバックしてそこの二番処置室へ入ってください!」

「え? あ、はい」


 状況が飲み込めていない加害者の後ろで、警察官は川田の意図を察したようで、微かに顔をこわばらせた。

 ユキは加害者と麻那を強引に処置室へ押し込む。

 処置室に入ったのは、患者の男性と警察官。そしてユキと麻那。


 バタン、と重いスライドドアを、外から川田が閉めた。

 その数秒後。


「……先生! うちの子、(よう)ちゃんは! どこですか」


 ドアの向こう側の通路を、泣き叫ぶ女性の声と、複数の慌ただしい足音が駆け抜けていく。

 子供の母親の声だ。

 その悲痛な叫びは、壁一枚隔てただけの処置室の中にも、はっきりと響き渡った。


 処置室の中は――誰も動けず、水を打ったように静まり返っていた。

 車椅子に座る加害者の男性は息を呑み、震える拳をぎゅっと握り俯いている。

 麻那は、その男から庇うようにドアの前に立ち、ぎゅっと唇を噛み締めていた。


 足音が、ICUの奥へ消えていく。


(……間に合ったぁ)


 ユキはドアに背中を預けたまま、音を立てずに、長く震える息を吐き出した。

 

 *


 間一髪で接触を避けられた、その一時間後。

 別室で加害者の男性が受けていた事情聴取が一旦終わった。

 警察官と共に帰路につくため、男性が再びICUの前の廊下を移動していた時のことだ。


 ICUへの入り口付近で一瞬ドアが開いた瞬間に、偶然目に入った。

 ――ICUの奥のベッドに横たわり、いくつもの管が繋がれた、あの小さな姿を。


「……ぁ……っ」


 先ほどの聴取ではずっと言い訳ばかりしていた加害者は、その姿を前に完全に言葉を失った。

 動き続ける車椅子の上で、体を折り曲げるように俯き、両腕で顔を覆う。

 (せき)を切ったように涙を溢れさせ、その嗚咽が静かな廊下に響き渡った。


 少し離れたICUの内側から、ユキと甲斐がその様子を静かに見ていた。

 甲斐はすぐに視線を逸らし、窓の外へと顔を向ける。


 だが、ユキがふと手元に目をやると――彼の拳が白くなるほど強く握りしめられていることに気づいた。

 

 それを見たユキは、静かに息を呑む。


(甲斐先生……?)


 ユキは何も言えないまま、視線を外した。

 ピッ、ピッ、ピッ――。

 規則的な電子音。

 

 この小さな体のモニターの波形を、ただ静かに見つめるしかなかった。

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