第13話 壁一枚の慟哭
午前のER。
「大丈夫。ほら、この大きな絆創膏にクマちゃんのシール貼ってあげよっか?」
三歳の男の子。転倒により膝を擦りむき、頭も打ったため救急外来を受診した。
念の為、頭部CTを撮ることになったが、幸い頭蓋内出血は認められず、診断はたんこぶと膝の傷だけだった。
新人の高橋麻那が、泣いている男児と同じ目線にしゃがみ込む。そして、三歳の小さな膝に貼られた大きめの傷パッドの上に、笑顔でキャラクターのシールを貼ってあげた。
男の子はすぐに泣き止み、じっとクマのシールを見た後、ぱぁっと笑顔になった。
その後、処置室の片付けをしながら、ユキは麻那に声をかけた。
「高橋さん、子供の扱いすごく上手だね」
「えへへ。私、子供大好きなんです!」
ユキの感心した言葉に、麻那は照れたように笑った。
*
午前の業務も落ち着いた頃。突如、ホットラインが鳴り響いた。
『救急隊です。交通外傷二名搬送します!』
「はい、詳細を」
『一人目。五歳男児、車対歩行者。JCS300。頭部外傷著明。全身多発外傷疑い。現在、酸素投与中』
『二人目。加害車両運転者。五十代男性。意識清明、軽傷。重症小児対応お願いします。到着まで八分です!』
すぐに二台の救急車が到着した。
最初に搬送されたのは、男児だ。
小さな身体は血液と泥で汚れ、衣服はところどころ切り裂かれていた。
額から頬に流れた血が乾きかけ、腕や脚には無数の擦過傷が広がっている。
呼びかけには反応がない。
酸素マスクの奥で、微かな自発呼吸だけが続いていた。
あまりにも小さな身体。大人なら狭く感じるストレッチャーが、今日はやけに広く見えた。
その姿を見た麻那の顔が、一気に青ざめる。
そのすぐ後、もう一台のストレッチャーが滑り込んできた。
五十代男性。意識もあり、申し送り時点では軽傷だ。彼が、この交通事故の加害者だった。
震える声で、麻那がユキに尋ねる。
「ゆ、雪下先輩……運転手の方はどうしますか?」
「二番の処置室へ。バイタルとレントゲン依頼! 高橋さんはそっちについてルート確保して」
ユキは素早く指示を飛ばし、男児の処置へ向き直った。
男児のベッドには、救急医、ナース、それに駆けつけた小児科医も集まり、一分一秒を争う戦いが始まっていた。
一方、加害者とされる患者と共に処置室へ入った麻那は――。
男性はキョロキョロとしながら言った。
「首が少し痛いな」
だが、麻那は一言も発することなく、黙々と血圧計や心電図のモニターを装着していく。
(五歳のあの子は、もっと痛い思いをしているのに……!)
さっき、笑顔でシールを貼ってあげた男の子の姿が頭をよぎり、麻那はあからさまに苛立っていた。
やっと発した言葉も、氷のように冷たく硬い。
「……動かないでください。針、刺しますから」
麻那の中で、目の前の男に対する嫌悪感がどんどん膨れていく。
そして、ルート確保のために針を刺す瞬間。怒りに任せて必要以上に強く針を突き刺してしまった。
「いたっ!」
男性は顔をしかめ、腕がビクッと引く。
その反応に、麻那ははっと我に返った。深く刺しすぎたせいで血管を突き破ってしまい、ルートが取れない。
麻那は慌てて針を抜き、アルコール綿で止血をしながら、震える手で新しい針を準備した。
(私、今、わざと痛くしちゃった……?)
自分の内側にある感情に気づき、麻那はごくりと唾を飲み込んだ。
なんとか処置を終え、逃げるように振り返った、その時。
処置室の入り口に、ユキが腕を組んで立っていた。
「高橋さん。それ片付けたら、裏にきて」
「……はい」
男児の処置が小康状態になった隙に、ふと麻那のことが気になり様子を見に来ていたのだ。
麻那は血の気が引いた顔で片付けを終えると、バックヤードで待つユキの前に立った。
ユキは、感情の読めない静かな瞳で麻那を見据え、低い声で短く告げた。
「今の、なに」
麻那はビクッと肩を震わせ、ぎゅっと白衣の裾を握りしめた。
誤魔化すことなんて、できなかった。堪えきれず、麻那の目から涙がボロボロと零れ落ちる。
「……私、最低ですっ……! 分かってるんです。あの人も怪我した患者さんだって……。でもっ、あんなに小さな子が血だらけでっ!」
「……」
麻那は嗚咽を漏らし、涙を拭いながら感情を吐き出した。
「許せないって思っちゃって……わざと、痛くしちゃいました。私、看護師失格、ですっ……」
麻那の正直すぎる吐露を聞いて、ユキは小さく息を吐いた。怒りはない。ただ、どうしようもなく「昔の自分」を見ているようだった。
「……高橋さん。気持ちはわかるけど」
「雪下先輩……」
「でもね。私たちは裁判官じゃないの」
ユキは麻那の肩に、ポンと両手を置いた。
「どんな人間でも、ベッドに寝たら『ただ一人の患者』だよ。感情で処置を変えるようなナースに、患者の命は任せられないよ」
ユキの言葉は厳しかったが、そこには確かな「プロとしての誇り」と、後輩への愛情があった。
麻那はユキの目を見て息を呑み、腕で涙を拭った。
「……はいっ。すみません、私……戻ります!」
*
被害者男児の意識は戻っていないが、一旦処置が落ち着き、ICUへ上がることになった。
一方、加害者側の処置も終わり、院内の別室で聴取のために移動する。
そのタイミングが、偶然にも同時刻だった。
警察官の一人がユキのそばまで来て、そっと小声で耳打ちをした。
「ご存知だと思いますが、加害者が院内にいる間、被害者のご家族と絶対に会わせないでください」
ユキは黙って頷く。
その時、ユキの胸ポケットで医療用PHSが震えた。
「はい、雪下です」
『受付です。交通事故の五歳男児のご両親、今案内スタッフと一緒にそちらのICUへ向かっています』
「――っ、了解!」
ユキの血の気が引いた。
素早く視線を巡らせる。ICUへ続くメイン通路。そこには今まさに、警察官に伴われた加害者の男性が車椅子に座り、移動しているところだった。
(まずい。このままじゃ、通路で鉢合わせする……!)
もし、瀕死の我が子に面会に行く両親と、加害者が鉢合わせしてしまったら。
両者の最悪な修羅場になるだけではない。警察からも接触は避けるよう要請されている。
それだけは、絶対に避けなければならない。
「高橋さん、二番処置室開けて! 全開!」
「えっ? は、はいっ!」
次の瞬間、ユキは通路に向かって走り出しながら叫んだ。
「川田先輩! 車椅子ストップ! 処置室で一分待って!」
異変をすぐに察知した川田が、警察官の前にサッと両手を広げて立ち塞がる。
「すみません、ちょっとストップで! そのままバックしてそこの二番処置室へ入ってください!」
「え? あ、はい」
状況が飲み込めていない加害者の後ろで、警察官は川田の意図を察したようで、微かに顔をこわばらせた。
ユキは加害者と麻那を強引に処置室へ押し込む。
処置室に入ったのは、患者の男性と警察官。そしてユキと麻那。
バタン、と重いスライドドアを、外から川田が閉めた。
その数秒後。
「……先生! うちの子、陽ちゃんは! どこですか」
ドアの向こう側の通路を、泣き叫ぶ女性の声と、複数の慌ただしい足音が駆け抜けていく。
子供の母親の声だ。
その悲痛な叫びは、壁一枚隔てただけの処置室の中にも、はっきりと響き渡った。
処置室の中は――誰も動けず、水を打ったように静まり返っていた。
車椅子に座る加害者の男性は息を呑み、震える拳をぎゅっと握り俯いている。
麻那は、その男から庇うようにドアの前に立ち、ぎゅっと唇を噛み締めていた。
足音が、ICUの奥へ消えていく。
(……間に合ったぁ)
ユキはドアに背中を預けたまま、音を立てずに、長く震える息を吐き出した。
*
間一髪で接触を避けられた、その一時間後。
別室で加害者の男性が受けていた事情聴取が一旦終わった。
警察官と共に帰路につくため、男性が再びICUの前の廊下を移動していた時のことだ。
ICUへの入り口付近で一瞬ドアが開いた瞬間に、偶然目に入った。
――ICUの奥のベッドに横たわり、いくつもの管が繋がれた、あの小さな姿を。
「……ぁ……っ」
先ほどの聴取ではずっと言い訳ばかりしていた加害者は、その姿を前に完全に言葉を失った。
動き続ける車椅子の上で、体を折り曲げるように俯き、両腕で顔を覆う。
堰を切ったように涙を溢れさせ、その嗚咽が静かな廊下に響き渡った。
少し離れたICUの内側から、ユキと甲斐がその様子を静かに見ていた。
甲斐はすぐに視線を逸らし、窓の外へと顔を向ける。
だが、ユキがふと手元に目をやると――彼の拳が白くなるほど強く握りしめられていることに気づいた。
それを見たユキは、静かに息を呑む。
(甲斐先生……?)
ユキは何も言えないまま、視線を外した。
ピッ、ピッ、ピッ――。
規則的な電子音。
この小さな体のモニターの波形を、ただ静かに見つめるしかなかった。




