第12話 ラザロ
夜勤帯のER。始まりは軽度な裂傷の患者だった。
ユキは甲斐公貴の診察の補助についていた。
「いったっっ! 痛い! 絶対跡が残らないようにしてよ!」
三十代の女性の鋭い叫び声が、処置室に響く。
ユキは「麻酔もしますし、すぐ終わりますからちょっと我慢してくださいね」と声をかけながら、甲斐に次々と器具を渡していく。
女性は料理中に包丁で指を切ってしまったという。
甲斐は「麻酔します」とだけ声をかけたが、患者の叫び声など全く耳に入っていないかのように、それ以降は、黙ったままだ。
うるさい声に顔色ひとつ変えず、まるで機械のように見事な速さで縫合をしていく。相変わらず美しい縫合部で、これなら痕も最小限で済みそうだ。
無事に処置が終わったところで、ERの束の間の静寂を破るようにホットラインが鳴った。
ユキが受話器を取ると、スピーカーから、慌ただしい救急隊員の声が響く。
『八十代男性、心不全増悪。SpO2はリザーバー(酸素マスク)十リットルで80%台。到着まであと七分!』
ユキが視線を向けると、甲斐と目が合った。彼が短く頷くのを確認し、口を開く。
「了解、準備します」
◇
搬入された男性は、到着時にはすでに下顎呼吸をしており、意識の火が消えかかっているのは明らかだった。
瞳孔は散大し、甲斐が胸の皮膚をつねるが痛み刺激にも反応しない。
視線は焦点が合わず、遠く一点を見つめたままだ。
モニターに心拍波形はあるものの、間隔が広すぎる。
(すでに止まりかけてる――!)
患者をベッドに移動させた直後、ユキはベッドの上に膝をつき、胸骨圧迫で蘇生を試みる。
「パキッ」という音が響いた。高齢のため、肋骨が胸骨圧迫の圧力に耐えかねたのだ。
けれど、ユキはその手を止めずに胸骨を圧迫し続けた。
薬剤を投入し、人工呼吸器を装着し、除細動も試みた。
けれど、ユキが胸骨圧迫を止めると、モニターの波形はフラットになる。
やるべきことは手を尽くしたが、完全に心肺停止状態だった。
これ以上の蘇生は無意味だ。
甲斐公貴が、救急車に同乗していた患者の家族をベッド脇まで呼び、淡々と説明を始めた。
「これ以上の処置は、本人の負担になるだけです――」
「……はい。十分です、本当に。……おじいさん、頑張ったわね」
妻であろう高齢の女性は、顔を覆って涙しながらも、静かに受け入れた。
甲斐がペンライトを構えると、ユキは胸骨の圧迫を止めた。
モニターからは「ピー」というアラーム音が鳴り続ける。心電図はフラットのまま動かなかった。
甲斐はそのままペンライトで瞳を照らし、時計を見た。
「瞳孔散大、対光反射なし。――二十二時十一分、死亡確認」
スタッフは皆、そっと頭を下げた。
◇
家族に最期の時間を過ごしてもらった後、ユキは慣れた手つきでエンゼルケア(死後処置)を行った。
白いシーツを被せたストレッチャーを押し出す頃には、深夜の病院は嘘のように静まり返っていた。
本来、遺体安置室への移送は他スタッフが担当することが多いが、今夜は急患が重なり人手が足りていない。
ユキが一人で運ぼうとストレッチャーの足側に回った時、無言で頭側のパイプを掴んだ人物がいた。
甲斐公貴だ。
(えっ、甲斐先生が手伝ってくれるの……?)
驚くユキをよそに、甲斐は「仮眠室へ行くついでだ」と無表情のままストレッチャーを押し、地下へ向かうエレベーターホールへと歩き出した。
ホールには蛍光灯が付いているものの、深夜特有の静けさがある。
扉が開き、ストレッチャーを中に運び込んだ。地下二階のボタンを押す。
ウィーン――。
甲斐とユキの間には会話はなく、エレベーターが下降していく音だけが響く。
静かに下降を始めた、その時。
エレベーターのわずかな振動でストレッチャーに被せてあるシーツの端がパサリとずれた。その瞬間、患者の右腕がだらんと落ち、ぶら下がった。
ユキはその瞬間を見ていた。息を呑み、瞠目する。
甲斐の方へ視線を向けたが、彼はエレベーターのドア上の階数表示を見ている。気づいた様子はない。
死後硬直にはまだ早い時間だ。ただ重力で落ちたはず――。
ユキはそっと腕をストレッチャーに戻し、シーツを被せ直した。
再び、エレベーターの駆動音だけが響いた。
その直後。今度は先ほどとは逆の、左腕が落ちた。
ユキは再び目を見開く。さすがに甲斐の側の腕が落ちたため、甲斐もハッと視線を落とし、二人は顔を見合わせた。
何かがおかしい。
甲斐の目つきが鋭くなった。ユキは慌ててペンライトを取り出し、瞳孔を確認する。
「わずかに縮瞳(瞳孔縮小)してます!」
ユキが上擦った声で報告した時、甲斐はすでに、ぶら下がった左腕の橈骨動脈(手首)に指を当てていた。
甲斐がユキと目を合わせる。
「……戻ってる」
「え?」
「微弱だが、脈がある。……雪下! このまま戻るぞ!」
ちょうどその時、ポーンという音と共に、地下二階でエレベーターのドアが開いた。
あの冷徹な医師・甲斐公貴が声を荒げ、「上」ボタンを連打している。
「雪下、CPR(蘇生)!」
ユキは迷わずストレッチャーに飛び乗った。その直後、甲斐はユキの胸ポケットにある医療用PHSを奪い取るように掴み取った。
「ERの甲斐だ! 死亡確認後の自己心拍再開、今からICUに運ぶ、受け入れ準備!」
地下の死の部屋へ向かっていた箱が、再び生の世界へ上昇を始めた。
◇
ICUに再入室した患者は、すぐに延命処置が再開された。その間、甲斐が家族への説明に向かった。
処置が落ち着き、ユキは遠くから甲斐の方へ視線を向けた。
甲斐はデータや理屈だけで判断するロボットだと思っていたけれど。
エレベーターの中では、「絶対に死なせない」という純粋な執念だけで動いていた。そしてユキの目には、確かにそう見えた。
(甲斐先生、今日はなんか……人間みたい)
それにしても――。
(蘇生を中止した後に、心拍が再開する自己心拍再開――いわゆる『ラザロ症候群』。教科書で読んだことはあったが、まさか本当に目の前で起きるなんて……)
――その後、患者の意識は戻ることはなかったが、人工呼吸器を使用して一ヶ月ほど命を繋ぐことになった。
◇
長い長い夜勤が終わった。
ユキはナースステーションから更衣室までの廊下を歩いている。
前を向くと、向こうからスクラブの上に白衣を羽織った甲斐公貴が歩いてくる。
すれ違う瞬間。
「……お疲れ様です」
ユキはぺこりと頭を下げた。甲斐は何も言わず通り過ぎてから、一瞬だけユキを横目で見やった。
「……お疲れ」
ユキは、少し目を見開いて振り向く。廊下の窓からは眩しい朝日が差し込んでいて、そこには、甲斐が両手を組んで背を伸ばしながら歩き去る後ろ姿があった。
「ふふっ」と小さく笑いが漏れる。
ユキはまた歩き出し、ふと自分の手のひらを見つめた。
エレベーターの中で、再び脈打った患者の温もりを思い出す。
(あんなことも、本当にあるんだ)
ユキは昨夜体験した医療の奥深さと、甲斐がエレベーターのボタンを連打した姿を同時に思い出していた。
どちらも、めったに見られないものだった。
救急は止まらない。
「……明日の私。奇跡って、本当に起きるみたいだよ! ……なんだかいい夢が見られそう」
疲れが押し寄せる夜勤明け。
それでも、今日のユキは笑っている。




