第11話 私たちは神様じゃない
夜勤明け、ユキは疲れた体を伸ばしながら、ぼんやりした頭のまま、休憩室のソファにもたれていた。
テーブルの向かいには、少し早めに出勤してきてパンをかじっている新人・高橋麻那の姿がある。
ふと左手の内側に視線が落ちた。先日、二回目の定期採血を終えた。結果待ちの日々はまだ続く。
『昨夜未明、繁華街で外国籍の男性が刃物で刺される事件が発生しました。男性は意識不明の重体で救急搬送され――』
(あ、昨日の私の受け持ちだ……)
ユキはカフェオレ片手に、テレビから流れるニュースの声になんとなく耳を傾けていた。
画面の中では、規制線が張られた現場の映像と、深刻そうな顔をしたレポーターが映し出されている。
「あ、この人って……犯人捕まったんですね。雪下先輩、この患者さん、大丈夫だったんですか?」
「ん? あー、それ。オペの前、『イタイノ、カンベンシテ〜』って普通に愚痴ってたから、案外大丈夫だったよ」
「えっ……? でも今テレビで意識不明の重体って……」
「世間から見たら大事件でも、現場からしたら『ただの痛がってる怪我人』だからね」
当事者であるはずのユキの冷めた返しに、麻那は目を丸くして戸惑っている。
自分でそう言いながら、ニュースが伝える「劇的な悲劇」と、現場で見た「痛がって大騒ぎしている怪我人」というギャップを、ユキは改めて感じた。
こんな風に、世間を騒がせるニュースの向こう側の人間が、毎日のように運ばれてくる。そしてユキたちは、相手が被害者だろうが加害者だろうが、ただの「仕事の一部」として淡々と処置をしていく。
(私、すっかりこの異常な世界に慣れちゃったな。……ま、とりあえず、被害者の彼も命に関わることがなくてよかった)
氷が溶けて味が薄くなったカフェオレを飲み干し、ユキは小さく息を吐いた。
◇
数日後の日勤帯。
ERのナースステーションに、ホットラインの着信音が響いた。
ERの搬入口で手袋をつけながら準備をしていると、救急車が到着した。
「二十代男性! 走行中の乗用車から転落し、橋の欄干に激突後、約十メートル下の川へ落下。CPA(心停止)はなし。ですが頭部外傷あり。瞳孔不同認めます。全身打撲、多発外傷あり!」
ストレッチャーが勢いよく搬入口に滑り込む。
救急隊員の報告によれば、この若い男性は友人が運転する車でふざけて箱乗り(窓から身を乗り出す行為)をしていて、たまたま橋の上でバランスを崩して橋の欄干に接触し、そのまま川へ落ちたという。
危険行為が招いた、あまりにも代償の大きい自業自得とも言える事故だった。
ストレッチャーの上の患者は、顔は血と泥にまみれ、四肢もあらぬ方向に曲がっている悲惨な状態だ。
川に落ちたためか、体は濡れていて冷え切っている。
だが、現場の空気はどこか重かった。
(瞳孔不同……頭を打ち付けたのは欄干か。脳にかなりのダメージがありそう。それにこの多発骨折……)
ユキは手早く衣服を切り裂き、モニターを繋ぎながら、頭の中で冷静にデータを出していた。
(助かっても、間違いなく重い後遺症が残る。彼が望むような生活には、もう二度と戻れないだろうな……)
それは、医療の過酷な現実を知っているからこそ生じる諦めだった。
私たちは神様じゃない。壊れすぎた体は、元には戻らないのだ。
「自損事故だ。プロトコル(手順)通りに淡々と進めろ」
甲斐公貴が現場を仕切る。
その一方で、ユキの隣では――。
「痛そう……かわいそうに……」
高橋麻那が相変わらず感情移入してオロオロしている。
その様子を見て、ユキはため息を飲み込んだ。
「高橋さん。かわいそうでも自業自得でも、私たちのやることは変わらない。数値を安定させて状態を良くすることだけを考えて。……私たちが心を痛めても、この人の未来を変えてあげることはできないんだから」
◇
処置が終わり、患者は厳しい状態のままICUへ送られていった。
日勤を終えて、病院の外に出ると、分厚い雲からポツリと冷たい雨が降り始めていた。
ユキは帰り道のコンビニで買った温かいカフェオレをカイロ代わりに握りしめ、小さくため息をつく。
今日の、あの患者はどうなるだろうか。
ふと頭をよぎったが、ユキはすぐにその思考に蓋をした。
奇跡なんて起きない。
助からない命にただチューブを繋ぐだけの存在になる時もある。
……でも、それでいい。そうやって割り切らなければ、この仕事は回っていかないのだから。
救急は止まらない。
冷たい雨粒が、ユキの踏みしめるアスファルトを黒く濡らしていく。
「……明日の私も、無駄な期待はしないで、淡々と働こうね」
傘を差し、ユキは暗く低い雲を見上げ、足を動かし続けた。




