第15話 嬉しい大ハズレ
あの雨の日から数週間が過ぎた、日勤帯のER。
ユキは相変わらず、バタバタと忙しなく処置室を動き回っていた。
午前の処置がひと段落し、記録のため、ナースステーションでPCに向かっていた時のことだった。
入り口から、一人の男性がひょっこりと顔を出した。
「あの、すみません。俺、浅野って言うんですけど」
眉を下げて声をかけてきたのは、二十代くらいの若者だ。片脇には松葉杖をついている。顔にはまだ、うっすらと縫合の傷跡が残っていた。
「はい。……浅野、さんですか?」
ユキはカルテの記憶を辿るが、顔と名前が一致せず、内心首を傾げながら聞き返した。
ちょうど薬の指示を出すためにナースステーションにいた甲斐が、浅野を横目で一瞥し、すぐにPCへと視線を落とす。
浅野は照れくさそうに笑い、ぺこりと頭を下げた。
「俺、前にここに運ばれてきて、それで今日退院になって……。お礼の挨拶に」
「救急車で運ばれてきたんですか?」
「そうです。車で箱乗りしてて、橋の欄干にぶつかって川に落ちたんですよ」
ユキの思考が、一瞬止まった。
脳裏に思い出されたのは、血と泥にまみれ、顔の原型も留めていなかったあの凄惨な患者の姿。
そして、瞳孔が散大し、「きっと助かっても重い後遺症が残るだろう」と自分が諦めたような目で彼を見てしまったあの日の記憶だ。
目の前で、松葉杖をつきながらも、自分の足で立ち、しっかりと焦点を合わせて笑っているこの少年が。
あの時の――。
「えっ!? あの時の!?」
ユキは動揺のあまり、デスクに置いてあったファイルをゴトンと床に落としてしまう。
そして、信じられないようなものを見るように目を丸くした。
甲斐も声が聞こえたのか、ユキのそばまでやってきて、静かに観察をしているようだった。
ユキは慌てて驚いた顔をしまい、口を開いた。
「覚えていますよ。大変な状態で運ばれてきた時のこと。あれから、治療も頑張ったんですね……」
「あぁ、あの時のことは覚えている」
甲斐も『珍しいものを見た』と言う顔で、会話に加わった。
浅野は二人の言葉に顔を歪ませる。そして、神妙な顔つきで深く頭を下げた。
「あの時、助けていただいたんですね。本当にバカなことをしました。……生きててよかった。俺なんかを見捨てずに助けてくれて、本当にありがとうございました」
あの夜、酒に酔ってふざけていただろう若者が、今、別人のように泣きそうな顔で深々と頭を下げる。
その姿を見て、ユキはハッとした。
自分はあの夜、何を思っていただろうか。「彼が望む未来はもうないだろう」と彼の人生の限界を勝手に決めていたのだ。
(諦めたのは、私の方だったのに……)
医療者としての恥ずかしさと同時に、人間の生命力の凄まじさに胸が熱くなる。
浅野は何度も頭を下げながら、それでも最後は笑顔で病棟の方へ帰っていった。
浅野の背中が見えなくなった後、ユキと甲斐は目を合わせた。
ユキは少しバツの悪そうな顔をして、ぽつりと本音をこぼした。
「……私、あの時、浅野さんの予後を決めつけて、彼の人生を勝手に諦めてしまってました」
「……」
「あの時点で、助かっても元には戻らないって。彼が望むような未来はもう無いんだって、冷めた目で見てました」
それは、医療者として経験を積んだからこそ陥ってしまった、残酷な偏見の告白。
甲斐は浅野が消えた廊下の先から視線を外し、淡々とした声で返す。
「外傷性のくも膜下出血に多発骨折。あの状態から後遺症なしで歩けるようになる確率は、統計的に見ても極めて低い。……お前の見立ては間違ってない――」
「でも、外れました。……すごく、嬉しい大外れですけど」
ユキが少しだけ自嘲するように微笑むと、甲斐はふい、とPCモニターへ向き直った。
甲斐の目を追いかけるようにじっと横から見ていると、彼はボソッと口を開く。
「医者ができるのは、あくまで生かすための『土台づくり』までだ。あそこまで回復したのは、本人の生命力に他ならない」
「……それでも。先生が完璧な処置と指示をしてくれたから、あの『生命力』が発揮されたんですよね?」
もしあの時、誰もが「どうせダメだ」と手を抜けば、今日の奇跡はなかった。
ユキの言葉に、甲斐は顔を上げた。
「……絶望しようが、諦めようが、手を動かし続けたならそれでいい。あの時のお前のように、手を止めないことが奇跡につながる」
「え……」
「勉強になったな。……お前も、俺も。……回診に行ってくる」
そう言い残し、甲斐はナースステーションから出ていった。
ユキは目を丸くして、頭の中では甲斐の言葉を咀嚼していた。
(あの時『手が止まるなら出て行け』と私に怒鳴った先生が、今……)
ユキの口が自然と緩んだ。
「……先生っ! 回診はナースと一緒に回るんですよ!」
ユキの弾む声が、廊下に明るく響き、甲斐の背中を追いかけた。
◇
その日の終業後。更衣室で上機嫌に私服に着替え、ユキは病院の外へ出た。
そのままコンビニに寄り、冷えたレモンサワーと焼き鳥を二本買った。
(今日はいい日だ。最高に美味しいレモンサワーが飲めそう!)
すっかり暗くなった帰り道を、鼻歌まじりに歩く。
その時、ポケットの中のスマホが震えた。
取り出すと、画面には『バカ弟(龍太郎)』の文字。
ユキは口角を上げたまま、すぐに通話ボタンを押した。
「もしもしー? なに、あんたもしかしてまた『仕事辞めたい』とか言うわけ?」
ユキは揶揄うような、いつもの調子で話しかけた。
しかし、電話の向こうの龍太郎の声色は、いつもとは違っていた。
少し荒い呼吸音と、衣擦れのような音。
『……ねえ、ちゃん……』
掠れた声に続いて、ドサっと、何かが崩れ落ちるような鈍い音が響いた。
「ちょ、どうしたの!?」
『……ごめん、俺……なんか、無理か、も……』
今にも消えそうな声が聞こえた瞬間。ガタン! と大きな音がした。
スマホが床に落ちたのか、そのまま通話は無情にも切れてしまった。
「え……? 龍太郎? も、もしもし!?」
ユキが何度呼びかけても返事はなく、ツー、ツーと電子音が聞こえるだけ。
先ほどまでの晴れやかな気は、一瞬にして吹き飛んだ。
全身の血の気が引き、足元から世界がガラガラと音を立てて崩れ落ちていく感覚。
手から力が抜け、コンビニの袋がアスファルトに落下した。
遠ざかっていくレモンサワーの缶を、ユキはただ見つめていた。
缶の転がる鈍い音が響く。
遠くで、救急車のサイレンが鳴っていた。
【第3章 完】
To be continued……
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