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キュウメイナース、ユキちゃん  作者: 逢見彩依
第3章 鉄仮面のヒビ
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15/15

第15話 嬉しい大ハズレ


 あの雨の日から数週間が過ぎた、日勤帯のER。


 ユキは相変わらず、バタバタと忙しなく処置室を動き回っていた。

 午前の処置がひと段落し、記録のため、ナースステーションでPCに向かっていた時のことだった。


 入り口から、一人の男性がひょっこりと顔を出した。


「あの、すみません。俺、浅野って言うんですけど」


 眉を下げて声をかけてきたのは、二十代くらいの若者だ。片脇には松葉杖をついている。顔にはまだ、うっすらと縫合の傷跡が残っていた。


「はい。……浅野、さんですか?」


 ユキはカルテの記憶を辿るが、顔と名前が一致せず、内心首を傾げながら聞き返した。

 ちょうど薬の指示を出すためにナースステーションにいた甲斐が、浅野を横目で一瞥し、すぐにPCへと視線を落とす。

 

 浅野は照れくさそうに笑い、ぺこりと頭を下げた。


「俺、前にここに運ばれてきて、それで今日退院になって……。お礼の挨拶に」

「救急車で運ばれてきたんですか?」

「そうです。車で箱乗りしてて、橋の欄干にぶつかって川に落ちたんですよ」


 ユキの思考が、一瞬止まった。

 脳裏に思い出されたのは、血と泥にまみれ、顔の原型も留めていなかったあの凄惨な患者の姿。

 そして、瞳孔が散大し、「きっと助かっても重い後遺症が残るだろう」と自分が諦めたような目で彼を見てしまったあの日の記憶だ。

 

 目の前で、松葉杖をつきながらも、自分の足で立ち、しっかりと焦点を合わせて笑っているこの少年が。

 あの時の――。


「えっ!? あの時の!?」


 ユキは動揺のあまり、デスクに置いてあったファイルをゴトンと床に落としてしまう。

 そして、信じられないようなものを見るように目を丸くした。

 甲斐も声が聞こえたのか、ユキのそばまでやってきて、静かに観察をしているようだった。


 ユキは慌てて驚いた顔をしまい、口を開いた。


「覚えていますよ。大変な状態で運ばれてきた時のこと。あれから、治療も頑張ったんですね……」

「あぁ、あの時のことは覚えている」


 甲斐も『珍しいものを見た』と言う顔で、会話に加わった。

 浅野は二人の言葉に顔を歪ませる。そして、神妙な顔つきで深く頭を下げた。


「あの時、助けていただいたんですね。本当にバカなことをしました。……生きててよかった。俺なんかを見捨てずに助けてくれて、本当にありがとうございました」

 

 あの夜、酒に酔ってふざけていただろう若者が、今、別人のように泣きそうな顔で深々と頭を下げる。

 その姿を見て、ユキはハッとした。


 自分はあの夜、何を思っていただろうか。「彼が望む未来はもうないだろう」と彼の人生の限界を勝手に決めていたのだ。


(諦めたのは、私の方だったのに……)


 医療者としての恥ずかしさと同時に、人間の生命力の凄まじさに胸が熱くなる。

 浅野は何度も頭を下げながら、それでも最後は笑顔で病棟の方へ帰っていった。


 浅野の背中が見えなくなった後、ユキと甲斐は目を合わせた。

 ユキは少しバツの悪そうな顔をして、ぽつりと本音をこぼした。


「……私、あの時、浅野さんの予後を決めつけて、彼の人生を勝手に諦めてしまってました」

「……」

「あの時点で、助かっても元には戻らないって。彼が望むような未来はもう無いんだって、冷めた目で見てました」


 それは、医療者として経験を積んだからこそ陥ってしまった、残酷な偏見(バイアス)の告白。

 甲斐は浅野が消えた廊下の先から視線を外し、淡々とした声で返す。


「外傷性のくも膜下出血に多発骨折。あの状態から後遺症なしで歩けるようになる確率は、統計的に見ても極めて低い。……お前の見立ては間違ってない――」

「でも、外れました。……すごく、嬉しい大外れですけど」


 ユキが少しだけ自嘲するように微笑むと、甲斐はふい、とPCモニターへ向き直った。

 甲斐の目を追いかけるようにじっと横から見ていると、彼はボソッと口を開く。


「医者ができるのは、あくまで生かすための『土台づくり』までだ。あそこまで回復したのは、本人の生命力に他ならない」

「……それでも。先生が完璧な処置と指示をしてくれたから、あの『生命力』が発揮されたんですよね?」


 もしあの時、誰もが「どうせダメだ」と手を抜けば、今日の奇跡はなかった。

 ユキの言葉に、甲斐は顔を上げた。


「……絶望しようが、諦めようが、手を動かし続けたならそれでいい。あの時のお前のように、手を止めないことが奇跡につながる」

「え……」


「勉強になったな。……お前も、俺も。……回診に行ってくる」


 そう言い残し、甲斐はナースステーションから出ていった。

 ユキは目を丸くして、頭の中では甲斐の言葉を咀嚼していた。


(あの時『手が止まるなら出て行け』と私に怒鳴った先生が、今……)


 ユキの口が自然と緩んだ。


「……先生っ! 回診はナースと一緒に回るんですよ!」


 ユキの弾む声が、廊下に明るく響き、甲斐の背中を追いかけた。


 ◇


 その日の終業後。更衣室で上機嫌に私服に着替え、ユキは病院の外へ出た。

 そのままコンビニに寄り、冷えたレモンサワーと焼き鳥を二本買った。


(今日はいい日だ。最高に美味しいレモンサワーが飲めそう!)


 すっかり暗くなった帰り道を、鼻歌まじりに歩く。

 その時、ポケットの中のスマホが震えた。

 取り出すと、画面には『バカ弟(龍太郎)』の文字。

 ユキは口角を上げたまま、すぐに通話ボタンを押した。


「もしもしー? なに、あんたもしかしてまた『仕事辞めたい』とか言うわけ?」


 ユキは揶揄うような、いつもの調子で話しかけた。

 しかし、電話の向こうの龍太郎の声色は、いつもとは違っていた。

 少し荒い呼吸音と、衣擦れのような音。


『……ねえ、ちゃん……』


 掠れた声に続いて、ドサっと、何かが崩れ落ちるような鈍い音が響いた。


「ちょ、どうしたの!?」

『……ごめん、俺……なんか、無理か、も……』


 今にも消えそうな声が聞こえた瞬間。ガタン! と大きな音がした。

 スマホが床に落ちたのか、そのまま通話は無情にも切れてしまった。


「え……? 龍太郎? も、もしもし!?」


 ユキが何度呼びかけても返事はなく、ツー、ツーと電子音が聞こえるだけ。

 先ほどまでの晴れやかな気は、一瞬にして吹き飛んだ。

 全身の血の気が引き、足元から世界がガラガラと音を立てて崩れ落ちていく感覚。


 手から力が抜け、コンビニの袋がアスファルトに落下した。

 遠ざかっていくレモンサワーの缶を、ユキはただ見つめていた。

 缶の転がる鈍い音が響く。

 

 遠くで、救急車のサイレンが鳴っていた。



【第3章 完】



 To be continued……

 Next▶︎第4章「一番近くの患者」

 


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