18.
行き先は図書塔。兄がよくいる場所だ。
塔と言うだけあって、垂直に背の高い建物が三階建てになっている。
本が焼けないようにだろう、少しだけ遮光の入ったガラスざ外の強い光を遮って、兄の姿をほのかに照らし出していた。
『レイモンド様の儚い美しさって素敵よねぇ…』
いつだったか聞こえた侍女の呟きをふと思い出し、そんな場合ではないのにアリィシアがどんな風に兄を見ているのかが気になった。
それを振り切るように、兄に声をかける。
「俺、王様に向いてません!兄上が王様になってください!」
兄は、驚いたように目を見張っていたけれど、バカにすることなく話を聞いてくれた。
そして、穏やかに言われたのだ。
「私は王にはなれないよ」
「もう、分かるはずだよ」
その声音には、説明ではなく、事実としての重さだけがあった。
兄上は、なりたくないわけではない。なれないのだ。
知っていた。
父である王が、なぜ自分を早々に王太子に据えたのか。
兄を支えるだけの政治的な土台が、この国には存在しないこと。もし兄が自分以上に優秀であると知られれば、その能力は守られるどころか、むしろ不本意な形で引き上げられ、政治の駒として使われかねないこと。
すべて、知っていた。
父からも、母からも、繰り返し言われてきたことだった。
それなのに、自分は兄に向かって「王になってほしい」と言った。兄がその立場に立てない理由など、最初から理解していたはずなのに。
ただ、どうしようもなく苦しかったのだ。
自分よりも優秀に見える兄を前にして、努力するという行為そのものの意味が分からなくなった。王太子として育てられながら、その自分よりもさらに高みにいるように見える兄に、いつか追いつけるのかと怖くなった。
だからこそ、思ってしまった。
──兄上が王になればいいのに、と。
今になって振り返れば、それは子供じみた我儘だった。
自分の不安と焦りを、行き場のないまま兄に向けただけの、幼い感情だった。
兄は、とうに受け入れているのだ。
自分には選べない立場があることも。
その上で、目立たぬように生きなければならないことも。
そして、それを当然として生きてきた年月が、自分よりも確かに長いということも。
たった三歳しか違わないのに、今の自分と同じ年の頃には、もうすでにそうしていた。
ランスロットは、ようやく自分の浅さを思い知った。
自分よりも優秀だと思った相手に対して、何も持たない自分が、ただ憤りだけをぶつけていたのだ。
その事実に気付いたとき、胸の奥に落ちたのは怒りではなく、静かな恥だった。
けれど、レイモンドは言ってくれたのだ。
不安で「俺、ちゃんとした王になれるのかな」と呟いたランスロットに対して、レイモンドは迷いなく頷いた。
「なれるさ。お前は父上と、エスメラルダ様の子供だ」
慰めでもなく、願望でもなく、ただ当然のことを口にするような、揺るぎのない確信。
兄は、自分を持ち上げようとしていたわけではない。
気休めでもなかった。本当にそう思っているからこそ、何の迷いもなく言えたのだ。
そして、兄だけではない。
父も。母も。
自分が王太子として立つことを、疑ったことなど一度もなかった。
(……俺は)
そこで初めて気付いた。
自分は「できるかどうか」を疑っていた。
だが彼らは最初から、「なるもの」として見ている。
その違いが、静かに胸の奥へ落ちていく。
ならば、いまの自分がどうであれ、それは問題ではない。
これからどう積み上げるか、それだけだ。
──兄上の方が優秀だと思うなら、それを上回る努力をすればいいだけだ。
そう、気付いた。
アリィシアが先に部屋を出て、自分も部屋を辞する時、最後に一つだけランスロットは聞いた。
「兄上はなぜ……努力出来るんですか?」
報われないかもしれない努力をなぜ。とは言えなかった。
聡明な兄は質問の意図を汲んでくれて、思わぬことを聞かれた、と目を見張り──少し考えると微笑んで答えた。
「第一王子は不出来だと言われたら、父上に申し訳ないからかな」
階段を下りながら、兄の言葉を考える。
『父上に申し訳ないから』
そんな理由で、あれほど努力できるものなのだろうか。兄が努力せずに優秀であると思うほどランスロットは幼くない。
ランスロットにはまだよく分からなかったけれど、一つだけ、思い当たることがあった。
アリィシアだ。
アリィシアに凄いと言われると嬉しい。
格好いいと言われると頑張りたくなる。
あれも、似たようなものなのかもしれない。
塔を出ると、入り口の石階段を降りたところでアリィシアが待っていた。真っ直ぐに伸びた背中と美しい立ち姿は、いつもランスロットの目を奪う。
「待たせたか?」
ランスロットがそう聞くと、ニコリと笑い首を振った。
帰り道、ランスロットは自分の中の気持ちを整理しながら、ぽつりぽつりとアリィシアに話しかけた。
「……アリィシア。俺さぁ…」
「うん」
「俺、いい王様になるよ」
「うん」
「沢山勉強してさ、兄上が実力出しても俺に敵わないくらい……。そしたら兄さんも、隠れて生きていかなくたってよくなるんだ」
兄からの「いい王になれる」は、ランスロットに力を与えた。きっと自分は頑張れる。
しかし、本気で向き合おうと思ったら、その道はずいぶん遠いような気がした。
少しだけ不安になったランスロットに気付いたのか、アリィシアがグッと両手を握って言った。
「……それなら、わたしはエスメラルダ様みたいな立派な王妃様になる」
「んぇ?」
「そしたら、ランスが大変な時に手伝ってあげられるでしょう?」
「お、おぉ……」
ランスロットは想像した。
父王フレデリックのように豪奢で重厚な真紅のマントと金の王冠を身に付けた自分。そして、その隣に立つアリィシアを。
(これってだいぶ……いいかもしれない)
がしかし、ふと心配になってアリィシアに聞く。
「……ってお前、王妃になるってどういうことか分かってんのか?」
「国民の模範になるってことだってエスメラルダさまは仰ってたわ」
「いや、それ以前に王妃は王の奥さんで……つまり俺の……」
そこまで言って、ランスロットは口を閉じた。
アリィシアは不思議そうな顔でランスロットを見ているが、これ以上この話をするのは気恥ずかしかった。それに、アリィシアが「じゃあ王妃はやめる」と言い出したら困る。
理由はうまく説明できないけれど、アリィシアが隣に居てくれると思った時のあの温かさを失いたくなかった。
「う、まぁいいか。……じゃあ頼りにしてるから頑張ってくれ」
「うん!」
満面の笑みで頷くアリィシアが可愛い。
「でも……怖がりで泣き虫なシアが出来るかぁ?」
照れ隠しに揶揄うように言えば、
「ランスだってサボり魔だったでしょ!あなたが出来るなら、わたしも出来るわ。今日からもう泣かないって決めたもの」
その言葉通り、アリィシアの泣き顔をそれ以降見ることはだいぶ減った。もちろん、ランスロットの前でだけ泣くことはあったけれど、それはカウントしない。と言うことに二人で決めた。ランスロットも、アリィシアの前では辛いと言っていい、ということにした。
今思えば、この頃がランスロットにとっては一番幸せな時期だったのかもしれない。
努力の末にいつか自分が王になって、その隣にはアリィシアがいる、と信じていられた時代だった。




