3月 さよならの季節
就職先の近くに、女性専用マンションを見つけたので、そこに一月から住み始めている。
アパートとはそれほど離れていないけど、人が住んでいるマンションと誰も住んでいないアパートじゃあ雲泥の差かも。
部屋の荷物だけど、時期的に引っ越し業者も安くないので、軽いものは自力でほとんど新居に運んだ。
と言っても、なんで買ったのかわからないアウトドア用品はリサイクルショップの出張買取に来てもらって売ることにしたんだけど。
元の値段が高いうえに、そんなに使用感もないとのことでそこそこの値段で買い取ってもらえたのは嬉しい誤算だった。
あとは退去時の立会いでアパートに一回だけ出向けば退去完了。
特に大した思い出もないあのアパートとはさよならとなる。
本当ならマンションに移ったときに契約解除したかったんだけど、一年更新だから三月までそのままのほうが違約金もかからず安いと言われてそのまま部屋は寝かせていた。
けれど、退去手続きを明日に控えた今日。
ワタシは吸い寄せられるように、誰もいないはずのアパートへと足を運んでいた。
がらんとした、何もなくなった部屋。
やっぱり何も思い出せないはずなのに、なぜだか胸の奥が締め付けられるように痛む。
ここに誰かがいたような。
ワタシは誰かと、このアパートで笑っていたような――。
「……やっぱり、何もないよね」
ぽつりと呟いた、その時だった。
ガチャリ、と玄関のドアが開く音。
鍵は閉めていたはずなのに。
立会いの不動産屋さんが日付を間違って来たのだろうか。
「あの、不動産屋さんですか――」
振り返ったワタシの前に立っていたのは、あの男だった。
あの十二月の夜、ナイフを持ってワタシを追いかけてきたストーカー。
「……待ってたヨ」
濁った目で笑う男。
その手に握られた金属の光を見た瞬間、全身の血が凍りついた。
逃げ場はない。
背後にはもう、壁しかない。
男がナイフを振り上げ、ワタシへ飛びかかってきた。
「嫌―――っ!!」
目を固く閉じ、悲鳴をあげた。
――ズドン。
重い衝撃音と、激しい破壊音。
けれど、痛みが来ない。
そっと目を開けると、男の手からナイフが弾き飛び、男自身が首を不可解な角度にねじ曲げられたまま、崩れ落ちていた。
ピクリとも動かない。
息をしていない。
そして、男とワタシの間に、
ぼんやりとした光を纏って立ち尽くす、ひとりの男の子の背中があった。
「…………?」
見覚えがある――気がする。
恐怖に支配されて体が動かないが、恐怖のあまりに目をそらそうとしてしまう。
けど、逃げずにじっとこらえて彼を見つめる。
その背中を見た瞬間、頭の中にかけられていた不自然なモヤが、音を立てて砕け散った。
あのアパートで過ごした日々。
二人で食べたカレー。
ベランダで回した扇風機。
秋の焚き火と焼き芋。
そして――彼がもう、この世にはいないのだということ。
ワタシが彼の魂をここに繋ぎ止めていたこと。
すべてを、思い出していた。
「……おにーさん!!」
彼がゆっくりと振り返る。
その表情にはいつもの気だるげはなく、どこか寂しそうで、けれどいつものように優しかった。
人の命を奪ってしまったからだろうか。
彼の身体が、足元から黒い霧のように、そして光の粒のように、次第に解けていく。
「……ごめんね、隣人さん――いや、ナナちゃん」
声は聞こえないはずなのに、頭の中に直接届いた。
「君を守るためなら、ボクはなんだってするよ。……でも、これで本当にお別れ」
「――嫌だ……嫌だよおにーさん! いかないで! ワタシを置いていかないで!」
手を伸ばしても、指先は彼をすり抜ける。
消えていく彼が、そっと身を乗り出し、ワタシの身体を優しく抱きしめた。
冷たいはずなのに、そこには確かに、あのアパートでずっと感じていた愛おしい温もりがあった。
「今までありがとう。……幸せになってね」
「おにーさん! だめ! 消えちゃダメ!」
彼が微笑む。
次の瞬間、彼の姿はかき消えるように空へと溶けていった。
ワタシは、何度も何度も、その光の欠片をかき集めようとするけど、むなしく何もつかめない。
誰もいなくなった静寂の部屋。
ワタシは膝から崩れ落ち、声をあげて泣いた。
ふと窓の外を見ると、三月の柔らかな風に乗って、満開の桜の花びらが舞い散っていた。
そしてその桜の合間を縫うように、空からは温かい、綿のような雪がひらひらと舞い降りてきていた。
あり得ない季節の奇跡。
まるで彼が最後に残してくれた、優しい祝福だった。




