53
リリアは視線だけを落とした。
机の端に転がってきた紙を開くと、そこには簡潔に答えが記されている。
そして、紙が飛んできた方へ僅かに視線を向けた。
ユリウス・グランツ。
この国の宰相を父に持ち、アルフレッドの側近を務める男。
そして――セレナを追い詰めた者の一人。
ユリウスは何食わぬ顔で黒板を見つめていた。
だが、ほんの一瞬だけ目が合う。
――なるほど。
助けてくれたらしい。
恐らくは親切心なのだろう。
だからといって、彼がセレナにしたことまで忘れてやるつもりはないが。
リリアは再び紙へ目を落とした。
答えは書いてある。
これをそのまま読み上げればいい。
「…………」
数秒見つめた後。
リリアは紙を伏せた。
「セレナ嬢?」
教諭が不思議そうに呼ぶ。
「申し訳ございません。分かりませんわ」
教室がざわめいた。
ユリウスが思わずリリアを見る。
教えた。
間違いなく答えを教えた。
彼女も紙を見た。
それなのに――答えなかった。
「そうか。では――ユリウス」
「……はい」
「答えられるか?」
ユリウスは立ち上がると、先ほど紙に書いたものと同じ答えを口にした。
「正解だ」
「ありがとうございます」
ユリウスは腰を下ろす。
だが、その視線は納得できないと言わんばかりにリリアへ向けられていた。
やがて授業の終了を告げる鐘が鳴った。
教諭が教材をまとめて退出すると、ユリウスはすぐさま席を立つ。
そして、真っ直ぐリリアの机へ向かってきた。
「セレナ嬢」
「何かしら」
「さっきの紙、見ただろう」
「ええ」
「なら、どうして答えなかった」
「答えが分からなかったからよ」
「書いてあっただろう」
「書いてあったわね」
「だったら――」
「ユリウス様」
リリアは静かに彼を見る。
「貴方、私に不正をさせたいの?」
「……は?」
ユリウスが目を瞬く。
「授業中、他人から答えを教えてもらい、それを自分で導き出した答えのように口にする」
リリアは机の上に置かれた紙を指先で押さえた。
「それを世間では何と呼ぶのかしら」
「いや、私はただ……!」
「助けてくださったのでしょう?」
予想外の言葉だったのか、ユリウスが止まった。
「それくらい分かっているわ」
「だったら――」
「だからこそ、答えなかったのよ」
リリアは真っ直ぐ彼を見上げる。
「私はセレナ・フォン・アウレリアよ」
「…………」
「事故で忘れてしまったものがあるなら、分からないと答えればいい。忘れたのなら、また覚え直せば済む話だわ」
そこで一度、言葉を切った。
「でも――分かってもいない答えを他人から教えられて、さも自分で解いたような顔をするくらいなら」
リリアは薄く笑った。
「首席なんてくれてやるわ」
「…………!」
ユリウスの目が大きく見開かれた。
「な……」
何かを言い返そうとして口を開く。
しかし、言葉が出てこない。
リリアはそんな彼を見て、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば」
「……何だ」
「貴方、次席だったわね」
「…………」
ユリウスの眉がぴくりと動く。
「だから何だ」
「別に?」
リリアは涼しい顔で答える。
そして――。
「ただ」
口元に、少し意地の悪い笑みを浮かべた。
「私が事故で記憶を失った今なら、ようやく勝てるかもしれないのに」
「……!」
「わざわざ敵に答えを教えるなんて、随分と余裕なのね」
「敵って……!」
「違うの?」
リリアが首を傾げる。
「私に勝ちたいのでしょう?」
「それは……!」
「なら敵でいいじゃない」
そして。
「万年次席さん?」
「なっ……!」
ユリウスの顔が一気に赤くなった。
「誰が万年次席だ!」
「貴方でしょう?」
「まだ一年しか経っていない! 万年ではない!」
「あら。細かいことを気にするのね」
「細かくない!」
ユリウスの声が教室に響く。
周囲の生徒たちが何事かと二人を見るが、リリアはどこ吹く風だ。
「今学期は絶対に抜く!」
「あら、そう」
リリアは頬杖をついた。
「頑張って」
「その余裕が腹立つんだよ!」
怒鳴るユリウスを見ながら、リリアは小さく笑った。
その笑顔に、ユリウスは一瞬だけ言葉を失う。
以前のセレナなら、こんな風に挑発してくることはなかった。
試験で何度負けても。
ユリウスが悔しさを露わにしても。
いつも穏やかに微笑んでいた。
それが余計に腹立たしかったのだが――。
今の彼女は、違う。
真正面から煽ってくる。
しかも、事故で記憶を失っているというのに、負けることなど微塵も考えていないような顔で。
「……絶対だからな」
「あら。まだ何か?」
「次の試験だ」
ユリウスはリリアを指差した。
「今度こそ、正真正銘、実力で貴女を抜く」
「そう」
リリアはにこりと笑った。
「楽しみにしているわ」
「……っ!」
その余裕が腹立たしい。
ユリウスは踵を返すと、自分の席へ戻っていった。
――やっぱり腹が立つ。
事故に遭って。
記憶まで失って。
それでも負けるつもりなど微塵もない顔をしている。
だったら。
もう余計な手助けなどしない。
手加減する必要もない。
次の試験こそ。
正真正銘、実力で。
今度こそ――。
セレナ・フォン・アウレリアを抜いてやる。
一方。
そんなユリウスの決意など露ほども知らないリリアは、悠然とした笑みを浮かべたまま机の上の教本へ視線を落とした。
数秒後。
すっと笑みが消えた。
(まずいわね)
格好をつけてしまった。
首席なんてくれてやる。
確かにそう言った。
言ってしまった。
だが――。
(セレナの成績を落とすわけにはいかないじゃない)
別に自分の成績ならどうでもいい。
最下位だろうが赤点だろうが知ったことではない。
だが、今ここにいるのは『セレナ』なのだ。
学院総合首席。
入学以来、その座を一度も譲ったことのない姉。
その成績を、自分が台無しにするわけにはいかない。
しかも。
『今学期は絶対に抜く!』
先ほどのユリウスの言葉が脳裏に蘇る。
リリアはゆっくりと隣を見る。
ルシアンがニヤニヤ笑っていた。
「何よ」
「いや? 随分と格好よかったなと思って」
「…………」
「『首席なんてくれてやるわ』だったか?」
「殺すわよ」
「皇子に向かって言う言葉じゃないな」
くつくつと笑うルシアンを、リリアは殺気の籠もった目で睨みつけた。
「それで?」
「何がよ」
「どうするんだ。セレナの成績を落とすわけにはいかないんだろ?」
「……貴方が教えなさい」
「無理」
即答だった。
リリアの眉間に皺が寄る。
「何故よ」
「俺だって成績は悪くないが、セレナと同じ首席を維持させろと言われたら話は別だ。それに――」
ルシアンは机の上に広げられた教本を指先で叩いた。
「お前、六年分だぞ」
「…………」
「基礎から抜けてる奴に学院二年の内容を叩き込んで、次の試験までに首席を取らせる。俺には無理だ」
「役立たず」
「理不尽だな」
リリアは忌々しげに教本へ目を落とした。
六年。
その言葉が重くのしかかる。
セレナと別れてからの六年間、リリアが学んできたものといえば魔物の急所、武器の扱い、野営の方法、毒の見分け方、敵から情報を吐かせる方法――。
学院の試験には一つとして出そうにない。
「まあ、一人だけいるけどな」
ルシアンが何気なく言った。
リリアが顔を上げる。
「誰よ」
「お前を次の試験までに首席争いができるところまで持っていけそうな奴」
「誰」
ルシアンは答えなかった。
ただ、楽しそうに笑っている。
「…………」
嫌な予感がした。
ものすごく嫌な予感がする。
「まさか」
「そのまさか」
「嫌よ」
「まだ名前も言ってないぞ」
「分かるわよ!」
思わず声が大きくなり、周囲の生徒がこちらを見る。
リリアは咳払いを一つして取り繕うと、声を落とした。
「絶対に嫌」
「じゃあ諦めろ」
「それも嫌」
「ならノアに頼め」
「…………」
リリアの顔が露骨に歪んだ。
ノア。
知識量だけでいえば、リリアが知る中でも間違いなく上位に入る。
頭の回転も異常に速い。
教えることも――上手い。
上手いのだが。
リリアの脳裏に、嫌な記憶が蘇った。
『まだ間違えるの? さっき教えたばかりだよね』
にこにこ。
『大丈夫。できるまでやれば、いつかはできるようになるよ』
にこにこ。
『眠い? そう。じゃあ眠気が覚める問題を追加しようか』
にこにこ。
『五問連続で正解するまで休憩はなしね』
にこにこ。
「…………」
リリアの顔から血の気が引いた。
怒鳴られたことなど一度もない。
殴られたこともない。
終始穏やか。
いつだって笑顔。
なのに逃げ道が一切ない。
ならず者の巣窟であるアビスを三日で制圧したリリアをして、二度と受けたくないと思わせた男の教育である。
「……嫌」
「じゃあ赤点だな」
「赤点は取らないわよ」
「今の問題すら分からなかった奴が?」
「…………」
「しかも万年次席さん、やる気満々だったぞ」
リリアの眉がぴくりと動いた。
『今学期は絶対に抜く!』
先ほどのユリウスの顔が浮かぶ。
「セレナが初めて首席から落ちるかもしれないな」
「…………」
「しかも事故から復帰した最初の試験で」
「…………」
「お前のせいで」
「黙りなさい」
低い声だった。
ルシアンは楽しそうに肩を揺らす。
リリアは教本を睨みつけた。
そして。
長い長い沈黙の末――。
「……ノアは今どこにいるの」
絞り出すような声だった。
「臨時教員用の研究室を貰ったって言ってたな」
「…………そう」
リリアは心底嫌そうに答えた。
ルシアンの笑みがさらに深くなる。
「頼みに行くのか?」
「違うわ」
「じゃあ何しに?」
「…………」
リリアは立ち上がった。
教本を抱える。
その表情は、これから強大な魔物の討伐へ向かう冒険者のように険しかった。
「……交渉よ」
「何を交渉するんだ」
「私に人間らしい生活を保障した上で勉強を教えるように」
「始める前から負けてるじゃないか」
「うるさい!」
リリアは吐き捨てるように言うと、教本を抱えて教室を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、ルシアンは堪えきれず吹き出した。
おそらく数刻後には。
いつもの笑顔を浮かべたノアに、
『もちろんいいよ。じゃあ、まず六年分の基礎がどこまで抜けているか確認しようか』
などと言われていることだろう。
そしてその『確認』だけで地獄を見る。
「ご愁傷様」
ルシアンは笑いながら呟いた。
一方、廊下を歩くリリアは既に後悔し始めていた。
魔物なら殴れば倒せる。
敵なら斬ればいい。
ならず者なら脅せば大抵どうにかなる。
だが――。
(あの男だけは、殴っても勉強から逃がしてくれないのよね……)
リリアは人生で初めて、ユリウスに首席を譲ってもいいのではないかと本気で考え始めていた。




