52
リリアは教室へ戻ると、自席の椅子を引いて腰を下ろした。
先ほどの騒動など最初からなかったかのように鞄へ手を伸ばし、次の授業で使う教本を取り出そうとして――。
「…………」
止まった。
授業。
そう。
学院へ来た以上、当然ながら授業がある。
リリアはゆっくりと鞄の中へ視線を落とした。
昨夜、一応確認しておいた教本が綺麗に並んでいる。
どれもセレナが使っていたものだ。
一冊取り出し、頁を開く。
整った文字で、余白までびっしりと書き込みがされていた。
「…………」
リリアは無言で閉じた。
もう一度開く。
閉じる。
もう一度開く。
「…………」
やはり閉じた。
近くの席にいた生徒が、不思議そうにこちらを見ている。
――分からない。
何なの、この術式。
何なの、この計算式。
というより。
何語?
間違いなく自分にも読める王国語で書かれているはずなのに、意味だけが綺麗さっぱり頭に入ってこない。
リリアは実戦ならば強い。
魔物を狩り。
ならず者を叩き伏せ。
命の奪い合いを何度も潜り抜け。
十歳にして奈落街アビスを僅か三日で制圧した。
冒険者として積み上げた経験なら、学院の生徒どころか並の騎士にだって負けるつもりはない。
だが。机に座って教本を開き、術式を解いている暇などあるはずもなかった。
一方――。
セレナ・フォン・アウレリア。
学院総合首席。
「…………」
リリアは静かに天井を仰いだ。
(セレナ。復讐より先に、とんでもない難敵がいたわ)
「何してるんだ、お前」
頭上から呆れた声が降ってきた。
リリアは視線だけを向ける。
そこに立っていた人物を見て、僅かに眉を上げた。
「……ルシアン様」
「随分と注目を集めていたな」
「見ていたの?」
「ああ。途中からな」
「なら分かるでしょう。私のせいではないわ」
「半分くらいはお前のせいだろ」
「失礼ね」
ルシアンは当然のように隣の自席へ腰を下ろす。
そして、開かれたままの教本へ何気なく目を落とした。
「…………」
数秒。
今度はルシアンが黙った。
「何よ」
「……まさか」
「何です?」
「分からないのか?」
「…………」
リリアは答えない。
ルシアンが目を細めた。
「セレナ」
「声が大きい」
「いや、セレナと呼んだだけだろ」
「その後に余計なことを言うなという意味よ」
「やっぱり分からないんじゃないか」
「うるさいわね」
リリアは声を潜めて睨みつける。
「実戦で使えれば十分でしょう」
「十分じゃない。セレナは筆記も一位だぞ」
「知ってるわよ」
「次の試験は?」
「知らないわ」
「……お前」
「何よ」
ルシアンは額を押さえた。
「正体が露見するとしたら、アルフレッドでもフェリクスでもなく試験だな」
「…………」
否定できない。
それが何より腹立たしい。
「どうにかなさい」
「何で俺が」
「幼馴染でしょう」
「こういう時だけ幼馴染を使うな」
「セレナのためよ」
「それを言えば俺が断れないと思っているだろ」
「ええ」
即答した。
「…………」
ルシアンが深い溜息を吐く。
「昔からそういうところだけは頭が回るな」
「だけ、とは何よ」
その時。
始業を告げる鐘が学院内に鳴り響いた。
教室に散らばっていた生徒たちが次々と席へ戻っていく。
リリアも姿勢を正し、改めて教本へ視線を落とした。
そこには、セレナの文字がある。
丁寧に引かれた線。
細かな補足。
教師の説明だけでは足りなかったのか、自分で調べたらしい追記まである。
姉がこの場所で学んできた証。
そして、この教本の向こうには――リリアの知らないセレナの学院生活がある。
日記に書かれていたこと。
書かれていなかったこと。
セレナを傷つけた者。
セレナを信じなかった者。
そして。
あの事故へ繋がった何か。
全部、自分の目で確かめる。
そのために自分はここにいるのだ。
リリアは静かに教本を開いた。
「ルシアン様」
「何だ」
「後で教えて」
「嫌だ」
「命令よ」
「誰に命令してる」
「帝国の皇子だろうが何だろうが、私には関係ないわ」
「昔から本当に変わらないな、お前は」
呆れたような言葉とは裏腹に、ルシアンの口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
そんな二人のやり取りを――。
少し離れた席から、アルフレッドが黙って見つめていた。
セレナが誰かとあんな風に言葉を交わす姿を、彼は見たことがなかった。
遠慮もなく。
取り繕いもせず。
相手の身分を気にすることすらなく。
まるで――。
ルシアンの前でだけは、別人のように。
アルフレッドの胸の奥に、言葉にできない何かが引っ掛かった。
その隣では、エミリアもまた二人を見ていた。
ただし。
アルフレッドとはまるで違う感情を、その瞳に宿しながら。
程なくして、担当教諭が教室へ入ってきた。
教壇へ教材を置くと、生徒たちを見渡す。
「さて、新学期最初の授業だ。いきなり新しい範囲へ入ってもいいが、その前に前学期までの内容をどれだけ覚えているか確認しておこう」
その言葉に、リリアの眉が僅かに動いた。
――嫌な予感がする。
「まずは簡単な復習からだ」
教諭が黒板へ術式を書き始める。
リリアは無言でそれを眺めた。
途中まではいい。
文字も読める。
数字も分かる。
記号も――まあ、見覚えくらいはある。
だが。
(何だこれ)
完成した術式を前に、リリアは真顔になった。
「では、この術式において魔力効率を維持したまま結界範囲を二倍に拡張する場合、最初に変更すべき箇所は――」
教諭が教室を見渡す。
嫌な予感が確信へ変わった。
「セレナ嬢」
視線が一斉に集まる。
リリアは立ち上がった。
「…………」
「…………」
教諭が待つ。
リリアも黙る。
数秒。
教室のあちこちから、不思議そうな視線が向けられ始めた。
普段のセレナなら、指名された瞬間に答える。
それどころか教師の出題意図まで読み取り、必要なら補足まで添えるほどだった。
そんな彼女が、答えない。
「……セレナ嬢?」
「はい」
「分からないか?」
「…………」
まさか、ここで『何一つ分かりません』などと言えるはずがない。
セレナは学年首席なのだ。
リリア一人が馬鹿だと思われるだけなら構わない。
だが今の自分は、セレナ・フォン・アウレリアとしてここにいる。
姉の名誉を傷つけるわけにはいかない。
「申し訳ございません」
リリアは僅かに眉尻を下げた。
「事故の影響でしょうか。どうしても一部、記憶が曖昧なところがございまして……」
「ああ……」
教諭の表情から怪訝さが消えた。
「そうだったな。無理をさせてすまない」
「いいえ」
これで何とか切り抜けた。
そう思った時だった。
「第三式」
隣から、ぽそりと声がした。
リリアは目だけを動かす。
ルシアンだった。
こちらを見ることすらなく、頬杖をついたまま教本へ目を落としている。
「……第三式ですわ」
そのまま答える。
「そうだ。思い出せたか」
「ええ。おかげさまで」
教諭は満足そうに頷いた。
「事故の直後だ。焦る必要はない。授業を受けているうちに思い出すこともあるだろう」
「ありがとうございます」
リリアは何事もなかったように腰を下ろした。
机の下で、ルシアンの靴を軽く蹴る。
「痛い」
「助かったわ」
「礼の仕方を知らないのか、お前は」
「声」
「はいはい」
二人のやり取りは、周囲には届かないほどの小声だった。
だが。
少し離れた席から、その一部始終を見ていた者がいた。
ユリウスだった。
「…………」
彼は僅かに目を細める。
――セレナ・フォン・アウレリア。
入学以来、一度たりとも成績で勝てたことのない相手。
筆記。
魔法理論。
歴史。
政治学。
どれだけ勉強しても。
どれだけ自信があっても。
試験結果が張り出されれば、いつも一番上にある名前はセレナ。
そして自分は、その下。
万年次席。
悔しくないはずがなかった。
だからこそ。
先ほど答えられずに立ち尽くしたセレナを見た瞬間――ほんの僅かに、胸が高鳴った。
勝てるかもしれない。
初めて。今度こそ。
そんな考えが頭を過った。
だが。
『事故の影響でしょうか』
その言葉を聞いた瞬間、そんな自分を恥じた。
彼女は事故に遭ったばかりなのだ。
命すら危ぶまれたと聞いている。
それに。
ユリウスは、セレナから受けた恩を忘れてはいなかった。
自分がどうしても理解できなかった術式を、放課後まで残って教えてくれたこと。
試験前、自分が体調を崩した時には授業の要点をまとめたノートを貸してくれたこと。
競争相手だからと出し惜しみすることなど、一度もなかった。
むしろ――。
『次はユリウス様が首席かもしれませんわね』
そう笑っていた。
腹が立つくらい、いい奴だった。
だから余計に負けたくなかった。
「では、次だ」
教諭が新たな問題を書く。
先ほどより難しい。
「これは少し応用になるが――」
説明を終えた教諭が再び教室を見渡す。
「セレナ嬢。いけるか?」
(また私?)
リリアは教諭を睨みそうになった。
事故の後遺症があると言ったばかりではないか。
何故また当てる。
しかし、どうやら教諭としては記憶を刺激するために、あえて普段の授業と同じように接しているらしい。
悪意がないのが余計に厄介だった。
リリアは立ち上がる。
黒板を見る。
――が。分からない。
隣を見る。
ルシアンは――。
(こいつ……!)
教本を捲っている。
先ほどと違い、答えを探しているらしい。
使えない。
その時だった。
机の端に、小さく丸められた紙が転がってきた。




