51
「頬を叩かれた、だったかしら」
「……はい」
「それも事実よ」
今度は誰もすぐには騒がなかった。
先ほどまでとは違い、皆がリリアの次の言葉を待っている。
「ただし、何の理由もなく突然叩いたわけではない」
リリアは淡々と続ける。
「私は何度も『お義姉様と呼ばないで』と言った。それでも貴女は聞かなかった」
「でも、わたくしは……本当のお姉様のように思っていたから……」
「貴女がどう思っていようと関係ないわ」
即座に切り捨てた。
「呼ばれる側の私が嫌だと言っているの。それを何度拒絶されても続けることを『慕っている』の一言で正当化しないで」
「…………」
「それに、頬を叩いた時のやり取りもすべて話したの?」
エミリアは答えなかった。
「そう。これも話していないのね」
「ち、違――」
「次」
リリアは容赦なく話を進める。
「学院で孤立させようとした?」
小さく首を傾げた。
「具体的に私は何をしたの?」
「……え?」
「誰かに貴女と話すなと命じた?」
「それは……」
「貴女と親しくした人間に圧力を掛けた?」
「…………」
「アウレリア家の力を使って、貴女を避けるよう誰かに命じた?」
「……いいえ」
「なら、何をもって私が貴女を孤立させようとしたと言っているの?」
「セレナ様が……わたくしに冷たくなさるから……皆様も……」
「私が貴女を嫌っていることと、周囲に貴女を排斥するよう働きかけることは別でしょう?」
「ですが……」
「私は誰にも命じていない。違う?」
「……違いません」
「なら、それは私が貴女を孤立させたとは言わないわ」
リリアは淡々と言い切った。
「それから――」
今度は僅かに目を細める。
「私が貴女を使用人同然に扱っていた、だったわね」
「……はい」
「具体的には?」
「わたくしに……お茶を淹れさせたり、皆様のお世話をさせたり……」
「私が命じて?」
「…………」
エミリアの返事が止まった。
「どうしたの?」
「でも……わたくしがお茶を用意していたことは事実です」
「そんなことは聞いていないわ」
リリアは即座に返した。
「私が命じたのかと聞いているの」
「…………」
「答えなさい」
「……命じられては、いません」
周囲がざわついた。
リリアは目を細める。
この件については、セレナの日記にも書かれていた。
アルフレッドやレオンハルトたちが屋敷を訪れると、エミリアは決まって自ら茶器を運び、菓子を用意し、甲斐甲斐しく彼らの世話をしていた。
セレナが使用人へ任せるよう言っても、
『これくらい、わたくしにさせてください』
そう笑って断っていたという。
当初、セレナは客人をもてなしたいのだろうと深く考えていなかった。
しかし、いつからか。
エミリアが給仕をするたび、アルフレッドたちがセレナへ向ける視線が冷たくなっていった。
そして、ある日。
『エミリアを使用人のように扱うのはやめろ』
アルフレッドから突然そう言われた。
自分は一度も命じていない。
むしろ使用人に任せるよう言っている。
それなのに、どうしてそんな誤解をされたのか分からない。
セレナは日記にそう記していた。
リリアは目の前のエミリアを見つめる。
ようやく、すべてが繋がった。
「なら、何故お茶を用意していたの?」
「それは……皆様をおもてなししたくて……」
「自分から?」
「……はい」
「私が使用人に任せるよう言っても?」
「…………」
「エミリア」
「……自分で、やりたいと申し上げました」
「そうでしょうね」
リリアは冷たく笑った。
「随分とおかしな話だと思わない?」
「……何がですか?」
「自分から給仕を申し出た。私が止めても続けた。それを見た人間には、まるで私が貴女にやらせているように見えた」
「わたくしは、そんなつもりでは――」
「そうかしら?」
リリアの一言に、エミリアの声が止まった。
「少なくともアルフレッド殿下は、そう思っていたようだけれど」
「……っ!」
エミリアが息を呑む。
「以前、殿下から『エミリアを使用人のように扱うな』と叱責されたことがあるわ」
周囲がざわめく。
「私は何のことか分からなかった。当然よね。命じた覚えなど一度もないのだから」
リリアは一歩、エミリアへ近づいた。
「それなのに、貴女は殿下の誤解を解かなかった」
「それは……」
「『セレナ様に命じられたわけではありません。私が自分からしていることです』と、一言言えば済んだ話でしょう?」
「…………」
「何故言わなかったの?」
エミリアの唇が震える。
「気付かなかっただけです……殿下がそのように誤解なさっているなんて……」
「本当に?」
「……っ」
「まあ、いいわ」
リリアはそれ以上追及しなかった。
代わりに、周囲へ聞かせるようにはっきりと言う。
「貴女がお茶を用意していたのは事実。私がその場にいたのも事実。そして、それを見た殿下たちが『セレナがエミリアに給仕させている』と思っていたのも事実」
そこで一度言葉を切った。
「でも――」
再びエミリアを見る。
「私が命じていなかったことも、貴女が自分からやっていたことも、同じく事実よ」
「…………」
「なのに今、ベアトリーチェ様には『セレナに使用人同然に扱われていた』と話した」
「わ、わたくしはそんな言い方――」
「なら、訂正すればよかったでしょう?」
「……え?」
「先ほどベアトリーチェ様が『屋敷では使用人同然に扱った』と私を糾弾した時、貴女はすぐ隣にいたわよね?」
エミリアの顔から血の気が引いた。
「聞こえていなかった?」
「…………」
「違うなら、その場で否定できたはずよ」
「それは……」
「でも、貴女はしなかった」
リリアは薄く笑った。
「むしろ止める振りをして、黙って聞いていた」
「違います!」
「何が違うの?」
「わたくしは本当に、こんな大事にするつもりでは……!」
「大事にするつもりがあったかどうかなんて聞いていないわ」
リリアの声が低くなる。
「貴女は、自分に都合のいい誤解を一度も訂正しなかった」
「…………」
「それだけよ」
周囲が静まり返る。
先ほどまでエミリアを庇っていた令嬢たちですら、何も言わなくなっていた。
「もうよろしいでしょう!」
ベアトリーチェが耐えかねたように声を上げた。
「これ以上エミリアを追い詰めて何が楽しいのです!」
「追い詰める?」
リリアは不思議そうにベアトリーチェを見る。
「私は事実を確認しているだけだけれど?」
「この状況のどこが――!」
「先ほどまで貴女が私にしていたことと、何が違うの?」
「…………!」
ベアトリーチェが息を呑む。
「貴女はエミリアから聞いた話を並べ、大勢の前で私を糾弾した」
リリアは真正面から彼女を見る。
「だから私は、その内容が事実なのか一つずつ確認しただけ」
「わたくしは……エミリアを信じていただけですわ!」
「エミリアを信じることと、事実確認を怠ることは別でしょう?」
静かな声音だった。
「ましてや貴女は公爵家の令嬢でしょう。一方の話だけを聞いて、事実を確かめることもなく、他家の令嬢を公衆の面前で糾弾する。それがどれほど軽率な行いかくらい分かるのではなくて?」
「……っ」
ベアトリーチェの顔が羞恥で赤く染まる。
「でも……エミリアは嘘など――」
「ええ」
リリアはあっさり頷いた。
「だから、嘘ではないでしょう?」
「……え?」
「部屋を追い出された。私物を放り出された。頬を叩かれた。私から冷たくされていた。自分がお茶を淹れていた」
指折り数えるように並べていく。
「全部、起きた出来事そのものは事実よ」
そして、エミリアへ視線を戻す。
「ただ、自分に都合の悪い前後を話していないだけ」
「…………」
「嘘をつかなくても、人を騙すことはできるものね」
その言葉に、エミリアの顔が強張った。
周囲の視線が変わる。
先ほどまで同情するようにエミリアへ向けられていた眼差しに、今では明らかな疑念が混じっていた。
「それから――」
リリアはエミリアを見る。
「仲直り、だったかしら」
「……はい」
「おかしなことを言うのね」
「え……?」
「仲直りって、元々仲の良かった者同士がするものではなくて?」
エミリアの顔が固まった。
「残念だけれど、私たちに仲直りをするような関係はないわ」
「で、ですが……」
エミリアは縋るようにリリアを見る。
「わたくしたちは姉妹ですもの……」
「またそれ?」
リリアは露骨にうんざりした顔をした。
「何度言わせるのよ」
「……っ」
「貴女が私を姉だと思うのは勝手。でも、私にまで姉妹だと認めるよう押し付けないで」
「わたくしは、ただ……」
「本当の姉妹のように仲良くしたい?」
先ほどの言葉をそのまま返す。
「なら、まず相手が嫌がっていることをやめるところから始めたら?」
エミリアが何も言えなくなる。
「私は何度も拒絶した。それでも貴女は聞かなかった」
リリアは冷めた目で彼女を見た。
「それを今度は、大勢の前で『仲良くしたい』と言えば、私が受け入れなければならないの?」
「そんなつもりでは……」
「だったら、私が断っても問題ないでしょう?」
「…………」
「だから、お断りするわ」
今度ははっきりと。
エミリアに逃げ道を与えないよう言い切った。
「私は貴女と仲直りする気も、姉妹ごっこをする気もない」
周囲が静まり返る。
リリアはそこでようやくベアトリーチェへ視線を移した。
「これで確認は終わりかしら?」
「…………」
返事はない。
「なら、今度こそ失礼するわ」
リリアは踵を返しかけ、ふと思い出したように足を止めた。
「そうそう、ベアトリーチェ様」
「……何ですの」
「次に誰かを糾弾なさる時は、せめて双方から事情を聞いてからになさった方がよろしくてよ」
ベアトリーチェの顔が引き攣る。
「公爵令嬢ともあろう方が、他人の言葉に踊らされて恥をかく姿など、そう何度も見たいものではありませんもの」
「なっ……!」
反論を聞く気などなかった。
リリアはそのまま踵を返す。
集まっていた生徒たちは、彼女が近づくと自然と左右へ退き、一本の道を作った。
リリアはその間を悠然と歩いていく。
背後から聞こえてくるのは、先ほどまでとは明らかに質の違う囁き声。
誰一人として、リリアを呼び止める者はいなかった。
セレナを大勢の前で追い詰めるために用意されたはずの舞台。
その中心に取り残されたのは、リリアではなかった。




