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セレナが会場へ姿を現した瞬間、それまで賑やかだった空気が一瞬静まり返った。
「まあ、アウレリア家のご令嬢ですわ」
「あら……ですが、お一人なのかしら?」
「殿下はどうされた? ご一緒ではないのか?」
学院内の事情を知らない卒業生や保護者たちは、婚約者を伴わず現れたセレナの姿にざわめいた。
第一王子の婚約者が一人で舞踏会へ現れる。
それは貴族社会では極めて異例の出来事だった。
不用意に声を掛けるべきか、それとも二人の間に何かあったのか。
誰もが周囲の様子を窺っている。
そんな中、迷うことなくセレナのもとへ歩み寄る二人の青年がいた。
「お久しぶりでございます、お嬢様」
柔らかな笑みを浮かべ、一人が優雅に一礼する。
「それにしても、相変わらずお美しい」
「お久しぶりです、ヴィクトル様」
セレナの表情がふっと和らいだ。
「貴方は相変わらず、お口がお上手ですわね」
もう一人の青年も穏やかに微笑む。
「調子はどうだい、セレナ嬢。君はこの国の宝なんだから、無理だけはしないでほしい」
「アルヴィン様、ご心配ありがとうございます」
セレナは上品に微笑み返した。
「わたくしは変わりなく過ごしております。宝だなんて大袈裟ですわ。ただの一介の娘に過ぎませんもの」
学院で見せる張り詰めた表情とは違う。
二人を前にしたセレナの笑顔は、どこか自然だった。
「あそこにいらっしゃるのは、前生徒会の副会長と前会長ではなくて?」
「お二人のお姿を拝見できるなんて光栄ですわ」
「あら? もうお一人の前副会長はご一緒ではないのかしら」
令嬢たちが色めき立つ。
ヴィクトル・ローゼンクロイツ。
王国最大の商会を率いるローゼンクロイツ侯爵家の嫡男にして、次期当主。
アルヴィン・ラグナール。
古代魔法と結界術に秀で、宮廷魔導師筆頭を務めるラグナール侯爵の嫡男。
二人は昨年セレスティア魔導学院を卒業した卒業生であり、生徒会ではアルヴィンが会長、ヴィクトルが副会長を務めていた。
そして二人とも、生徒会時代からセレナの実力と人格を高く評価し、彼女の秘密を知る数少ない理解者だった。
「ところで、殿下はどうしたんだい?」
アルヴィンが穏やかな口調で尋ねる。
「……まさか、学院で流れている噂は本当じゃないだろうな?」
ヴィクトルは眉間に皺を寄せ、怪訝そうな表情を浮かべた。
セレナが一人で会場へ現れたことに、二人とも違和感を覚えたのだろう。
その問い掛けの根底にあるのは、詮索ではなく純粋な心配だった。
それが分かったからこそ、セレナは二人に心配をかけまいと何事もないように微笑む。
「殿下は急遽所用がおできになりまして、後ほどお見えになられるそうですわ」
その言葉に、聞き耳を立てていた周囲の貴族たちから安堵の吐息が漏れた。
第一王子との不仲ではない――その事実だけで十分だったのだろう。
「……そうか」
アルヴィンは一瞬だけ言葉を止めた。
セレナの笑顔を静かに見つめ、それ以上は何も聞かなかった。
「それなら良かった」
穏やかに微笑む。
ヴィクトルも口には出さなかったが、その瞳にはどこか複雑な色が浮かんでいた。
「お嬢様」
気を取り直すようにヴィクトルが声を掛ける。
「本日、父が来ているんですが、よろしければ久しぶりに顔を見せてやってくれませんか」
「まあっ! ローゼンクロイツ侯爵もお見えになっているのですか?」
「ええ。お嬢様を見掛けたら『すぐに連れて来い』って、父がうるさくて」
肩を竦めながら苦笑するヴィクトルに、セレナは思わず小さく笑みを零した。
「ふふっ。ローゼンクロイツ侯爵らしいですわね」
どこか懐かしそうに目を細める。
「お会いするのはいつぶりでしょう。ぜひご挨拶させていただきますわ」
「ありがとうございます。父もきっと喜びます」
ヴィクトルの言葉に、アルヴィンも続けた。
「私の父と、グランヴェル辺境伯もお越しになっております。よろしければ、お二人にもぜひご挨拶を」
「まあ。ラグナール侯爵様とグランヴェル辺境伯様までお見えになっているのですね」
セレナは少し驚いたように目を瞬かせる。
「今宵は実に豪華な顔触れですわ」
ローゼンクロイツ侯爵家。
王国最大の財閥にして、経済を支配する名門。
銀行、海運、鉱山、武器製造をはじめ、国内の主要商会や商業ギルド、冒険者ギルドにまで絶大な影響力を持つ。
その莫大な財力は王家ですら無視できず、歴代国王も度々融資を受けてきたほどである。
ラグナール侯爵家。
王国最高峰の魔法教育と魔導研究を担う魔導の名門。
セレスティア魔導学院を創設した一族であり、歴代の宮廷魔導師長を数多く輩出してきた。
王都を覆う結界の維持、古代魔法の研究、魔導技術の管理と発展――その全てを一手に担い、王国の魔導文明を支えている。
グランヴェル辺境伯家。
建国以来、北方防衛を一手に引き受けてきた武門の名家。
王国最強と名高い辺境軍を擁し、その戦力は王国騎士団すら凌ぐと評される。
北方に巣食う魔物や異民族、さらには諸外国の侵攻を幾度となく退け続け、「グランヴェル家が滅ぶ時、王国もまた滅ぶ」とまで語られている。
三家はいずれも、建国以来アウレリア公爵家と共に王国を支え続けてきた盟友であり、その影響力は国王であっても軽んじることはできない。
中でもラグナール侯爵家は、セレスティア魔導学院の創設者の一族でもあるため、当主は毎年創立記念大舞踏会へ出席していた。
しかし、ローゼンクロイツ侯爵とグランヴェル辺境伯が同時に姿を見せることは極めて珍しく、その異例の顔触れに会場の一角では小さなどよめきが広がっていた。
「フェリクス」
セレナは静かに振り返る。
「せっかくの祝宴です。貴方も自由に過ごしなさい」
「……ありがとうございます」
フェリクスは深く一礼した。
セレナとアルヴィン、ヴィクトルの三人は、彼らの父親が待つ部屋へ向かう。
会場の脇にある扉を抜けると、そこには人通りの少ない静かな廊下が続いていた。
三人は廊下を進み、一室の前で足を止める。
ヴィクトルが軽く扉を叩いた。
「ヴィクトルです。お嬢様をお連れしました」
「入れ」
低く威厳のある声が返ってくる。
ヴィクトルが扉を開くと、室内には落ち着いた調度品が整えられ、中央の応接セットでは三人の壮年の男たちが酒杯を交わしていた。
王国を支える重鎮たちである。
「ローゼンクロイツ侯爵様、ラグナール侯爵様、グランヴェル辺境伯様。お久しゅうございます」
セレナは優雅に裾を摘まみ、非の打ちどころのない最上級のカーテシーを披露する。
「セレナ・フォン・アウレリアでございます」
「久しぶりだな、セレナ嬢」
ローゼンクロイツ侯爵が目を細める。
「堅苦しい挨拶は後だ。さあ、こちらへ来なさい」
ラグナール侯爵が穏やかに手招きをした。
「いやはや……本当に大きくなられたものだ」
グランヴェル辺境伯は感慨深げに頷く。
「グランヴェル辺境伯様におかれましては、約九年ぶりでございましょうか」
グランヴェル領は王都から馬車で一か月以上を要する辺境の地にある。
領地を預かる辺境伯が自ら王都へ赴くことは極めて稀だ。
セレナが最後に辺境伯と顔を合わせたのは、母の葬儀の日だった。
「昨年は孫が学院へ在学しておったからな。今年は息子と孫に領地を任せ、久方ぶりにワシが来た」
「ガイアス様には学院でも大変お世話になりました」
セレナは深々と頭を下げる。
ガイアス・グランヴェル。
ヴィクトルやアルヴィンと同じく昨年の卒業生であり、生徒会では前副会長を務めていた青年である。
「何、まだまだ未熟者じゃ。しかしセレナ嬢の力になれたのなら、それだけで十分じゃ」
グランヴェル辺境伯は白髭を撫でながら穏やかに笑った。
その空気を変えたのは、ローゼンクロイツ侯爵だった。
「ヴィクトル」
低い声が部屋へ響く。
「セレナ嬢の婚約者はどうした。彼も連れて来るよう言っておいたはずだ」
「殿下は急用が入り、後ほど会場へ来られるそうです」
ヴィクトルは事実だけを答えた。
その瞬間。
部屋の空気が僅かに張り詰める。
「……つまり」
ラグナール侯爵が静かに口を開いた。
「セレナ嬢は婚約者の付き添いもなく、一人で会場へ入ったということか」
穏やかな眼差しが鋭く変わる。
「あの若造……」
グランヴェル辺境伯が苦々しく吐き捨てた。
「婚約者を一人で会場入りさせるなど、公爵家に対する侮辱にも等しい。何を考えておる」
ローゼンクロイツ侯爵も深く息を吐く。
「第一王子という立場でありながら、社交の礼すら弁えぬか」
その一言には失望が滲んでいた。
「皆様」
重苦しい空気を和らげるように、セレナは静かに微笑む。
「わたくしは大丈夫です」
その笑顔がかえって痛々しい。
「大丈夫なものか」
グランヴェル辺境伯は首を横に振った。
「最近の殿下に関する噂も耳にしておる」
「……私も同感だ」
ローゼンクロイツ侯爵が腕を組む。
「陛下は以前よりアウレリア家に対して警戒心を抱いておられた。その影響を受けているのかもしれん」
ラグナール侯爵も静かに続けた。
「だが、それとこれとは話が別だ」
そしてグランヴェル辺境伯がゆっくり立ち上がる。
「アルヴェリア王国が建国以来今日まで繁栄してこられたのは、歴代アウレリア公爵家が国を支え続けてきたからだ」
鋭い視線が窓の外へ向けられる。
「まして現当主不在の今、その重責を背負うのは本来セレナ嬢だ。その事実を、王家が忘れているというのであれば――愚かにも程がある」




