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創立記念大舞踏会当日。
セレナはアルフレッドから贈られたドレスに身を包み、寮の自室で迎えを待っていた。
鏡に映る姿は完璧だった。
だが、その胸中は少しも晴れていない。
部屋の隅にはフェリクスが控えていた。
「セレナお嬢様。お荷物は既に本邸へ送っております」
感情のない事務的な口調。
「お帰りの際は会場に馬車を手配しておりますので、寮へお戻りいただく必要はございません」
「そう。分かったわ」
セレナもまた淡々と答える。
まるで業務連絡を交わす他人同士のようだった。
「それと」
フェリクスが続けた。
「旦那様のご指示により、帰路はエミリア様に付き添うことになっております」
一瞬だけ沈黙が落ちる。
「ですので、お嬢様は馬車が到着しましたらお一人でご帰宅ください」
セレナはゆっくりと視線を向けた。
「……貴方はわたくしの従者でしょう」
責めるような口調ではない。
ただ事実を確認するような声音だった。
しかしフェリクスの表情は変わらない。
「旦那様のご指示です」
短い返答。
それだけだった。
セレナは数秒間フェリクスを見つめる。
幼い頃から共に育った従者。
かつては誰よりも信頼していた相手。
だが今、その面影はどこにもない。
「そう」
それ以上は何も言わなかった。
言ったところで意味がないと分かっていたからだ。
フェリクスもまた、自分の言葉を聞くつもりなどないのだから。
部屋に重苦しい沈黙が落ちる。
その時だった。
コンコン、と扉がノックされた。
舞踏会の開始を告げる迎えが来たのだ。
フェリクスが部屋の扉を開いた。
そこに立っていたのはアルフレッド本人ではなく、彼の執事だった。
執事は入室すると同時に深々と頭を下げる。
「セレナ様。誠に申し訳ございません」
その声には明らかな緊張が滲んでいた。
「アルフレッド殿下よりお伝えに参りました。殿下は急なご予定が入ったため、先に会場へ向かわれるようにとのことです」
「急用でしたら仕方ありませんね」
セレナは落ち着いた様子で答えた。
「そのご用事はいつ頃終わるのでしょう。数時間も掛からないのでしたら、こちらでお待ちしますわ」
創立記念大舞踏会は社交界の縮図とも呼ばれる場だ。
婚約者がいる者は婚約者と。
いない者も相手を定め、男性が女性を伴って入場する。
そのため女性がたった一人で会場へ現れることは極めて珍しい。
まして第一王子の婚約者ともなれば尚更だった。
急用であれば事情を説明すれば済む話だ。
だが現在のセレナには悪評が付きまとっている。
これ以上、余計な噂の種を増やしたくはなかった。
しかし。
執事はすぐには答えなかった。
何かを言い淀むように視線を伏せる。
「殿下は、その……」
一瞬の沈黙。
「恐らくそのまま会場へ向かわれるものと思われます」
セレナの眉が僅かに寄った。
「でしたらお伝えください」
静かに言う。
「わたくしは寮でお待ちしております。殿下の御用がお済みになりましたら、お迎えに来てくださるよう」
執事の表情がさらに曇った。
「それは……難しいかと」
「難しい?」
セレナは首を傾げた。
その返答はあまりにも不可解だった。
迎えに来る時間がないという話ではない。
まるで最初から迎えに来る意思がないかのような言い方だった。
「どういう意味かしら」
静かな問い掛け。
だが執事はすぐに答えられない。
苦悩するように唇を引き結んでいた。
「その……殿下は現在、エミリア様の元にいらっしゃいます」
その言葉を聞いた瞬間、セレナの表情から温度が消えた。
「それはつまり――婚約者であるわたくしを迎えに来ることなく、エミリアを迎えに行かれたということかしら」
静かな声に、執事の肩がびくりと震える。
「どうやら殿下は、わたくしを随分と軽く見ておられるようですわね」
「誤解でございます!」
執事は慌てて首を横に振った。
「殿下は決してそのようなおつもりではありません!」
必死に弁明を続ける。
「お迎えに上がる直前、殿下のご学友の方がエミリア様の体調不良を知らせに来られたのです」
「……」
「殿下はエミリア様のお身体を案じて様子を見に行かれただけでございます」
セレナは何も答えなかった。
だが心の中では冷めた考えが浮かぶ。
――結局は同じことだ。
理由が何であれ。
殿下は婚約者ではなくエミリアを選んだ。
その事実だけは変わらない。
「エミリア様のご様態は大丈夫なのですか」
その時だった。
セレナが口を開くより早く、フェリクスが問い掛ける。
焦ったような声音だった。
問いを発した直後、ようやく我に返ったらしい。
「……失礼いたしました」
フェリクスは頭を下げた。
しかしセレナは何も言わない。
ただ静かにその姿を見つめていた。
「エミリア様はドレスの着付けの際、ウエストを締め付け過ぎたようで」
執事は説明を続ける。
「一時的に気分を悪くされたとのことですが、今は回復へ向かわれております」
そして言いにくそうに続けた。
「殿下は念のため、エミリア様とご一緒に会場へ向かわれるそうです」
沈黙が落ちた。
婚約者を置いて別の令嬢を伴って舞踏会へ向かう。
それがどれほど重大な意味を持つ行為なのか。
この貴族社会で知らない者はいない。
部屋に重苦しい沈黙が落ちた。
執事は顔を伏せ、フェリクスも口を開こうとしない。
セレナはゆっくりと視線を落とした。
ドレスの裾を握る指先に自然と力が籠る。
胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
けれど、その痛みを表に出すことはしない。
「……承知しました」
静かな声だった。
「殿下が会場へ来られるのであれば問題ありませんわ」
その言葉に執事は申し訳なさそうに頭を下げる。
だがセレナはそれ以上何も言わなかった。
今さら問い詰めたところで、状況が変わるわけではない。
アルフレッドは既にエミリアを選んだのだから。
「フェリクス」
セレナは真っ直ぐ前を向いた。
「わたくしたちも参りましょう」
「……かしこまりました」
フェリクスが一礼する。
そして二人は部屋を後にした。
廊下を歩くセレナの背筋は真っ直ぐ伸びている。
誰が見ても完璧な公爵令嬢だった。
だがその胸中までは、誰にも見えなかった。
セレナたちが会場へ到着すると、開け放たれた大扉の先には眩い光景が広がっていた。
煌びやかなシャンデリアの光が会場を照らし、礼装に身を包んだ紳士淑女たちが談笑しながら思い思いの時間を過ごしている。
創立記念大舞踏会には在学生や教員だけでなく、卒業生や在学生の家族も招かれる。
貴族の子弟が多く在籍するセレスティア魔導学院では、舞踏会は単なる祝いの席ではない。
旧交を温め、新たな縁を結び、社交界との繋がりを深める重要な社交の場でもあった。
そしてセレナは、アルヴェリア王国に五家しか存在しない公爵家――その筆頭であるアウレリア公爵家の令嬢だ。
さらに、第一王子アルフレッドの婚約者でもある。
その立場ゆえに、どのような場でも自然と人々の視線を集めてきた。
ましてや二人の婚約は、貴族社会では知らぬ者のいない周知の事実である。
そんなセレナが婚約者を伴わず、一人で会場へ姿を現せば――。
周囲が騒ぎ立てることなど、容易に想像できた。
「……気が重いわ」
誰にも聞こえないほど小さく呟き、セレナは静かに息を吐く。
胸の奥に渦巻く不安を押し込めるように、ゆっくりと背筋を伸ばえた。
公爵令嬢として、人前で弱さを見せるわけにはいかない。
「参りましょう」
そう告げると、セレナはフェリクスを従え、軽快な音楽が流れる華やかな会場へと一歩足を踏み入れた。




