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セレナの悪評は、たった一夜で学院中へと広まった。
一週間後には、学期最終日に行われる創立記念大舞踏会を控え、学院内は華やかな空気に包まれていた。
舞踏会では、まず婚約者同士で最初の一曲を踊る。
その後は自由となり、縁を結びたい者同士がダンスを申し込むのが慣例だった。
将来の人脈作りの場でもあるため、名門貴族の子弟ほど舞踏会前は多忙になる。
かつてのセレナもそうだった。
去年はアウレリア公爵家との縁を求める令息たちから数え切れないほどの申し込みを受けた。
もっとも、実際に踊ったのは婚約者であるアルフレッドと、卒業を控えた上級生数名だけだったが。
だが今年は違う。
どうやら踊る相手を探す必要すらなさそうだった。
「おい、どうする? セレナ嬢に声を掛けるか?」
「やめておけ。殿下は今やエミリア嬢に夢中だ」
「聞いた話じゃ、公爵家でもエミリア嬢の方が可愛がられているらしいぞ」
「ならセレナ嬢に近付く意味はないな」
「下手に関われば殿下の機嫌を損ねるかもしれない」
ひそひそと交わされる声。
聞こえないふりをしていても耳に入る。
だがセレナは表情一つ変えなかった。
「セレナ」
不意に聞き慣れた声が響く。
顔を上げると、アルフレッドが取り巻きを引き連れて歩いてきていた。
その口元には勝ち誇った笑みが浮かんでいる。
「どうやら今年は誰一人としてお前を誘う者がいないようだな」
愉快そうに言う。
「去年は名だたる家門の令息たちがお前に群がっていたが……」
そこで一度言葉を切った。
「どうやら彼らもようやく現実が見えるようになったらしい」
周囲からクスクスと笑い声が漏れる。
「お前に価値があったのはアウレリア公爵令嬢という肩書きだけだ」
アルフレッドは見下すように続けた。
「そして今、その価値すら失われつつある」
セレナは静かにアルフレッドを見つめた。
何も言わない。
反論する価値すら感じなかったからだ。
「お義姉様。ダンスのお申し込みは何名からお声がけいただきましたの?」
エミリアがアルフレッドの後ろからひょっこりと顔を覗かせる。
その瞳は好奇心に輝いていた。
まるで答えを知りたくて仕方がない子供のように。
もっとも、その答えを予想していないはずがないのだが。
進路を塞がれている以上、無視して通ることもできない。
「今のところ、お声がけはありませんわ」
「まあっ!」
エミリアは口元を押さえた。
「そんな……」
驚いたような仕草だった。
だがその声には、どこか弾んだ響きが混じっているようにも聞こえる。
「わたくしのところには、もう二十名ほどからお誘いをいただいておりますのに」
場のあちこちから感嘆の声が漏れた。
二十名。
それは二年生としては異例の数字だった。
「お義姉様には、お一人もいらっしゃらないなんて……」
エミリアは悲しそうに眉を下げる。
「お義姉様はアウレリア公爵家の次期当主でいらっしゃるのに」
そして思い付いたように手を打った。
「そうですわ!」
ぱっと顔を輝かせる。
「もしよろしければ、わたくしにお声がけくださった方々へ、お義姉様もお誘いするようお願いしましょうか?」
一瞬、その場が静まり返った。
善意の申し出にも聞こえる。
だが、その意味を理解できない者はここにはいない。
エミリアが選ばなかった相手を、姉へ譲る。
それはつまり、エミリアの余り物をセレナへ与えるということだった。
何人かの生徒が気まずそうに視線を逸らした。
アルフレッドたちは気付いていないのか、それとも気付いていて黙っているのか。
「結構よ」
セレナは静かに答えた。
怒りも悲しみも表へ出さない。
ただ淡々と。
「それよりも、道を空けてくださるかしら」
冷え切った声音だった。
その瞬間だけは、周囲の空気さえ張り詰めたように感じられた。
しかしエミリアは気にした様子もなく微笑んだ。
勝者の余裕を見せつけるように、一歩、また一歩とセレナへ近付く。
そして誰にも聞こえない距離まで顔を寄せた。
「お義姉様」
甘ったるい声。
「お気付きですか?」
くすりと笑う。
「お義姉様の幼馴染の方々も、アル様も、お父様も……」
そこでわざと間を置く。
「かつてお義姉様に仕えていたフェリクスまで、みんなわたくしの味方ですの」
セレナは何も答えない。
「お義姉様には、もう誰も残っていないのよ」
挑発。
露骨な挑発だった。
だがセレナの表情は変わらない。
アウレリア公爵家の正統後継者。
学院外では才色兼備と称される公爵令嬢。
その誇りだけは失っていなかった。
だからこそ。
その澄まし顔がエミリアには気に入らなかった。
(どうして……)
どうして悔しそうにしないの。
どうして泣かないの。
どうしてわたくしを羨ましがらないの。
エミリアの胸に燻る苛立ちは日に日に大きくなっていた。
そして――ふと思い出す。
セレナが唯一取り乱した名前を。
「ああ、そういえば」
エミリアは何気ない口調で言った。
「リリアだったかしら?」
その瞬間。
セレナの瞳が揺れた。
ほんの僅かだったが、確かに反応した。
(見つけた)
エミリアの口元が愉悦に歪む。
「公爵家を飛び出したあの方、今は辺境のギルドで冒険者をしているそうですわ」
楽しそうに続ける。
「お父様も大変ですわね。家名に泥を塗った娘がいるなんて」
そして。
わざとらしく首を傾げた。
「いっそのこと、そのギルドごと潰してしまえばよろしいのではなくて?」
「――リリアに手を出したら許さないわ!」
セレナが初めて声を荒げた。
その瞬間だった。
「きゃっ!」
エミリアが悲鳴を上げる。
まるで突き飛ばされたかのように後方へ倒れ込んだ。
「エミリア!」
アルフレッドが駆け寄る。
レオンハルトたちも慌てて彼女を囲んだ。
「大丈夫か!?」
「ええ……わたくしは平気です……」
エミリアは涙を浮かべながら弱々しく首を振った。
「わたくし、お義姉様のことを思って申し上げただけなのです」
ぽろりと涙が零れる。
「お義姉様にお相手がいらっしゃらないのが心配で……」
震える声で続ける。
「まさか、あれほど怒られるなんて思ってもいませんでしたわ……」
周囲から非難の視線がセレナへ集まる。
だがセレナの視線はエミリアから一瞬たりとも外れなかった。
――今のは故意だ。
誰よりもセレナ自身が理解していた。
「セレナ! 君という女は!」
アルフレッドが怒りを露わに声を荒げた。
「心配してくれた妹を突き飛ばすとは、なんと卑劣な!」
「わたくしには自ら倒れ込んだように見えましたが」
セレナは冷静に返す。
「あなた方は至近距離にいて、わたくしが押したように見えたのですか?」
「言い訳をするな!」
怒声が返ってくる。
エミリアに突き飛ばされた痕跡はない。
それでもエミリアの言葉は無条件で信じられた。
一方で、ただ事実を確認しただけのセレナには非難が浴びせられる。
あまりにも理不尽だった。
もはや何を言っても意味がないのだろう。
そんな諦めにも似た感情が胸を満たしていく。
「君がこんな女性だと事前に知っていれば」
アルフレッドは軽蔑を隠そうともせず言った。
「婚約などしなかったのに」
その言葉に、セレナは僅かに目を見開いた。
幼い頃から婚約者として共に育った相手。
互いを理解し合えていると思っていた相手。
その人物から向けられた言葉だった。
胸の奥がちくりと痛む。
だが、その痛みも長くは続かなかった。
代わりに込み上げてきたのは、深い失望だった。
何を言っても届かない。
何を説明しても信じない。
最初から彼らの中では答えが決まっている。
セレナはふっと口元を緩めた。
それは楽しげな笑みではない。
あまりにも馬鹿馬鹿しい現実に浮かんだ、乾いた笑みだった。
「……そうですか」
短い返答だった。
だがその一言に込められた失望は、誰の耳にも伝わった。
「あ……」
アルフレッドの表情が固まる。
怒りに任せて口走った言葉。
だが口にした瞬間、その意味の重さを理解した。
「いや、違うんだ」
慌てて首を横に振る。
「私はそんなつもりで言ったわけでは――」
婚約は王家が望んだものだ。
王家とアウレリア公爵家を結ぶ重要な政略。
軽々しく否定していいものではない。
まして本人の前で口にしていい言葉でもなかった。
「結構です」
セレナは静かに言った。
その声音はどこまでも冷たい。
「殿下のお考えは、十分理解いたしましたので」
アルフレッドが言葉を失う。
「セレナ、私は――」
「失礼いたします」
それだけ言うと、セレナは踵を返した。
振り返らない。
立ち止まりもしない。
ただ真っ直ぐ前だけを見て歩いていく。
「待ってくれ、セレナ!」
アルフレッドは思わず手を伸ばした。
「話を――」
しかし、その時だった。
「アル様……」
エミリアが不安そうな声を漏らす。
アルフレッドの袖をそっと掴んだ。
「突き飛ばされた時に、足を挫いてしまったみたいで……」
今にも泣き出しそうな表情。
アルフレッドは反射的にエミリアへ視線を向けた。
そして遠ざかるセレナの背中と、目の前で痛みに耐えるエミリアを見比べる。
迷ったのは一瞬だった。
「大丈夫か、エミリア」
アルフレッドは彼女を抱き上げた。
いわゆる姫抱きだった。
「アル様……」
エミリアが嬉しそうに彼の胸へ頬を寄せる。
「医務室へ行こう」
アルフレッドはそう言い残し、その場を後にした。
その頃にはもう、セレナの姿は廊下の向こうへ消えていた。




