47
翌朝。
リリアは学院寮の窓辺に立ち、眼下に広がる景色を眺めていた。
昨日ここへ入った時にも一通り目にはしている。
けれど、生徒たちが行き交い始めた学院は昨日とはまるで違って見えた。
朝の鐘が鳴り、制服姿の生徒たちが寮から次々と姿を現す。
友人を見つけて駆け寄る者。
眠たげな顔で歩く者。
教本を片手に何やら議論している者。
どこにでもある、学院の朝。
ここでセレナは過ごしていた。
「……行きましょうか」
リリアは窓辺を離れた。
寮を出た途端、いくつもの視線が集まった。
予想していたことだった。
創立記念大舞踏会の夜から学院へ姿を見せていなかったセレナ・フォン・アウレリアが戻ってきたのだ。
それも、あれだけの騒ぎの後で。
婚約解消。
そして事故。
何もなかったかのように扱われる方がおかしい。
「セレナ様……」
「本当に戻っていらしたのね」
「もうお身体は大丈夫なのかしら」
囁き声が聞こえる。
リリアは気に留めず歩いた。
もっと露骨な好奇の目を向けられるかと思っていたが、意外にも遠巻きに様子を窺う者が多い。
目が合えば慌てて逸らされる。
かと思えば、深々と頭を下げる者もいた。
昨夜のうちに学院内の大まかな位置は確認してある。
迷うことなく校舎へ入り、二年生の教室が並ぶ階へ向かう。
階段を上り。
長い廊下へ出たところで。
リリアの足が、僅かに緩んだ。
――ここね。
見覚えなどない。
それなのに知っている。
セレナの日記に、何度も出てきた場所だから。
この廊下で。
アルフレッドたちは、エミリアを虐めたのだとセレナを責めた。
そして――。
リリアの視線が、廊下の一点へ落ちる。
もちろん、どこだったのかまでは分からない。
けれど。
ここでセレナは、大勢の生徒が見ている前で。
頭を押さえつけられ、跪かされた。
「…………」
足が止まった。
周囲を歩いていた生徒が、何事かとこちらを見る。
リリアはゆっくりと辺りを見回した。
――いたのよね。
あの時も。
ここに。
何人もの生徒が。
見ていた。
誰も止めなかった。
相手が王太子だったから?
関わりたくなかったから?
それとも。
本当にセレナが悪いと思っていたから?
「……くだらない」
小さく吐き捨てる。
過ぎたことを今ここで考えても仕方がない。
リリアは再び歩き出した。
やがて教室が見えてくる。
扉の上に掲げられた札を確認する。
ここが、セレナの教室。
リリアは何の躊躇もなく扉を開いた。
瞬間。
教室内のざわめきが目に見えて小さくなった。
数十人の視線が集まる。
リリアはそれを一瞥した。
「おはようございます」
いつも通り挨拶をして、中へ入る。
誰かが慌てて挨拶を返した。
それを皮切りに、あちらこちらから「おはようございます」と声が上がる。
妙な空気。
腫れ物にでも触れるような。
リリアは気にせず、自分――正確にはセレナの席へ向かった。
場所は確認済みだ。
そして、その途中。
「セレナ」
聞き覚えのある声に呼び止められた。
振り返れば、アルフレッドが立っていた。
その傍にはレオンハルトとフェリクス。そして、少し離れたところにはエミリアの姿もある。
――朝からよくもまあ、揃ったものだ。
リリアは内心だけで溜息を吐いた。
「おはようございます、殿下」
「あ、ああ。おはよう」
アルフレッドの方が一瞬、面食らったような顔をした。
何を驚いているのだろう。
婚約を解消したからといって、挨拶すらしないほど礼儀知らずな態度をセレナならとらない。
それに、つい先日アウレリア邸で顔を合わせたばかりだ。
互いの無事を確認する必要もない。
リリアは挨拶を済ませると、そのまま自分の席へ向かおうとした。
「待ってくれ」
――やはり止められた。
リリアは足を止め、僅かに振り返る。
「何でしょう」
「……もう、身体は何ともないのか?」
予想外の言葉だった。
アルフレッドの口からセレナの身体を気遣う言葉が出てくるとは思っておらず、リリアは僅かに目を見開く。
「一度、宮廷の治癒士にも診てもらった方がよいのではないか。事故の後遺症が残っている可能性も――」
「殿下のご心配には及びません」
リリアは淡々と遮った。
「既にラグナール侯爵様から医療魔法による診察を受けておりますので」
「……そうか」
アルフレッドはそれ以上何も言えなくなった。
ラグナール侯爵は王国一の魔術師として名高く、治癒魔法にも精通している。
宮廷の治癒士に改めて診せる必要があるなどと言えば、ラグナール侯爵の腕を疑うことにもなりかねない。
「他にお話がないようでしたら、これで失礼いたしますわ」
リリアは一礼し、今度こそ席へ向かう。
「セレナ」
再び呼び止められた。
今度の声は、先ほどよりも低い。
リリアは足を止める。
いつの間にか、教室内は妙に静かになっていた。
皆、聞いていないふりをしながら、こちらへ意識を向けている。
無理もない。
つい先日まで婚約者だった二人だ。
創立記念大舞踏会を境に婚約を解消し、その直後にセレナは事故に遭った。
そして今日、事故以来初めて学院へ戻ってきたのだ。
気にならない方がおかしい。
「……どうして、そこまで私を避ける?」
リリアは目を瞬いた。
――避ける?
「避けてなどおりませんわ」
心外だった。
むしろ、あれだけのことをしておいて、避けられないと思っている方がおかしいのではないか。
それなのにアルフレッドは、まるで自分こそが傷つけられているかのような顔をしている。
その表情を見ていると、腹の底からじわじわと怒りが込み上げてきた。
「ならば、何故私を拒む」
「殿下」
リリアの顔から、笑みが消えた。
「私たちは、もう婚約者ではありませんのよ」
教室が、しんと静まり返った。
「…………」
「ですから、殿下と必要以上にお話ししなければならない理由が、私には分かりませんわ」
アルフレッドが言葉を失う。
「ましてや――」
リリアは淡々と続けた。
「先日のように、婚約を解消したばかりの男女が人目を避け、二人きりで話そうとなさるのはお控えくださいませ」
「私はそんなつもりで――」
「殿下にそのおつもりがあるかどうかは関係ございません」
ぴしゃりと言い切った。
「周囲からどう見えるかが問題なのです」
「…………」
「殿下は王太子でいらっしゃるのでしょう?」
紅い瞳が真っ直ぐにアルフレッドを射抜く。
「でしたら、ご自身のお立場をお考えくださいませ」
アルフレッドの顔が強張った。
その言葉には、聞き覚えがあった。
――王太子妃となる者なのだから。
――自分の立場を考えて行動しろ。
かつて何度となく、自分がセレナへ求めてきたことだった。
王太子の婚約者として相応しくあれ。
感情より体面を優先しろ。
周囲からどう見られるのかを考えろ。
セレナは、それを守り続けた。
そして今。
婚約という繋がりを失った彼女から、同じ言葉を突き返されている。
「それとも――」
リリアが僅かに首を傾げた。
「元婚約者である私と、いつまでも親密にしていると周囲に思われても構わないと?」
「そんなことは……」
「でしたら、お分かりいただけますわね」
有無を言わせない。
アルフレッドが何を言いたいのかなど、リリアには関係なかった。
謝罪も。
後悔も。
未練も。
それを受け取るべきセレナは、ここにはいない。
「私たちはもう、以前のような関係ではございません」
それだけ告げ、リリアは一礼した。
「では、失礼いたしますわ」
今度こそアルフレッドへ背を向ける。
その背中を、アルフレッドは呼び止めることができなかった。
レオンハルトが何か言いたげに口を開きかける。
だが、その前に。
「セレナ様!」
別の声がリリアを呼び止めた。
フェリクスだった。
リリアがそちらへ視線を向けると、目が合った瞬間、フェリクスは僅かに怯んだ。
それでも意を決したように口を開く。
「その……学院へ戻られたばかりですし、何か必要なものがございましたら、私にお申し付けください」
「必要なもの?」
「はい。まだ病み上がりのお身体です。学院内でも寮でも、何かと人手が必要になることもあるかと……」
「…………」
リリアは僅かに目を細めた。
今更、何を言っているのだろう。
そんな言葉が喉まで出かかったが、飲み込む。
フェリクスが何を思ってそんなことを言い出したのかは知らない。
だが、少なくとも今の言葉自体に悪意は感じなかった。
「そう」
だから、リリアは素直に礼を述べた。
「お気遣いありがとう」
その言葉に、フェリクスの強張っていた表情が僅かに緩む。
「ですが、必要ありませんわ」
「……え」
安堵したのも束の間。
フェリクスの表情が固まった。
「私のことでしたら、私自身でどうにでもできますので」
「ですが、まだ事故からそれほど日も経っておりません。もし何かあってからでは――」
「フェリクス様」
静かな声が、その言葉を遮った。
「…………」
フェリクスが息を呑む。
かつてセレナが専属従者だった彼を呼ぶ時、そんな他人行儀な呼び方をすることはなかった。
だからこそ、あえてそう呼んだ。
もう、以前とは違うのだと分からせるために。
「貴方はもう、私の従者ではないのよ」
リリアの紅い瞳が、真っ直ぐフェリクスを見据える。
「今の貴方には、仕えるべき方がいらっしゃるでしょう?」
リリアの視線が一瞬だけエミリアへ向けられた。
それだけで、誰を指しているのかは十分だった。
「ですから、私のことを気に掛ける必要はありませんわ」
責めるような声音ではなかった。
怒っているわけでもない。
ただ、事実を告げただけ。
それが余計に、フェリクスには堪えた。
何も言えず、その場に佇むフェリクス。
胸の奥に、妙な痛みが走った。
――フェリクス様。
ただ、それだけの呼び方だった。
何もおかしくはない。
今の自分は、セレナの従者ではないのだから。
むしろ貴族の令嬢が他人に対して使う呼称としては、何一つ間違っていない。
それなのに。
酷く遠く感じた。
かつては当たり前のように傍にいた。
朝になれば彼女を迎えに行き、一日の予定を確認する。
学院では少し離れた場所から付き従い、呼ばれればすぐに応えた。
それが日常だった。
いつからだろう。
その距離が、これほど遠くなってしまったのは。
「フェリクス?」
隣からエミリアの声がして、フェリクスは我に返った。
「……はい」
「お義姉様――」
そこまで口にした瞬間。
歩き出しかけていたリリアの足が、ぴたりと止まった。
「…………」
振り返る。
エミリアの顔が引き攣った。
「……セ、セレナ様」
「何かしら」
「フェリクスはお優しい方ですから、セレナ様のことも心配しているだけですわ。そんな冷たい言い方をなさらなくても……」
エミリアは困ったように眉尻を下げた。
「それに、以前はずっと一緒だったのですもの。急に他人のように扱われては、フェリクスだって傷ついてしまいますわ」
「エミリア様」
フェリクスが咄嗟に止める。
だが、遅かった。
「他人のように、ではありませんわ」
リリアが静かに訂正した。
「今は他人でしょう?」
「…………」
フェリクスの胸が、ずきりと痛んだ。
「専属従者としての契約は既に解消しているわ。今のフェリクス様は貴女の従者。私が以前と同じように接する方がおかしいのではなくて?」
「でも……」
「それとも」
リリアの視線がフェリクスへ移る。
「貴方は今でも、私の従者であるおつもりなの?」
「それは……」
答えられなかった。
違う。
自分は今、エミリアの従者だ。
それは紛れもない事実だ。
ならば「違います」と答えればいい。
それだけのことなのに。
何故か、その一言が喉につかえた。
「フェリクス?」
エミリアが不安そうに彼を見上げる。
「…………」
その視線を受けて、フェリクスは僅かに拳を握った。
「……私は、今はエミリア様にお仕えしております」
「そう」
リリアはあっさりと頷いた。
「でしたら、ご自分の主を大切になさい」
「…………」
「私のことは、お気になさらず」
そう告げると、今度こそリリアは彼らに背を向けた。
引き留める声は上がらなかった。
その背中を見送りながら、フェリクスは無意識に胸元を押さえる。
正しいことを言われただけだ。
セレナに非はない。
自分は彼女の従者ではない。
今の主はエミリアだ。
だから、セレナから距離を置かれて当然なのだ。
分かっている。
頭では、嫌というほど分かっている。
それなのに――。
(……どうして)
これほど胸が痛むのだろう。
「まったく……」
エミリアが小さく息を吐いた。
「せっかくフェリクスや殿下が心配してくださったのに。相変わらずですわね」
以前なら。
きっと自分も、そう思った。
せっかく気遣っているのに、何故あんな態度を取るのだろう、と。
だが、今日は何故か。
その言葉に頷くことができなかった。
フェリクスは黙ったまま、遠ざかっていくセレナの背中を見つめる。
――相変わらず。
本当に、そうなのだろうか。
自分たちは今まで、一体何を見ていたのだろう。




