46
リリアが屋敷へ戻ってからの三日間は、瞬く間に過ぎていった。
その間、屋敷の空気は目に見えて変わった。
初日にはあれほど露骨な敵意を向け、陰で好き勝手に囁いていた使用人たちも、今ではリリアと廊下ですれ違えば道の端へ避け、深々と頭を下げる。
自ら近づこうとする者など、一人もいない。
かといって、陰口を叩く者もいなくなった。
リリアに知られれば何をされるか分からない――そんな恐怖が、僅か三日で屋敷中に浸透したらしい。
そして迎えた、新学期前日の朝。
明日から学院が始まる。
つまり、『セレナ』が再び寮へ戻る日でもあった。
その事実に、屋敷の使用人たちが密かに安堵していたことをリリアは知っている。
もっとも、彼女にとってはどうでもいいことだった。
「セレナ」
出発を前に、ヴィンセントがリリアを呼び止めた。
「学院では大人しくしていろ。これ以上、問題を起こすなよ」
「ええ、分かっておりますわ」
リリアは素直に頷いた。
その返事にヴィンセントが僅かに安堵した――のも束の間。
「ですが――」
リリアはちらりとエミリアへ視線を向けた。
「私よりも、ご自分の私生児の心配をなさった方がよろしいのではなくて?」
「なっ……!」
「お義姉様!」
エミリアが傷ついたように声を上げる。
リリアの眉がぴくりと動いた。
そして、ゆっくりとエミリアへ顔を向ける。
「……エミリア」
「な、何ですの?」
「私は何度言った?」
声は静かだった。
怒鳴ってもいない。
睨みつけてもいない。
それなのに、エミリアの肩がびくりと揺れた。
「その呼び方をするなと、何度言えば理解するのかと聞いているの」
「ですが、わたくしたちは姉妹ですもの。お義姉様とお呼びするのが――」
「姉妹?」
リリアが鼻で笑った。
「誰と誰が?」
「わ、わたくしと、お義姉様ですわ」
「違うわ」
即答だった。
「妹は一人だけよ」
「…………」
エミリアの顔が強張る。
「なら……なんとお呼びすればよろしいのですか」
「そんなことまで私に教えてもらわなければ分からないの?」
エミリアの頬が僅かに引き攣った。
そして、意を決したように口を開く。
「……セレナ」
「は?」
空気が凍った。
ヴィンセントも、愛人も、周囲の使用人たちも動きを止める。
リリアは笑っていた。
だが、目だけがまったく笑っていない。
「今、なんて?」
「だ、だって! お義姉様と呼ぶなと仰ったから、名前で――」
「誰が呼び捨てにしていいと言ったの?」
リリアは一歩、エミリアへ近づいた。
エミリアが反射的に一歩下がる。
「家族でも姉妹でもない。それなら、貴族として最低限の礼儀くらい弁えなさい」
「……では、セレナお姉様と――」
「話を聞いていた?」
「ひっ」
「姉を付けるなと言っているの」
リリアはにこりと微笑んだ。
「――セレナ様」
「……」
「呼んでみなさい」
エミリアは唇を噛んだ。
これまで自分が散々見下してきた相手に『様』を付ける。
その屈辱に耐えられないのだろう。
「エミリア」
リリアの声が一段低くなる。
「返事は?」
「……セレナ、様」
「よくできました」
満足そうに微笑み、リリアはエミリアの横を通り過ぎる。
「学院でも忘れないようになさい」
そして玄関へ向かいながら、思い出したように付け加えた。
「次に間違えたら――」
足を止める。
振り返った顔には、それはそれは美しい笑みが浮かんでいた。
「今度こそ、本当に覚えられるように教えて差し上げますわ」
エミリアの顔から、さっと血の気が引いた。
その意味を尋ねる者は、誰一人としていなかった。
リリアは満足そうに踵を返すと、一人先に玄関を出て、外で待機している馬車へと向かった。
その姿が完全に見えなくなった途端――。
「お父様!」
エミリアが声を上げた。
悔しさを堪えきれなかったのか、その場で一度、だんっと地団駄を踏む。
「どうして何も言ってくださらないのですか! わたくし、あんな呼び方……!」
「落ち着け、エミリア」
「でも……!」
ヴィンセントは忌々しげに玄関の向こうを睨んだ。
「奴は事故に遭って戻ってきてから、まるで人が変わったようだ」
それはある意味、正鵠を射ている。
もっとも、中身まで別人になっているとは夢にも思っていないだろうが。
「それに、今の奴の後ろには盟約家がいる。五大公爵が束になろうと敵わん連中だ。下手に刺激すれば、こちらまで何をされるか分からん」
「だからって、わたくしが我慢しなければならないのですか?」
「今だけだ」
ヴィンセントは言い聞かせるようにエミリアの肩へ手を置いた。
「いずれ私が正式にアウレリア家を継げば、あいつも好き勝手はできなくなる」
「……本当ですの?」
「ああ」
力強く頷いた後、ヴィンセントは吐き捨てるように続ける。
「まったく……母親に似て、気が強くふてぶてしい奴だ」
少し離れた場所でその言葉を聞いていたフェリクスの眉が、僅かに寄った。
ヴィンセントはそれに気付くことなく、今度は彼へ顔を向ける。
「フェリクス」
「はい」
「あいつの学院での行動を逐一、私に報告しろ」
「……承知いたしました」
「それから――」
ヴィンセントはエミリアへ視線を向けた。
「エミリアをしっかり守れ。あいつが何をしてくるか分からんからな」
「…………」
フェリクスはすぐには答えなかった。
「どうした?」
「いえ」
フェリクスは小さく首を振る。
「もちろんです。エミリア様も――」
一度、言葉を切った。
「セレナ様も。お二人とも、私がお守りいたします」
ヴィンセントの眉がぴくりと動いた。
「セレナはいい」
「……はい?」
「あいつにお前の助けなど必要ないだろう」
吐き捨てるような言葉だった。
「…………」
フェリクスは黙ってヴィンセントを見る。
「エミリアを守れ。それがお前の役目だ」
「……承知いたしました」
フェリクスは頭を下げた。
だが、その胸には小さなしこりが残った。
――セレナはいい。
どうして、そう言い切れるのだろう。
確かに今のセレナは強い。
以前とは比べものにならないほど苛烈で、誰かに守られるような人間には見えなくなった。
だが、強ければ心配しなくていいのか。
自分で身を守れるのなら、傷ついても構わないのか。
そもそも――。
(セレナ様だって、旦那様の娘ではないのか……?)
そんな当たり前の疑問が浮かんだ。
以前なら、考えもしなかったことだった。
フェリクスは顔を上げる。
その視線の先には、既にリリアの姿はない。
ただ、玄関の向こうに停められた馬車だけが見えていた。
胸の奥に生まれた違和感が何なのか。
この時のフェリクスには、まだ分からなかった。
ただ――。
(もう、あの時のような思いはしたくない)
それだけは、はっきりしていた。
創立記念大舞踏会の夜。
フェリクスは、セレナが屋敷へ帰っていないことにすら気付いていなかった。
あの夜、彼が付き添っていたのはエミリアだった。
セレナが一人で学院を後にしたことも。
帰路の途中で事故に遭ったことも。
そして――夜が更けても屋敷へ戻っていなかったことさえ。
何一つ、知らなかった。
数日経って初めて、セレナが事故に遭い、意識不明の重体であると知らされた。
あの瞬間の感覚を、フェリクスは今でも鮮明に覚えている。
すっと全身から血の気が引いた。
心臓を鷲掴みにされたように胸が締め付けられ、息の仕方すら分からなくなった。
――セレナ様が、死ぬかもしれない。
そう理解した瞬間、頭の中が真っ白になった。
怖かった。
ただ、ひたすらに怖かった。
これまで何度も危険な目には遭ってきた。
自分の命が危うかったことだって、一度や二度ではない。
それなのに、あの時ほど恐怖を感じたことはなかった。
セレナがこの世からいなくなるかもしれない。
もう二度と声を聞くことができないかもしれない。
もう二度と、自分の名前を呼んでもらえないかもしれない。
その可能性を考えるだけで、胸の奥が凍りついた。
だから――。
『セレナ様がお目覚めになりました』
その知らせを聞いた時。
全身から力が抜けた。
生きている。
目を覚ました。
その事実だけで、張り詰めていたものが一気に解けた。
安堵した。
心の底から。
だが同時に、フェリクスはそんな自分自身に戸惑っていた。
(……どうして)
あの頃の自分は、セレナに対して不信感を抱いていた。
エミリアを冷遇し、何を言われても頑なに彼女を認めようとしないセレナ。
初めこそ何か事情があるのだと思っていた。
だが、エミリアから傷つけられたと聞かされることが増え、周囲からもセレナの仕業だという話を耳にするうちに、少しずつ疑念が積み重なっていった。
何故、そこまでエミリアを嫌うのか。
何故、もう少し優しくしてやれないのか。
いつしか疑念は不信へと変わり、その感情を隠しきれなくなっていた。
そして――セレナから専属従者を解任された。
あの時の自分は、仕方のないことだと思っていたはずだ。
主を信じきれなくなった従者など、傍に置いておく意味はない。
そう納得していた。
その後、エミリアの従者となったことにも異を唱えなかった。
それなのに。
セレナが事故に遭ったと聞いた瞬間、そんな感情はすべて吹き飛んだ。
彼女に対して抱いていた不信も。
苛立ちも。
わだかまりも。
そんなものはどうでもよかった。
ただ――生きていてほしかった。
セレナがこの世からいなくなるかもしれない。
その可能性だけが、どうしようもなく恐ろしかった。
(……どうして、俺は)
あれほど彼女の振る舞いを疑っていたはずなのに。
もう自分は彼女の従者ですらないというのに。
何故、セレナを喪うことだけは、こんなにも怖いのだろう。
答えは出なかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
セレナを守る必要などないと、ヴィンセントは言った。
今の彼女は強い。
自分などいなくとも、誰かに傷つけられるような人ではないのかもしれない。
それでも。
(もう二度と、セレナ様を喪うかもしれないなんて思いたくない)
その感情だけは、どうしても否定できなかった。




