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リリアたちはその足で、屋敷内を見て回ることにした。
使用人たちが行き交う場所で、リリアたちの話し声だけが一切聞こえないというのも不自然だ。そのため、先ほどまで張られていた盗聴防止の結界は既に解除している。
また、ラグナール侯爵は本来、ルシアンやアルフレッドたちの付き添いとして訪れただけだ。
多忙な彼をいつまでも引き留めておくわけにもいかず、一足先に本来の仕事へと戻っていった。
現在、ルシアンとノアはラグナール侯爵家に滞在している。
帰りには侯爵の息子であるアルヴィンが、二人を迎えにアウレリア邸まで来る予定となっていた。
「……なあ」
しばらく屋敷を歩いたところで、ルシアンが怪訝そうに口を開いた。
「さっきから、俺たちを見た使用人が怯えたように逃げていくんだが……お前、何かしたのか?」
ルシアンが隣を歩くリリアへ疑いの眼差しを向ける。
先ほどから、すれ違う使用人たちの様子がおかしい。
老若男女を問わず、リリアの姿を認めた途端に顔を強張らせ、そそくさと道を譲る。
中には目が合っただけで踵を返し、逃げるように立ち去る者までいた。
少し離れたところからこちらを窺い、ひそひそと何かを囁き合っている者たちもいる。
「何かしただなんて、人聞きが悪いですわ」
リリアは心外だとでも言いたげに眉を寄せた。
「……そうか」
ルシアンは小さく息を吐く。
いくらリリアでも、屋敷へ戻ってまだ二日だ。
たったそれだけの間に、屋敷中の使用人からここまで恐れられるような真似をしたとは考えにくい。
ならば――セレナは以前から、使用人たちにこのような態度を取られていたのだろうか。
そう考えた瞬間、ルシアンの表情から僅かに笑みが消えた。
「ちょっと侍女長の頬を引っぱたいて、顔を鷲掴みにして片手で持ち上げただけよ」
「…………」
ルシアンの足が止まった。
数歩先へ進んだリリアも、不思議そうに振り返る。
「どうしたの?」
「お前の仕業じゃないか!」
「だから、人聞きが悪いと言っているでしょう」
「どこがだよ!」
思わず声を荒らげたルシアンに、リリアは鬱陶しそうに片耳を塞いだ。
「大声を出さないで。使用人に聞こえるでしょう」
「もう手遅れだよ! というか、何でそんなことしたんだ!」
「向こうが先に手を上げようとしたから、二発ほど叩き返しただけよ」
「二発……」
「それから今日、母様を侮辱したから少し持ち上げた」
「顔を掴んで?」
「ええ」
「片手で?」
「そうだけど」
「…………」
ルシアンは絶句した。
リリアは何がおかしいのか分からないとでも言いたげに首を傾げている。
その隣で、ノアが小さく笑った。
「まあ、リリアにしては随分と優しく済ませた方じゃないかな」
「どこが!?」
ルシアンが今度はノアへ食ってかかる。
「ノア、お前まで感覚がおかしくなってないか!?」
「そうかな」
「そうだよ!」
ノアは困ったように笑うが、リリアは不服そうに腕を組んだ。
「私だって手加減くらいできるわよ」
「頬を二回引っぱたいて、顔を掴んで持ち上げるのを手加減とは言わない」
「アビスなら、あの程度の無礼を働けば半殺しよ」
「比較対象がアビスなのがおかしいんだよ!」
即座に返され、リリアは眉を寄せた。
だが、彼女自身は冗談を言っているつもりなど毛頭ない。
実際、アビスで同じ真似をする者がいれば、頬を二度叩く程度では済まなかった。
武器を向けられれば叩き折り、襲い掛かってくれば返り討ちにする。
悪意には、それを上回る力で叩き潰す。
そんな場所で六年間を生きてきたリリアにとって、昨日からの対応は自分でも驚くほど穏便なものだった。
「殺してないんだから優しいでしょう?」
「基準をそこに置くな」
「骨も折ってないわ」
「下げろと言ってるんじゃない!」
ルシアンが頭を抱える。
ノアはとうとう堪えきれなくなったのか、くつくつと肩を揺らして笑い始めた。
「何がおかしいのよ」
「いや。リリアが王都に戻ってから随分と淑女らしくしているものだから」
「でしょう?」
「褒めてないと思うぞ」
すかさずルシアンが突っ込む。
そんな三人の姿を、廊下の角からこっそり窺っていた数人のメイドたちは――。
「殺してないんだから優しいでしょう?」
という一言だけを聞いて、音もなく顔を青ざめさせた。
「……今、聞いた?」
「聞いた……」
「骨も折ってないって……」
「目を合わせちゃ駄目よ……!」
そそくさと逃げていく。
その気配に気付いたルシアンは、遠ざかっていくメイドたちの背中を見送り――ゆっくりとリリアへ顔を戻した。
「……お前、明日には屋敷中から化け物扱いされてるぞ」
「あら」
リリアは涼しい顔で髪を払った。
「逆らってはいけないと理解してくれるなら、好都合だわ」
その横顔には、反省の色など欠片もなかった。
三人が渡り廊下を歩いていると、不意にリリアが足を止めた。
「……まだ、残っていたのね」
先ほどまでの不敵な表情が消え、紅い瞳が僅かに見開かれる。
その視線の先にあったのは、庭の大木だった。
太い枝から垂れ下がる二本のロープ。
その先には、長い年月を経てすっかり色褪せた木の板が括り付けられている。
「お母様が、私たちのために作ってくださったブランコよ」
リリアは誘われるように庭へ下りると、ブランコへ近づいた。
そして、宝物にでも触れるように、そっとロープを握る。
幼い頃は随分と大きく見えたものだ。
今では座面も低く、ロープも短く感じる。
「こんなにも小さかったかしら」
懐かしそうに目を細めたリリアは、ふとルシアンを振り返った。
「ねえ、そう思わない? ルシアン様」
「…………」
返事がない。
どうしたのかと顔を見ると、ルシアンはブランコを前にして、何とも言えない強張った表情を浮かべていた。
「あら」
リリアはそこで何かを思い出す。
「そういえば、ルシアン様はブランコが苦手で、いつも泣いていらしたわね」
「ああ。そうだね」
否定することなく、ルシアンは静かに頷いた。
「セレナがいなかったら、俺はリリアに殺されていただろうね」
「大袈裟ね」
「大袈裟じゃない」
ルシアンの目が遠くなる。
――幼い頃。
まだ三人でこの庭を駆け回っていた時のことだ。
『もっと高くしてあげる!』
『もういい! リリア、やめて! 怖い!』
『あはははは! もっと高くできるわ!』
『やめてって言ってるだろぉぉぉ!』
加減というものを知らなかった幼いリリアに背中を押され、ブランコは見る見るうちに高くなっていった。
身体が空へ放り出されるような感覚。
必死にロープへしがみつき、泣きながらやめてくれと訴えるルシアン。
しかし、それを見たリリアは何を勘違いしたのか、楽しそうに高笑いしながら更に力いっぱい背中を押した。
最終的には、悲鳴を聞きつけて駆けつけたセレナがリリアを止め、ようやく地上へ帰還することができたのだ。
「懐かしいわね」
「俺にとっては恐怖体験だよ」
リリアは聞かなかったことにして、再び歩き出した。
しばらく庭を進み、今度は池のほとりで足を止める。
「ああ、そういえば」
リリアの顔がまた懐かしそうに綻んだ。
「この池には昔、武術に長けたアウレリア家の当主が捕らえたという『池の主』がいたわね」
「…………」
ルシアンの顔が再び強張った。
「ルシアン様は池で遊んだ時も、いつも泣いていましたわね」
「ああ。そうだね」
先ほどとまったく同じ返事だった。
ただし今度は、若干声が死んでいる。
「君が『池の主と戦いたい』と言い出して――」
ルシアンは池の上へ張り出した太い枝を指差した。
「俺をロープでぐるぐる巻きにした」
「そうだったかしら」
「そのまま、あの枝から俺を吊るした」
「…………」
「『ルシアンを餌にすれば出てくるわ!』って」
「…………」
「俺を餌にして池の主を釣ろうとしたんだよ、お前は!」
ついに声を荒らげた。
リリアは少し考える。
「でも、池には落としてないでしょう?」
「そういう問題じゃない!」
「結局、池の主も出てこなかったし」
「残念そうに言うな!」
ちなみに、この時もルシアンの泣き叫ぶ声を聞きつけたセレナが駆けつけ、事なきを得た。
もし発見があと少し遅ければ、自分は本当に魚の餌になっていたのではないか。
今でもルシアンはそう思っている。
「セレナには感謝してもしきれないよ……」
「大袈裟ねえ」
「お前が言うな」
そんなやり取りをしながら屋敷へ戻り、今度は厨房の前を通りかかった。
漂ってきた焼きたてのパンの香りに、リリアが懐かしそうに目を細める。
「そういえば、ルシアン様はよく厨房からパンをくすねて、料理長に怒られて泣いていましたっけ」
「……そうだね」
もはやルシアンは何も期待していなかった。
「腹が減ったからパンを持ってこいと言った君が、俺に取りに行かせたんだけどね」
「そうだった?」
「そうだったよ」
「でも、盗ったのはルシアン様でしょう?」
「命令したのはお前だ!」
「断ればよかったじゃない」
「当時のお前が断らせてくれたとでも!?」
ルシアンは額を押さえた。
「しかも一度料理長に見つかった時、君は真っ先に逃げた」
「逃げ足には自信があったから」
「俺だけ捕まって死ぬほど怒られた!」
そして、その時も――。
『料理長さん、ごめんなさい。リリアとルシアンがお腹を空かせていたみたいなの。わたくしからも二人に言って聞かせますから、許してあげてください』
結局、セレナが頭を下げて庇ってくれた。
「……やっぱりセレナは天使だった」
ルシアンがしみじみと呟く。
「あら。私は?」
「悪魔」
「…………」
即答だった。
リリアの目が据わる。
「もう一度言ってみなさい」
「そういうところだよ」
少し後ろを歩いていたノアは、とうとう堪えきれず苦笑を漏らした。
以前からルシアンが事あるごとにリリアを『悪魔』と呼んでいることは知っていた。
てっきり、現在の彼女の苛烈な性格を揶揄しているだけなのだと思っていたのだが――。
(なるほど。筋金入りだったんだね)
どうやら『屍山の女王』になる遥か昔から、リリア・フォン・アウレリアという少女はリリア・フォン・アウレリアだったらしい。
そして、そんな二人の間に立ち、止め、助け、時には一緒に叱られてくれていたのがセレナだった。
リリアが暴走し、ルシアンが泣き、セレナが止める。
きっとこの屋敷では、それが三人の日常だったのだろう。
ノアは前を歩く二人を眺めながら、今はここにいないもう一人の少女へと思いを馳せた。




