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荷物の運び入れと家具の入れ替えは、午前中のうちに終わった。
エミリアは一時的に客間へ移されていたこともあり、作業そのものは滞りなく進んだ。
途中、騒ぎを聞きつけてやって来たエミリアとその母が、運び出されていく家具や私物を目にして激しく喚き立てていたが、そんなことでリリアが手を止めるはずもない。
ヴィンセントもまた、昨日ローゼンクロイツ侯爵にセレナの置かれていた環境を知られた手前、強硬に止めることができなかった。
結局、エミリアを宥めるように、しばらくは客間を自室として使うよう言い聞かせるしかなかった。
そうして六年ぶりに――部屋は、本来の主のもとへと戻った。
「…………」
リリアは一人、室内を見渡した。
窓からは柔らかな陽光が差し込み、真新しいカーテンが風に揺れている。
寝具はすべて新調された。
ベッドをはじめ、机や椅子、化粧台に至るまで、ローゼンクロイツ商会が取り扱う最高級の品で揃えられている。
クローゼットを開けば、セレナの体型に合わせて仕立てられたドレスや普段着がずらりと並んでいた。
昨日までの、母の古着を自ら仕立て直して着ていた生活とはあまりにも違う。
けれど――。
どれほど高価な品を並べても、失われた六年間が戻ってくるわけではない。
リリアは静かに部屋の中央へ歩み出した。
ここは、かつて姉妹二人で過ごした部屋だった。
同じベッドに潜り込んで話をした夜も。
くだらないことで喧嘩をした日も。
二人で母に叱られたことも。
六年経とうと、覚えている。
リリアはそっとベッドの縁へ手を触れた。
「セレナ……」
小さく、その名を呼ぶ。
「私たちの部屋は、取り戻したわ」
返事はない。
それでも、リリアは僅かに目を細めた。
「まず、一つ」
部屋だけではない。
セレナから奪われたもの。
居場所も、名誉も、誇りも。
そして――本来なら彼女が手にしていたはずの未来さえも。
一つ残らず取り返す。
「まだまだ、これからね」
その声に先ほどまでの感傷はなかった。
リリアは窓辺へ歩み寄ると、明るい陽射しの中で眼下の庭を見下ろした。
やがて、正午を告げる鐘の音が遠くから響いてくる。
部屋の入れ替えが終わる頃には、既に昼を迎えていた。
リリアは昼食を取るため、食堂へと向かった。
扉を開けると、長い食卓には既にヴィンセントとその愛人、そしてエミリアの三人が揃っていた。
談笑しながら食事をしていた三人だったが、リリアの姿を認めた瞬間、ぴたりと動きを止める。
「何しに来たの! よくも平然と顔を出せたものね!」
真っ先に声を上げたのは愛人だった。
リリアは眉一つ動かさない。
「食事ですけれど?」
「なっ……」
「自分の家で昼食を取るのに、どうして私が居候の方のご機嫌を窺わなければなりませんの?」
あまりにも当然のように言い放ち、そのまま食卓へ歩み寄る。
「ここは私の家ですもの。私がいつ、どこで食事をしようと自由でしょう?」
「あなた……!」
「セレナ」
ヴィンセントの低い声が割って入った。
リリアが視線を向ければ、ヴィンセントは食事の手を止め、訝しむようにこちらを見ている。
「どういう風の吹き回しだ」
「何がでしょう?」
「これまで、この食堂で食事をすることを拒んでいたのはお前だろう」
リリアの眉が僅かに動いた。
「母さんや妹と同じ食卓につくなど耐えられないと、自分から部屋で食べると言い出したではないか」
――母さん。
その呼び方にも言いたいことは山ほどあったが、今はそれよりも気になることがある。
リリアはゆっくりとエミリアへ視線を移した。
「…………」
その瞬間。
エミリアの顔が強張った。
ほんの僅かな変化だった。
だが、リリアは見逃さない。
先ほどまで不満げに頬を膨らませていたというのに、今は明らかに何かを警戒している。
――なるほど。
リリアはすぐに察した。
セレナの日記には、食堂で食事を取らなくなった経緯についても記されていた。
少なくとも、ヴィンセントの語った話とはまるで違う。
「おかしいですわね」
リリアはわざとゆっくりと言った。
「私が覚えている話とは、随分と違いますわ」
エミリアの肩が僅かに揺れる。
「確か、私はエミリアから――」
「お義姉様!」
椅子が大きな音を立てた。
エミリアが勢いよく立ち上がっていた。
あまりに唐突な行動に、ヴィンセントと愛人まで驚いて彼女を見る。
「お義姉様が以前、ご自分で仰ったではありませんか!」
エミリアは必死に声を張り上げた。
「下賤なわたくしたちと同じ場で食事をするなど耐えられないと! だから一緒に食事をしたくないと仰ったのは、お義姉様ご自身ですわ!」
「…………」
リリアは何も言わなかった。
ただ、エミリアを見つめる。
「そ、そうですわよね、お父様!」
沈黙に耐えきれなくなったのか、エミリアはヴィンセントへ同意を求めた。
「あ、ああ……。確かにそう聞いている」
「ほら!」
エミリアは安堵したように声を上げる。
だが。
「――誰から?」
「え?」
リリアの一言に、エミリアの表情が固まった。
「お父様は今、『そう聞いている』と仰いましたわね」
リリアはヴィンセントへ顔を向ける。
「では、お父様は私が実際にそう口にするところを聞いたのですか?」
「それは……」
ヴィンセントの言葉が詰まる。
リリアの口元が僅かに持ち上がった。
「それとも――」
今度はエミリアを見る。
「誰かから、そう聞かされただけ?」
「…………っ」
分かりやすい。
あまりにも分かりやすかった。
「不思議ですわね、エミリア」
リリアは静かに椅子を引いた。
そして、何事もなかったかのように腰掛ける。
「私はまだ、『貴方から何を言われたのか』一言も口にしていませんのよ?」
エミリアの顔から血の気が引いていく。
「それなのに――」
リリアは頬杖をつき、愉快そうに彼女を見上げた。
「どうしてそんなに慌てて、私の言葉を遮ったのかしら?」
セレナの日記に記されていた内容とあまりに違う。
初めのうちは確かに、反省のためという名目で部屋に食事を運ばれていたらしい。
だが、それから数日後。
エミリアがわざわざセレナの部屋を訪れ、こう告げたという。
――お父様が、今後もお義姉様はお部屋で食事を取るようにと仰っておりますわ。
セレナはそれをヴィンセントの意思だと信じ、それ以降、一人で食事を取るようになった。
しかし。
先ほどのヴィンセントの話が事実ならば、辻褄が合わない。
ヴィンセントは、セレナ自身が愛人親子との食事を拒絶したと思っている。
一方のセレナは、ヴィンセントから食堂へ来ることを禁じられたと思っていた。
ならば――。
両者の間で話を取り次いでいた人間が、何かをしている。
そして、その人物が誰なのかなど考えるまでもない。
リリアの視線がエミリアへ向く。
「…………」
エミリアは明らかに動揺していた。
「もういい!」
ヴィンセントの怒声が、リリアの思考を遮った。
「いじけて、これまで反抗的な態度を取っていたのは事実だろう! これ以上くだらん話をしていては飯が不味くなる!」
強引に話を打ち切る。
何かに気付いたからなのか。
それとも、本当に何も考えていないのか。
リリアには分からなかった。
ただ一つ分かるのは――この男には、セレナの言葉を聞く気など最初からないということだけだった。
これ以上失望する余地などないと思っていた。
だが、どうやら自分は父という男をまだ高く見積もっていたらしい。
「今日の昼食は部屋へ運ばせる」
ヴィンセントは命令するように言った。
「これ以上、食卓を乱すな。――今夜からは、また我々と食事を取ることを許そう」
リリアが静かに立ち上がった。
ヴィンセントは当然、従うものと思っていたのだろう。
「いいえ」
「……何?」
予想外の拒絶に、ヴィンセントが目を見開いた。
「結構ですわ」
リリアは椅子から離れると、エミリアへ視線を向けた。
「どうやらエミリアは、私と同じ食卓につくことを随分と嫌がっているようですもの」
「ち、違います! わたくしは――」
「無理をする必要はないわ」
エミリアの言葉を、リリアはにこやかに遮った。
「貴方の望み通りにして差し上げます」
そして、壁際に控えていた給仕へ顔を向ける。
「今日から、あちらのお二人の食事はそれぞれの部屋へ運んで頂戴」
「なっ――!」
真っ先に立ち上がったのは愛人だった。
「何を勝手なことを言っているの!」
「勝手?」
リリアが首を傾げる。
「おかしなことを仰るのね」
笑みを浮かべたまま、愛人を見る。
「この食堂はアウレリア家の者が家族と食卓を囲むための場所ですわ」
そして。
「貴方は、いつからアウレリアになったのかしら?」
「……っ!」
愛人の顔が引き攣った。
「セレナ!」
ヴィンセントが椅子を蹴るように立ち上がる。
「いい加減にしろ! この二人は私の家族だ!」
「お父様の、でしょう?」
即座に返す。
「私の家族ではありませんわ」
静まり返った食堂に、その声だけが響いた。
「少なくとも、アウレリア家当主である叔父様も、正統後継者である私も、この方をお父様の正式な妻として迎えた覚えはございません」
愛人の顔がみるみる赤くなっていく。
「ですから、お二人には今後、自室でお食事を取っていただきます」
リリアは淡々と告げた。
「ふざけるな!」
ヴィンセントの怒声が飛ぶ。
「私が許さん!」
「あら」
リリアはそこで、何かを思いついたように微笑んだ。
「では――どうしてもこちらで一緒に食事を取りたいと?」
「当たり前だ!」
「そうですか」
リリアは一度だけ頷いた。
「でしたら、構いませんわ」
その言葉に、ヴィンセントたちの表情が僅かに緩む。
だが。
「そちらでどうぞ」
リリアが指差した先を見て、三人の表情が凍りついた。
――床だった。
「…………何?」
愛人の声が震える。
「聞こえませんでした?」
リリアはにこりと微笑む。
「どうしてもこの食堂で私と一緒に食事を取りたいのでしたら――そこで召し上がることを許可しますわ」
誰も言葉を発しなかった。
床で食事を取れ。
それが何を意味するのか、理解できない者はいない。
「き……貴様……!」
ヴィンセントの顔が怒りで赤黒く染まっていく。
壁際に控えていたフェリクスも、信じられないものを見るような顔でリリアを睨みつけていた。
だが、リリアは意にも介さない。
むしろヴィンセントへ向き直り、優雅に微笑んだ。
「お父様」
「……何だ」
「先ほど仰いましたわよね」
リリアは先ほどの彼の言葉をそのまま返す。
「私が皆様と食事を取ることを――『許そう』と」
ヴィンセントの顔が強張った。
「ですから私も、許可して差し上げただけですわ」
「…………」
「何か問題でも?」
完璧な微笑だった。




