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使用人たちは互いに顔を見合わせた。
これまでのセレナなら、少し強く責め立てれば俯き、最後には自分が悪くなくとも謝罪していた。
それがどうしたことか。
事故から目覚めて以降の彼女は、まるで別人のようだった。
「ローゼンクロイツ侯爵様が後ろ盾にいらっしゃるからといって、あまり調子に乗らないことです」
グレタは怯むことなく言い放った。
周囲の使用人たちも、それに勇気づけられたのか、リリアへ向ける視線を次第に険しくしていく。
「正統後継者だからといって好き勝手になさり、旦那様にまであのような不遜な態度を取られるなど……。少しはエミリアお嬢様を見習われてはいかがですか」
リリアは何も言わない。
それを言い返せないのだと受け取ったのか、グレタはさらに続けた。
「まったく――」
吐き捨てるような声だった。
「やはり、女親だけに育てられた人間は、ろくな人間には育ちませんね」
その瞬間だった。
リリアの表情から、すべてが消えた。
「…………」
怒鳴らない。
睨みつけることもしない。
ただ、先ほどまで僅かに浮かんでいた笑みだけが、すっと消えた。
リリアは無言のままグレタから視線を外すと、玄関ホールの脇に設けられた太い装飾柱へと歩いていく。
「……?」
何をするつもりなのか。
グレタをはじめ、使用人たちは怪訝そうにその背中を目で追った。
リリアは柱の前で足を止める。
そして――拳を握った。
大きく振りかぶることすらしなかった。
ただ、虫でも払うかのように。
軽く腕を横へ振るった。
――ドンッ!
腹の底まで響くような鈍い音が、玄関ホールを揺らした。
次の瞬間。
リリアの拳が触れた箇所を中心に、蜘蛛の巣のような亀裂が一気に走る。
パラパラと破片が床へ落ち――やがて装飾柱の一部が耐えきれず、音を立てて崩れ落ちた。
「…………」
静まり返る。
誰一人として、声を発することができなかった。
リリアは力んですらいなかった。
少なくとも、彼らにはそう見えた。
それなのに、人の胴よりも太い柱の一部が、たった一撃で砕けたのだ。
使用人たちの顔から一斉に血の気が引いていく。
グレタもまた、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
リリアは拳についた白い粉を、反対の手で静かに払い落とす。
それから、ゆっくりと振り返った。
「どうやら――」
低い声が、静まり返ったホールによく響いた。
「貴方たちは、私を怒らせる天才のようね」
そこに笑みはなかった。
紅い瞳に宿っているのは、剥き出しの怒り。
だが、声を荒らげることも、感情に任せて暴れることもない。
だからこそ、恐ろしかった。
アビスで幾百もの無法者を従えてきた『屍山の女王』の眼差しが、使用人たちをゆっくりと睥睨する。
「昨日だけでは――」
リリアの視線がグレタを捉えた。
「自分たちの立場を思い知るには、足りなかったかしら?」
グレタの肩が、びくりと揺れた。
リリアは一歩、彼女へ近づく。
「私を侮辱するのは好きになさい」
もう一歩。
「無礼だろうが、粗暴だろうが、好きなだけ言えばいいわ」
そして、グレタの目の前で足を止めた。
「でも――」
紅い瞳が鋭く細められる。
「お母様を侮辱することだけは、許さない」
その一言だけは、これまでよりも遥かに静かだった。
グレタはようやく、自分が決して踏んではならないものを踏み抜いたのだと悟った。
だが――気付くには遅すぎた。
リリアの片手が伸びる。
「ひっ――」
次の瞬間、リリアの指がグレタの両頬を挟み込むように鷲掴みにした。
「むぐっ……!」
そのまま、ゆっくりと腕を持ち上げていく。
グレタの顎が上がる。
背筋が伸びる。
踵が浮き――とうとう両足が床から離れた。
「……っ!?」
使用人たちが息を呑む。
成人女性一人を、片手で。
それも腕力を振り絞る様子すらなく、リリアはグレタの顔を掴んだまま軽々と持ち上げていた。
「い、いひゃ……っ、はなひなはい!」
頬を押し潰され、まともに言葉を発することすらできない。
グレタは必死にリリアの手首へ両手を掛け、引き剥がそうとする。
だが、びくともしなかった。
足をばたつかせても、リリアの腕は微動だにしない。
先ほど柱を砕いた手だ。
その事実に気付いた瞬間、グレタの顔から怒りが消え、代わりに恐怖が浮かんだ。
その様子を、リリアは冷え切った目で見上げる。
「なるほど」
ぽつりと呟いた。
「侍女長である貴方がそのような態度だから、下の者まで勘違いするのね」
「……っ」
「主人に挨拶もしない。命令には従わない。あまつさえ、主人の母親まで平然と侮辱する」
リリアは周囲へ視線を巡らせた。
目が合った使用人たちが、一人、また一人と顔を伏せていく。
「考えてみれば当然だわ」
彼らを束ね、教育する立場にある侍女長がこれなのだから。
「長が主を軽んじれば、その下の者も主を軽んじる」
リリアの指に僅かに力が籠もる。
「んんっ……!」
「なら――貴方一人を躾けたところで意味がないわね」
グレタの瞳が揺れた。
リリアはそこで初めて手を離した。
「きゃっ!」
グレタの身体が床へ落ちる。
尻餅をついた彼女には目もくれず、リリアはその場にいる使用人たちを見渡した。
「侍女長一人の問題ではないようですし――ちょうどいいわ」
ドレスの裾を整えながら、何でもないことのように告げる。
「侍女、従僕、厨房、厩舎、庭園、警備――屋敷内の各部門を預かる責任者を全員ここへ呼びなさい」
誰も動かなかった。
リリアの眉が僅かに上がる。
「聞こえなかった?」
「……っ!」
使用人たちの肩が跳ねた。
「責任者を全員集めろと言ったのよ」
今度は数人が弾かれたように動き出した。
その背中を見送り、リリアは床に座り込んだままのグレタへ視線を落とす。
「この屋敷で誰が主人で、誰が仕える側なのか――」
紅い瞳が細められた。
「一度、全員に思い出してもらいましょうか」
「思い出すのは、お前の方だ」
リリアの言葉を打ち消すように、低い声がホールに響いた。
使用人たちが一斉にそちらを振り返る。
姿を現したのはヴィンセントだった。
「お父様」
リリアは何事もなかったかのように表情を和らげ、ドレスの裾を摘まむ。
「おはようございます。只今帰宅いたしましたわ」
完璧な所作で一礼する。
対するヴィンセントの顔には、娘の帰宅を喜ぶ色など微塵もなかった。
忌々しげにリリアを睨みつけている。
無理もない。
昨日はローゼンクロイツ侯爵の前で、六年間セレナを物置同然の部屋へ押し込めていた事実を暴かれたのだ。
あれほど体面を重んじる男だ。
一晩経った程度で怒りが収まっているはずもない。
――まあ、想定通りだ。
「セレナ。いい気になるなよ」
ヴィンセントは階段を降りながら吐き捨てた。
「ローゼンクロイツ侯の後ろ盾を得た程度で、自分が何でも許されると勘違いするな。現在、アウレリア公爵家の当主代理を務めているのはこの私だ」
その時だった。
玄関の扉が開く。
ヴィンセントの表情が僅かに強張った。
昨日の今日だ。
またローゼンクロイツ侯爵が現れたのかと思ったのだろう。
だが、入ってきたのは見知らぬ男だった。
男はヴィンセントたちには目もくれず、真っ直ぐリリアの前まで進むと恭しく頭を下げた。
「お嬢様。お申し付けいただいた品々を運び入れる準備が整いました」
「そう」
リリアは満足げに頷く。
「では、そのまま私の部屋へ運び入れて頂戴」
「承知いたしました」
「ああ、それから」
リリアは思い出したように付け加える。
「部屋に残っている物は、すべて運び出して。私の物ではないから必要ないわ」
「かしこまりました」
男は深々と一礼すると、すぐさま踵を返した。
「待て!」
ヴィンセントの声が飛ぶ。
しかし男は足を止めない。
彼が命令を受けている相手はヴィンセントではないのだ。
「セレナ!」
ついにヴィンセントの怒声が玄関ホールに響き渡った。
「いい加減にしろ! 昨日、あれほど言ったはずだ! あの部屋はエミリアの部屋だ!」
「お父様こそ――」
リリアがゆっくりと振り返る。
「何か勘違いをなさっているのではなくて?」
その声は、ヴィンセントとは対照的なほど静かだった。
「何だと?」
「確かに現在、当主である叔父様に代わって家政を預かっているのはお父様ですわ」
そこまでは認める。
「ですが――」
紅い瞳が細められた。
「それは、アウレリア公爵家そのものがお父様の物になったという意味ではありません」
ヴィンセントの眉が動く。
「叔父様がお戻りになるまで、家を預かることを許されているだけ」
「貴様……」
「それなのに随分と好き勝手になさいましたわね」
リリアはゆっくりと周囲を見渡した。
「アウレリアに代々仕えてきた使用人を解雇し、ご自分の息のかかった者たちへ入れ替える」
一つ。
「愛人とその娘を本邸へ住まわせる」
二つ。
「アウレリアの紋章を外し、ご自分たち三人の肖像画を飾る」
三つ。
そして。
「正統な血を引く娘から部屋を奪い、物置同然の部屋へ六年間押し込める」
リリアの声から、完全に温度が消えた。
「随分と――立派な『代理』ですこと」
「……っ!」
ヴィンセントの顔が怒りで赤く染まる。
リリアはそんな彼を見て、薄く笑った。
「もう一度申し上げましょうか」
一歩、ヴィンセントへ近づく。
「お父様は、アウレリアの主ではありません」
さらに一歩。
「アウレリアの名も、屋敷も、領地も、権威も――貴方個人の所有物ではない」
ヴィンセントを真正面から見据える。
「貴方はただ、叔父様から預かったものを管理する立場にいるだけです」
「黙れ!」
「そして私は――」
ヴィンセントの怒声など意に介さず、リリアは続けた。
「アウレリアの正統な血を継ぎ、正式に次代を継ぐ者として定められた人間です」
そこで初めて、リリアの口元に冷たい笑みが浮かんだ。
「さて――」
僅かに首を傾ける。
「一体どちらが、自分の立場を思い出す必要があるのでしょうね?」
ヴィンセントは何も答えなかった。
いや。
答えられなかった。




