39
リリアとローゼンクロイツ侯爵は、城下町にある宿屋の一室にいた。
ローゼンクロイツ商会が経営する宿の中でも、貴族や要人を迎えるために用意された最上階の一室だ。
人払いを済ませると、ローゼンクロイツ侯爵が部屋全体に防音の結界を張った。
それを確認して、リリアはようやくセレナとしての仮面を脱ぎ捨てる。
備え付けの椅子へ深く腰掛けると、満足げに脚を組んだ。
「リリア嬢。先ほどの対応で、お気に召したかな?」
ローゼンクロイツ侯爵が穏やかな眼差しを向ける。
「ああ。上出来だ。面倒をかけたな」
「とんでもない」
侯爵は静かに首を横へ振った。
「私はずっと、セレナ嬢をお救いしたかった」
その表情に、僅かな悔恨が滲む。
「だが、あの子は昔から人への頼り方を知らない。どれほど苦しくとも『大丈夫です』と笑ってしまう子だ。こちらが手を差し伸べようとしても、自分のために誰かを巻き込むことを嫌がる」
リリアは黙って聞いていた。
「こちらも可能な限り探りは入れていたが、まさかあれほど酷い扱いを受けていたとは……」
侯爵の脳裏に、先ほど目にした狭く薄暗い部屋が過る。
「もっと早く気付いてやるべきだった」
「…………」
「だからこそ、ようやくあの愚か者に己の立場を分からせてやれる日が来たことを、私は喜ばしく思っているよ」
その言葉を聞いて――リリアの口角がゆっくりと持ち上がった。
そこに浮かんだのは、セレナなら決して見せない笑み。
温かさなど欠片もない。
冷たく、獰猛で、これから獲物をどう料理してやろうかと愉しむ捕食者のような笑みだった。
「分からせる?」
リリアが小さく笑う。
「ローゼンクロイツ侯。何か勘違いしていないか?」
「……何?」
「今日のあれは、ただの茶番だ」
ローゼンクロイツ侯爵が目を丸くする。
リリアは頬杖をつき、愉快そうに目を細めた。
「部屋を取り返して、使用人を黙らせて、あの男の鼻っ柱を折った程度で終わらせるつもりはない」
赤い瞳に宿るものを見て、ローゼンクロイツ侯爵は息を呑む。
「セレナが六年間で失ったものを、全部返してもらう」
家。
居場所。
名誉。
そして――尊厳。
「奪ったものは返させる。傷付けた分は償わせる」
淡々とした声だった。
怒鳴りもしない。
感情を荒らげることすらない。
だからこそ、その言葉には凄みがあった。
「それが終わるまで、誰一人逃がさない」
「……リリア嬢」
「本当の復讐は――これからだ」
リリアの瞳には、慈悲など一欠片もなかった。
ローゼンクロイツ侯爵は、目の前の少女を静かに見つめる。
同じ日に生まれ。
同じ銀の髪と紅の瞳を持ち。
同じアウレリアの血を受け継いだ、双子の姉妹。
それなのに、二人はあまりにも違っていた。
セレナは、どれほど傷付けられても他者を思いやり、手を差し伸べることをやめなかった。
ならばリリアは――。
姉へ向けられた悪意を決して忘れず、そのすべてを己が引き受け、牙を剥く。
光がすべてを照らすものならば。
闇は、その光を脅かすものを呑み込むためにある。
――アウレリアの光と闇。
ローゼンクロイツ侯爵には、目の前の双子がまるでそれを体現しているように思えてならなかった。
「まずは、あの男をどん底へ叩き落とす」
リリアは椅子の背に身体を預けたまま、淡々と言った。
「ローゼンクロイツ侯。貴殿の力を借りたい。ヴィンセントの権限で行える新規融資と追加借入を止めろ。それから、大口の資金移動にも制限をかけてくれ」
その言葉に、ローゼンクロイツ侯爵が僅かに目を見張った。
「……本気かい?」
「ああ」
「だが、ヴィンセント殿は曲がりなりにもアウレリア家の当主代理だ。彼の権限を制限すれば、領地経営にも少なからず影響が出る。資金繰りが滞れば、最終的に被害を受けるのは領民だよ」
どれほど強大な貴族であろうと、すべてを手元の現金だけで賄っているわけではない。
領地経営には莫大な金が動く。
公共事業、商取引、物流、農業支援、災害への備え。
ましてや広大な領地を有するアウレリアともなれば、金融機関との取引を制限される影響は決して小さくない。
「それでも構わないと?」
「構わない」
リリアは迷うことなく答えた。
ローゼンクロイツ侯爵の眉が僅かに動く。
だが――。
「勘違いするな」
リリアが続けた。
「領民を路頭に迷わせるつもりはない」
「では、どうする?」
「領地運営に必要な金は別口で確保する。既にグランヴェル家には話を通してある」
「グランヴェル家に?」
「ああ。私が冒険者として稼いだ金の大半は、グランヴェル家に預けてある」
ローゼンクロイツ侯爵はそこでようやく、リリアの意図を理解した。
「なるほど……君の個人資産を使うのか」
「必要ならな。もっとも、領地には税収も事業収入もある。私が領地経営の全てを肩代わりする必要はない。一時的に不足する資金を補えれば十分だ」
つまり、止めるのはアウレリア家そのものの金ではない。
ヴィンセントがアウレリア家の信用を利用し、自由に借り入れ、動かしている金だ。
「潰すのはアウレリアではない」
リリアの紅い瞳が細められる。
「ヴィンセントだ」
ローゼンクロイツ侯爵はしばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。
「しかし……随分と思い切った手に出るね。そこまでして彼の資金を締め上げる理由は、やはり復讐かい?」
「それもある」
「それも?」
リリアの口角が僅かに上がった。
「奴を金に困らせるだけなら、こんな回りくどい真似をする必要はない」
ローゼンクロイツ侯爵の目が細められる。
「奴には協力者がいる」
「……協力者?」
「ああ」
リリアは断言した。
「奴一人で、これだけのことが出来るとは思えない」
叔父が国外へ出た直後から始まった屋敷の掌握。
アウレリア家の古参使用人たちの一斉解雇。
愛人とその娘を本邸へ迎え入れ、アウレリアの名を名乗らせるという暴挙。
そして、長年にわたって表沙汰にならなかった不正。
「だから、炙り出す」
「……なるほど」
ローゼンクロイツ侯爵も意図を察した。
「資金を断たれれば、ヴィンセント殿は必ずどこかに助けを求める」
「ああ」
「そこで誰が彼に手を差し伸べるのかを見る……ということか」
「そういうことだ」
リリアは楽しげに笑った。
「金に困った人間ほど、繋がりを隠せなくなるからな」
誰に泣きつくのか。
誰が金を貸すのか。
誰が便宜を図るのか。
誰が証拠を隠そうと動き出すのか。
ヴィンセントを中心として静止していた人間関係に、石を投げ込む。
水面が揺れれば、隠れていたものも姿を現す。
「それに――」
リリアは続けた。
「そもそも、奴はまともな領地経営などしていない」
ローゼンクロイツ侯爵の表情が変わった。
「どういうことだい?」
「横領している」
「……何?」
「それだけじゃない。不正会計、架空取引、補助金の流用。表向きの帳簿は随分と綺麗に作っていたようだがな」
ローゼンクロイツ侯爵は思わず身を乗り出した。
「待ってくれ。我々もアウレリア家の資金の流れは調べている。だが、そこまで大規模な不正の形跡は――」
「出なかっただろう?」
先回りして言われ、侯爵は口を閉ざした。
リリアは薄く笑う。
「当然だ。貴殿らが調べることくらい、奴も想定している」
「では、どうやって……」
「運送業者だ」
「運送業者?」
「奴が以前治めていた領地にある運送業者の一つが、ヴィンセントの手足になっている」
リリアは淡々と続ける。
「表向きはアウレリア領と王都を行き来する普通の運送業者。だが実際には、奴の情報を運ぶ連絡役であり、金を外へ流すための経路でもある」
「……そんなことが」
「それだけではない」
リリアの声が一段低くなる。
「奴は、セレナが立ち上げた戦傷者と戦没者遺族を支援するための制度にまで手を出した」
ローゼンクロイツ侯爵の表情から、完全に笑みが消えた。
「……何だって?」
「支援金の一部を抜いている」
「…………」
「関連機関への支出を水増しし、その差額を別の場所へ流している。帳簿上は正規の支出に見えるようにな」
ローゼンクロイツ侯爵の拳が静かに握られた。
戦で傷を負い、働くことさえ困難になった者。
家族を戦場で失い、生活に困窮する遺族。
彼らを救うために、まだ幼かったセレナが周囲へ働きかけて作り上げた制度だった。
よりにもよって、それを私腹を肥やすために利用したというのか。
「……証拠はあるのかい?」
「ある」
即答だった。
しかし、すぐにリリアは言い直す。
「いや――正確には、決定的な証拠はこれから届く」
「これから?」
「ああ。病院を出る前から、アビスの連中に調べさせている」
ローゼンクロイツ侯爵が目を細めた。
「貴族の帳簿を正面から調べても何も出ないなら、帳簿の外側から辿ればいい」
運送業者。
荷の出入り。
実際に走った馬車の数。
商人との取引。
金を受け取った者。
帳簿には決して残らない現金や物品の受け渡し。
そして、ヴィンセントが絶対に表へ出したくない裏側の人間たち。
「ローゼンクロイツ家が追えるのは、表の金の流れだ」
リリアは頬杖をついた。
「だが、金が表から消えた後、どこへ行くのか――それを追うのは私たちの方が得意だ」
ローゼンクロイツ侯爵は、しばらく何も言えなかった。
王国有数の金融網を持つローゼンクロイツ家でも掴めなかったものを、リリアはまったく別の方向から追い詰めようとしている。
「……リリア嬢」
「なんだ?」
「君は一体、どこまで掴んでいる?」
その問いに、リリアは僅かに目を細めた。
「ヴィンセント自身の不正についてなら、大方な」
「では、その協力者については?」
「まだ分からない」
今度ははっきりと言った。
「だから、動かすんだ」
リリアはゆっくりと身体を起こした。
「奴が横領した金も、不正に流した資金も、最後には全部取り戻す。領地運営に必要な資金はこちらで確保する」
「その上で、ヴィンセント殿だけを追い詰める」
「ああ」
リリアの瞳が冷たく光った。
「アウレリアを兵糧攻めにするんじゃない」
薄く口角を上げる。
「ヴィンセントを孤立させる」
家の金。
権力。
人脈。
アウレリアの名があるからこそ手に入れられたもの。
己の力だと思い込んでいるすべてを、一つずつ切り離していく。
そして追い詰められた時――誰が彼へ手を伸ばすのか。
リリアが本当に見たいのは、そこだった。
「自分がアウレリアの主だと言うのなら――」
リリアは愉快そうに笑った。
「アウレリアの名を盾に金を借りることも、好き勝手に資金を動かすことも出来なくなった時、一人でどこまで偉そうにしていられるのか見てみたいじゃないか」




