38
リリアはローゼンクロイツ侯爵を伴い、セレナが六年間暮らしていた部屋へと向かった。
二階の奥。
日当たりの悪い廊下の突き当たりにある、小さな一室。
リリアが扉を開け、その中を目にした瞬間――ローゼンクロイツ侯爵は言葉を失った。
狭い。
まず、そう思った。
元は物置として使われていた部屋なのだから当然だ。
辛うじて足を伸ばせる程度の小さなベッドと、古びたクローゼット。それだけで部屋の大半が埋まっている。
窓は小さく、薄暗い。
角部屋のせいか隙間風も酷く、湿気を含んだ冷たい空気が肌にまとわりつく。
公爵令嬢の私室とは、到底思えなかった。
「お嬢様は……六年もの間、こんな部屋で暮らしていたのか……?」
ローゼンクロイツ侯爵の口から、呆然とした声が漏れた。
信じられないものを見るように室内を見渡す。
そして、クローゼットへ目を向けたところで、その表情がさらに険しくなった。
中に掛けられている衣服はどれも古い。
かつてエレノアが身につけていたものを、セレナ自身が自分の身体に合うよう仕立て直した服ばかりだった。
「これは……エレノア様の……」
ローゼンクロイツ侯爵は覚えていた。
友人であった彼女が、かつて身につけていた服を。
娘が母の形見として大切に残している――ただそれだけならば、何もおかしくはない。
だが。
年頃の公爵令嬢が日常的に着る衣服さえ満足に与えられず、亡き母の古着を自ら仕立て直して着ていたのだとすれば、話はまるで違う。
「…………」
ローゼンクロイツ侯爵は眉宇を寄せ、口元を片手で覆った。
この六年間。
自分たちの知らないところで、あの少女は一体どのような生活を送っていたのか。
その一端を目の当たりにし、言葉を失っていた。
「ローゼンクロイツ侯、誤解です!」
背後からヴィンセントが慌てて声を上げた。
「これはセレナの不品行を正すため、仕方なくこの部屋で反省させていたのです」
「……お嬢様が、不品行?」
ローゼンクロイツ侯爵がゆっくりと振り返った。
その眼差しに、先ほどまでの温厚さは微塵もない。
鋭い視線に射抜かれ、ヴィンセントが僅かに怯む。
「私の知るお嬢様は、エレノア様がご存命の頃から粗相一つない、品行方正なご令嬢だった」
「それは昔の話です。セレナは――」
「先日の創立記念大舞踏会でもお会いした」
ヴィンセントの言葉を遮り、侯爵は淡々と続ける。
「あれほどの騒ぎの中にあっても取り乱さず、公爵令嬢として恥じぬ振る舞いをなさっていた。私には、とても六年間もこのような部屋へ押し込めねばならないほど素行に問題のある方には見えなかったが?」
「それは……」
ヴィンセントが言葉に詰まる。
「それで?」
侯爵の声が一段低くなる。
「お嬢様は一体、何をなさったのだ?」
「……リリアを屋敷から出したのです」
しばしの沈黙の後、ヴィンセントは苦々しげに答えた。
その瞬間。
ローゼンクロイツ侯爵の目が細くなった。
「リリアお嬢様を?」
「はい。あの子は父親である私に無断で屋敷を抜け出しました。セレナはそれを知りながら止めるどころか、リリアが屋敷を出る手助けまでした。ですから姉として、自らの行いを反省させる必要が――」
「六年?」
静かな一言だった。
ヴィンセントの言葉が止まる。
「……何です?」
「その『反省』とやらのために、当時まだ十歳そこそこのお嬢様を、この物置同然の部屋へ移した」
ローゼンクロイツ侯爵は改めて室内を見渡した。
「そして――六年間、一度も元の部屋へ戻さなかった。それを貴殿は、教育と仰るのか?」
「そ、それだけではありません!」
ヴィンセントは慌てて声を上げた。
「セレナは普段から妹であるエミリアを虐げ、貶めようとしていたのです! 何度注意しても態度を改めようとせず――」
あくまで悪いのはセレナなのだと。
ヴィンセントは己の正当性を主張し続ける。
その言葉を聞いたローゼンクロイツ侯爵の眉間に、深い皺が刻まれた。
「……妹?」
ぽつりと落とされた声は、酷く冷たいものだった。
「はい。エミリアはセレナと血を分けた実の妹です」
「…………」
重い沈黙が狭い部屋を満たす。
その横で、リリアは何も言わなかった。
やがてローゼンクロイツ侯爵は、信じ難いものを見るような目をヴィンセントへ向けた。
「貴殿は……婿養子の身でありながら、エレノア様亡き後、愛人とその娘を勝手にアウレリア本邸へ迎え入れたのか」
「勝手にとは何です! 彼女たちは私の家族です!」
「貴殿の家族であることと、アウレリア家の一員であることは別の話だ」
ぴしゃりと言い切られ、ヴィンセントの顔が強張った。
「ましてや、エレノア様の娘であり、正統な後継者たるお嬢様から私室まで取り上げ、それを愛人の娘に与えたと?」
ローゼンクロイツ侯爵の声音から、完全に温度が消えた。
「……エレノア様の婚姻が決まったあの時、私はもっと強く反対すべきだった」
悔恨を滲ませるように、静かに呟く。
「まさか、あの方が亡くなられた途端、これほどまでアウレリアを我が物顔で扱う男だったとは」
「なっ……!」
ヴィンセントは目を見開いた。
そして、侮辱されたと理解した途端、その顔を怒りに染める。
「いくらローゼンクロイツ侯といえど、言ってよいことと悪いことがありますぞ!」
声を荒らげ、一歩前へ出た。
「私は今やアウレリア公爵家の当主代理! この家を預かる者だ! いかに盟約家の当主といえど、私と貴殿の立場に上下はない!」
「…………」
ローゼンクロイツ侯爵が無言になる。
その沈黙を肯定とでも受け取ったのか、ヴィンセントはさらに胸を張った。
その様子を見ていたリリアは、とうとう堪えきれず小さく息を漏らした。
「……ふっ」
笑ったのだ。
「何がおかしい、セレナ」
「いえ、失礼いたしました」
リリアは口元に手を添えながらも、その赤い瞳には隠しきれない嘲りが浮かんでいる。
「まさかお父様が、本気でそのようにお考えだったとは思いませんでしたので」
「何?」
「当主代理如きが、盟約家の当主と並び立てると――本気でお考えなのですか?」
「セレナ!」
ヴィンセントの怒声にも、リリアは眉一つ動かさなかった。
「お父様。『当主代理』とは、当主が不在の間、その職務を代行する者に過ぎません」
一歩。
リリアはヴィンセントへ近づいた。
「アウレリアの血を引くわけでもない。先代当主であるお母様から家督を譲られたわけでもない。現当主である叔父様から爵位を継承したわけでもない」
一つずつ、逃げ道を塞ぐように並べていく。
「貴方はただ、叔父様がお戻りになるまで、この家を預かることを許されているだけですわ」
「黙れ!」
「それを随分と大きく勘違いなさっているようですけれど」
リリアはそこでローゼンクロイツ侯爵へ視線を向けた。
「少し考えれば分かることでしょう?」
再びヴィンセントを見る。
「もしローゼンクロイツ侯爵が『アウレリア公爵家』という肩書きだけを重んじておられるのでしたら、曲がりなりにもその家に籍を置くお父様にも、相応の礼を尽くされるはずです」
「…………」
「けれど、そうではない」
リリアの笑みが深くなる。
「侯爵が敬意を払っておられるのは、アウレリアという家名を勝手に振りかざす者ではなく――その正統な血を受け継ぐ者ですわ」
ヴィンセントの顔から、僅かに怒気が消えた。
代わりに浮かんだのは、理解できないものに対する困惑だった。
リリアはそんな父を冷ややかに見つめる。
そもそもローゼンクロイツ侯爵は、爵位だけを見て侮れるような人物ではない。
王国経済の中枢を担い、その財力は国家財政にすら影響を及ぼす。
王家でさえ、時にローゼンクロイツ家から融資を受けるほどだ。
爵位だけなら公爵であるアウレリア家が上。
だが、爵位とは単純な数字の大小ではない。
ましてやヴィンセントは、その公爵位を継いだ当主ですらなかった。
「お父様」
リリアはどこか憐れむように首を傾げた。
「他家の威光を借りただけの貴方が、何故ご自分まで偉くなったと錯覚してしまったのかしら」
「貴様……!」
「それにな」
それまで黙っていたローゼンクロイツ侯爵が口を開いた。
ヴィンセントの視線がそちらへ向く。
「一つ、大きな勘違いをしているようだから訂正しておこう」
ローゼンクロイツ侯爵は静かにヴィンセントを見据えた。
「私はアウレリア公爵家という爵位に頭を下げているのではない」
その視線が、一瞬だけリリアへ向けられる。
「我らが敬意を払うのは――千年以上にわたり盟約を守り続けてきた、アウレリアの正統なる継承者だ」
再びヴィンセントを見る。
「貴殿ではない」
ヴィンセントは何も言い返せなかった。
――血筋が何だというのだ。
確かに、アウレリア公爵家の家督を継承するには、その血を引いていることが何より重視される。
だが、それだけではない。
ローゼンクロイツ侯爵がセレナへ向ける敬意は、単に名門公爵家の正統後継者へ向けるものとは、どこか違うように思えた。
もっと古く、もっと根深い何か。
自分の知らないところで、アウレリアと盟約家の間には何かがある。
そんな得体の知れない違和感が、ヴィンセントの胸中に残った。
だが、それが何なのかまでは分からない。
ヴィンセントには知らされていないのだから。
「お嬢様」
ローゼンクロイツ侯爵はヴィンセントから視線を外すと、再びリリアへと向き直った。
「本日はもう日も暮れて参りました。よろしければ、今夜は我が商会が城下で営んでいる宿にお泊まりください」
「まあ……よろしいのですか?」
「もちろんです。このような場所で、退院されたばかりのお身体を休ませるわけには参りませんからな」
ちらりと狭い部屋へ視線を巡らせ、侯爵は続ける。
「お持ちした品々も、本日は一度こちらで預からせていただきましょう。寝具や家具も含め、明日改めてお嬢様の元のお部屋へ運び入れます」
「ローゼンクロイツ侯、お心遣い感謝いたしますわ」
リリアは二つ返事で申し出を受け入れた。
「待て!」
ヴィンセントがすかさず口を挟む。
「セレナの部屋については、まだ私の許可を――」
「必要ありませんわ」
リリアは即座に切り捨てた。
そして、冷めきった赤い瞳を父へ向ける。
「お父様」
その声音から、先ほどまでローゼンクロイツ侯爵へ向けていた柔らかさが消えた。
「一つ、ご忠告申し上げますわ」
「何だ」
「そうしてアウレリアの主を気取って、ふんぞり返っていられるのも――せいぜい、あと一年です」
ヴィンセントの眉が動いた。
「……何?」
「お忘れですか?」
リリアは薄く笑う。
「来月は私の誕生日。そして、約一年後には十八になります」
「…………!」
そこでようやく、ヴィンセントも彼女の言わんとしていることを理解した。
「叔父様がお戻りになれば、その時点でお父様の役目は終わり。そして、仮にそれまで叔父様がお戻りにならなかったとしても――」
リリアは一歩、父へ近づいた。
「私が成人すれば、いつまでもお父様にアウレリアを預けておく理由などございませんわ」
「セレナ……貴様……」
「当主代理は、あくまで代理」
リリアは静かに告げる。
「貴方のものになったわけではありませんのよ。この家も、爵位も、領地も――アウレリアの名さえも」
ヴィンセントの顔が見る見るうちに険しくなる。
対するリリアは、実に愉快そうに口角を上げた。
「ですから、その日まで精々お楽しみになればよろしいのではなくて?」
そして父の横を通り過ぎる間際、足を止める。
「もっとも――」
リリアはヴィンセントだけに聞かせるよう、声を落とした。
「一年も、持てばの話ですけれど」
「……!」
ヴィンセントが振り返った時には、リリアは何事もなかったかのようにローゼンクロイツ侯爵の元へ歩いていた。
「では侯爵、お言葉に甘えさせていただきますわ」
「ああ。参りましょう、お嬢様」
二人が部屋を後にする。
残されたヴィンセントは、その背中を睨みつけたまま動かなかった。
――約一年。
その言葉が、まるで自分に残された猶予を告げる宣告のように、いつまでも耳の奥に残っていた。




