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ローゼンクロイツ侯爵は、厳しい眼差しをヴィンセントへ向けた。
「それで――お嬢様の姿が見えないようだが、どちらにいらっしゃる?」
「セレナは、その……」
ヴィンセントは言葉を詰まらせた。
まさか、屋敷の最奥にある元物置部屋へ押し込めているなどと言えるはずがない。
ましてや、目の前にいるのはローゼンクロイツ侯爵だ。
彼は亡きエレノアとも親交が深く、アウレリア家の内情にも明るい。
エレノアが娘たちのために用意した部屋がどこにあったのかも、当然知っているだろう。
「どうした?」
ローゼンクロイツ侯爵の声が一段低くなる。
「いえ……セレナは、その……退院したばかりでございますので、今は自室で休ませております」
「ほう」
ローゼンクロイツ侯爵が僅かに目を細めた。
「それはちょうどいい。退院祝いも兼ねて持参した品だ。直接ご挨拶申し上げよう」
「い、いえ!」
ヴィンセントが咄嗟に声を上げる。
侯爵の眉がぴくりと動いた。
「……何か?」
「セレナはまだ本調子ではありません。先ほども少々体調が優れない様子でしたので……侯爵閣下のお気持ちは、私から必ず伝えておきます」
「必要ない」
にべもなく切り捨てられた。
「私はお嬢様に会いに来たのだ。貴殿に贈り物を預けに来たわけではない」
「ですが――」
「それとも」
ローゼンクロイツ侯爵の眼差しが鋭くなる。
「私がお嬢様にお会いしては、何か都合の悪いことでも?」
「…………!」
ヴィンセントの表情が強張った。
「まさか! そのようなことはございません!」
「ならば問題あるまい」
ヴィンセントの返答を待つことなく、ローゼンクロイツ侯爵は屋敷へ向かって歩き出す。
「お嬢様のお部屋なら存じている。案内は不要だ」
「お、お待ちください、ローゼンクロイツ侯!」
ヴィンセントの顔から、さっと血の気が引いた。
まずい。
侯爵が知っている『セレナの部屋』は、当然ながらエレノアが娘たちのために用意したあの部屋だ。
「侯爵! お待ちを! セレナならこちらへ呼んで参ります!」
ヴィンセントは慌ててローゼンクロイツ侯爵を呼び止めた。
「今、屋敷の中が少々散らかっておりまして……とても侯爵にお見せできるような状態ではないのです」
咄嗟にもっともらしい理由を並べる。
そして、侯爵が何か言うより先に、近くに控えていた衛兵へ声を飛ばした。
「そこのお前! 今すぐセレナを連れて来い!」
「はっ!」
命令を受けた衛兵が動こうとする。
しかし――。
「その必要はない」
ローゼンクロイツ侯爵の一言で、その足が止まった。
「え……?」
「退院されたばかりなのであろう?」
侯爵はさも当然のことのように言う。
「ならば、わざわざお嬢様に御足労いただく必要はない。私の方からご挨拶に伺おう」
「な……」
ヴィンセントは言葉を失った。
愛人もエミリアも、傍にいた使用人たちまでもが驚いたようにローゼンクロイツ侯爵を見る。
誰もが耳を疑った。
ローゼンクロイツ侯爵ともあろう人物が、自ら十六歳の少女の部屋まで出向くという。
王家ですら礼をもって接する、建国盟約家の一角。
その当主が。
ただの見舞いではない。
まるで目上の者を訪ねるかのように、自ら足を運ぶと言っているのだ。
「ローゼンクロイツ侯……そこまでしていただかずとも……」
「そこまで?」
侯爵がヴィンセントを見る。
穏やかな声音だった。
だが、その目は笑っていない。
「アウレリアの正統な血を継ぐお嬢様に、こちらから出向いてご挨拶申し上げる。それの何が不思議なのだ?」
「…………」
ヴィンセントは答えられなかった。
不思議に決まっている。
少なくとも、彼の常識では。
建国の折に王家と盟約を交わしたアウレリア、ローゼンクロイツ、ラグナール、グランヴェル。
その四家の間に明確な上下関係は存在しない。
ヴィンセントも、そう認識していた。
だというのに――。
目の前のローゼンクロイツ侯爵は、アウレリア家の当主ですらない十六歳の少女に対し、明らかに特別な敬意を払っている。
それも単に、筆頭公爵家の令嬢だからという態度ではない。
――アウレリアの正統な血を継ぐお嬢様。
先ほど侯爵が口にした言葉が、妙に耳に残った。
ヴィンセントは知らない。
いや――知らされていない。
建国より千年以上にわたり受け継がれてきた盟約の中で、アウレリアという血筋が三家にとって何を意味するのかを。
「では、参ろうか」
ローゼンクロイツ侯爵はそれ以上説明するつもりもないらしく、悠然と屋敷へ向かって歩き出した。
「お、お待ちください!」
ヴィンセントは顔を青ざめさせ、ローゼンクロイツ侯爵の後を追った。
このまま行かせるわけにはいかない。
ローゼンクロイツ侯爵が知るセレナの部屋と、今セレナが押し込められている部屋。
その二つがまるで違うことを知られてしまう。
「早くセレナを呼んで来るんだ!」
もはや体裁を取り繕う余裕もなく、ヴィンセントは近くにいた衛兵へ怒鳴った。
「は、はい!」
衛兵は慌てて屋敷へ駆け戻っていく。
「ローゼンクロイツ侯。せっかくお越しいただいたのです。まずは応接室でお茶でも――」
「結構だ」
「では、先ほどの贈り物について――」
「後でよい」
「そ、そうですか……」
何とか気を引こうと話しかけるものの、ローゼンクロイツ侯爵は取り合おうともしない。
そのまま玄関前まで来ると、ドアマンが絶妙なタイミングで両開きの扉を開いた。
「ローゼンクロイツ侯爵様、ご来訪でございます」
ヴィンセントは恐る恐る玄関ホールへ目を向ける。
先ほどまで床一面に散乱していたエミリアの私物は、どうにか片付けられていた。
あの巨大なクローゼットも姿を消している。
――間に合った。
ヴィンセントは内心、安堵の息を吐いた。
その時だった。
二階に人影が現れる。
「…………!」
ヴィンセントの表情が強張った。
リリアだった。
何事もなかったかのような澄ました顔で、階段の上に佇んでいる。
その傍には、彼女を呼びに行った衛兵と、監視役として部屋の前にいたフェリクスの姿もあった。
「セレナ……」
ヴィンセントが小さく名を呼ぶ。
間に合ったことには安堵した。
だが、今度は別の不安が胸を過る。
――余計なことを言うなよ。
そんな父の胸中を見透かしたかのように、リリアの紅い瞳がヴィンセントを捉えた。
ヴィンセント。
その隣に立つ愛人。
そしてエミリア。
三人を順番に見下ろした後――リリアの口元に、ほんの僅かな笑みが浮かぶ。
それはセレナが浮かべる柔らかな微笑みとは程遠い。
獲物の弱みを握った者が見せる、意地の悪い笑みだった。
「…………」
ヴィンセントの背筋に嫌なものが走った。
しかし、次の瞬間にはその笑みは綺麗に消えていた。
リリアはドレスの裾を軽く摘まむと、優雅な足取りで階段を下りていく。
「ローゼンクロイツ侯爵。この度は、わざわざ御足労いただきありがとうございます」
先ほどまで父や使用人たちに見せていた態度が嘘のような、完璧な令嬢の振る舞いだった。
「とんでもございません」
ローゼンクロイツ侯爵も穏やかな笑みを浮かべる。
「お嬢様が無事に退院されたと伺いましてな。こうしてお元気なお姿を拝見でき、安堵いたしました」
「ご心配をおかけいたしました」
リリアは品よく微笑んだ。
「おかげさまで、もうすっかり元気ですわ」
「それは何より」
侯爵は満足そうに頷く。
そのやり取りを、ヴィンセントたちは呆然と眺めていた。
先ほどまで父親に反抗し、侍女長を叩き、エミリアの私物を二階から投げ捨てていた娘と同一人物とは到底思えない。
だが、ローゼンクロイツ侯爵の前にいるリリアは、どこからどう見ても非の打ち所のない公爵令嬢だった。
「それで、お嬢様」
ローゼンクロイツ侯爵が微笑む。
「退院祝いとして、ささやかながら贈り物をお持ちいたしました」
「まあ、私に?」
「ええ。お気に召していただければよいのですが」
「侯爵から頂けるものでしたら、きっと素敵なものですわ」
リリアが嬉しそうに微笑む。
その後ろで、エミリアの表情が僅かに歪んだ。
つい先ほどまで、自分への贈り物だと思っていた大量の荷車。
それら全てがセレナのために用意されたものだと、改めて突きつけられたのだから。
「ところで、お嬢様……」
ローゼンクロイツ侯爵が不意に表情を曇らせた。
リリアの顔をじっと見つめ、僅かに目を見開く。
「その頬は……どうされたのですか?」
リリアは一瞬、答えに窮したように口を噤んだ。
赤く染まった頬へ、そっと片手を添える。
「何でも……ございませんわ」
弱々しく視線を伏せた。
その瞬間、ヴィンセントの顔が強張る。
先ほど、自分が二度にわたってセレナの頬を打ったことを思い出したのだ。
「ローゼンクロイツ侯、これには事情が――」
「私はただ、元のお部屋へ戻りたかっただけですの!」
ヴィンセントの弁明を遮るように、リリアが声を上げた。
「セレナ!」
ヴィンセントが咎めるように名を呼ぶ。
しかし、リリアは怯えたように僅かに肩を揺らすと、ますます身体を縮こまらせた。
「ですが……私が悪いのです」
消え入りそうな声で続ける。
「今はもう、あのお部屋はエミリアのお部屋ですもの。それなのに私ったら、昔使っていた自分の部屋だからと……勝手に荷物を運び出してしまって……」
言葉を詰まらせる。
「だから、お父様がお怒りになって私をお叩きになったのも……仕方のないことですわ」
ローゼンクロイツ侯爵の表情から、すっと笑みが消えた。
対してリリアは、泣き顔を隠すかのようにドレスの袖でそっと目元を覆う。
もちろん、涙など一滴も流れていない。
だが俯いた顔も、僅かに震わせた肩も、途切れがちな声も――傍から見れば、必死に涙を堪えているようにしか見えなかった。
これまでエミリアが散々披露していた振る舞いを、そっくりそのまま真似ただけである。
「今、何と仰いました?」
ローゼンクロイツ侯爵が低い声を発した。
その声から、先ほどまでの温和さが消えている。
「『昔使っていた自分の部屋』と」
侯爵の視線がゆっくりとエミリアへ向く。
「私の記憶違いでなければ、二階南側にあるあの部屋は、エレノア様がセレナお嬢様とリリアお嬢様のために用意された部屋だったはず」
エミリアの顔が強張った。
「それを今は、そちらの娘が使用していると?」
「それは……」
ヴィンセントが口を挟もうとする。
だが、侯爵はさらに続けた。
「では、お嬢様は現在どちらのお部屋を?」
「侯爵、それについては――」
「お父様」
リリアが顔を上げた。
潤んですらいない瞳を悟られぬよう、すぐにまた伏せる。
「私のお部屋をご案内して差し上げてはいかがです?」
「…………!」
ヴィンセントの顔から、完全に血の気が引いた。
「ローゼンクロイツ侯爵も、私がどのようなお部屋で六年間暮らしてきたのか――」
リリアはそこで言葉を切る。
「きっと、ご覧になりたいでしょうから」
そして、健気に取り繕うような笑みを作った。




