36
フェリクスは一人、二階の奥へと向かった。
長い廊下の突き当たり。
そこに、セレナが六年間使い続けてきた部屋がある。
扉は固く閉ざされていた。
その前まで来たフェリクスは足を止める。
「…………」
何故だろう。
ただ声を掛けるだけだというのに、妙に緊張していた。
こんな気持ちになるのは、いつ以来だろうか。
ふと、エレノアが亡くなった頃のことを思い出す。
母を失った悲しみに暮れるセレナを前に、何と声を掛ければいいのか分からず、ただ傍に立ち尽くすことしかできなかった。
あの時以来かもしれない。
フェリクスは一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
そして、意を決して扉を叩く。
「セレナ様。フェリクスです」
返事はない。
しばらく待ってみるものの、室内から声が返ってくる気配はなかった。
「……セレナ様?」
フェリクスは訝しげに眉を寄せる。
これまで、セレナが自分の呼び掛けを無視したことなど一度もなかった。
――いや。
今のセレナなら、無視くらいするかもしれない。
病院で明確に拒絶されたばかりなのだから。
そう思い直したものの、胸騒ぎは消えなかった。
事故から目覚めて、まだ一週間しか経っていない。
もし後遺症で体調を崩していたら。
誰にも助けを求められないまま、中で倒れていたら――。
「セレナ様、ご無事ですか!」
先ほどより強く扉を叩く。
それでも返事はない。
フェリクスは扉へ耳を寄せた。
物音一つ聞こえなかった。
「セレナ様!」
嫌な予感が一気に膨れ上がる。
「……失礼いたします。開けます!」
返事を待つ余裕はなかった。
フェリクスは不躾を承知で扉を開けようとする。
しかし、鍵が掛かっている。
「くっ……!」
閉ざされていた扉を無理矢理こじ開ける。
部屋の中は薄暗かった。
明かりは灯されておらず、日当たりの悪い小さな窓から差し込む僅かな光だけが室内を照らしている。
そして――。
「セレナ様!」
部屋の奥。
開け放たれたクローゼットの前に、セレナがいた。
床に膝をつき、クローゼットの中から取り出した一着のドレスを胸に抱えている。
「如何なさいましたか!」
倒れているわけではない。
そのことに安堵しながらフェリクスが傍へ駆け寄ろうとした、その時だった。
「誰が部屋に入っていいと言ったの!」
鋭い声が飛ぶ。
フェリクスの足がぴたりと止まった。
リリアは背を向けたまま、振り返ろうともしない。
その腕には、古びた一着のドレスが大切そうに抱かれていた。
「……それは」
フェリクスにも見覚えがあった。
エレノアが生前着ていたものだ。
もっとも、当時の形そのままではない。
裾は短く詰められ、身幅も細く直されている。
母の死後、満足に衣服すら与えられなくなったセレナが、残されていたエレノアの古着を自らの身体に合うよう手直ししたものだった。
クローゼットの中を見れば、それが一着だけではないことが分かる。
どれも決して新しいものではない。
古い生地。
色褪せた布。
ところどころに残る、不慣れな手で縫い直した跡。
公爵令嬢の衣装棚とは到底思えないほど、質素なものばかりだった。
対して――。
つい先ほどリリアが放り出したエミリアの部屋には、数え切れないほどの新品のドレスが並んでいた。
宝石が縫い込まれたもの。
流行の意匠を取り入れたもの。
一度しか袖を通していないものすら、いくつもあった。
「…………」
フェリクスは言葉を失った。
リリアはそんな彼を無視し、腕の中の服へ視線を落とす。
指先で、縫い目をそっとなぞった。
決して綺麗とは言えない縫い目だった。
それでも、破れないように何度も針を通した跡がある。
――セレナが、自分で縫ったのだ。
母の服を捨てることもできず。
新しい服を買ってもらうこともできず。
自分の身体に合わせて、一着ずつ。
「……こんなものまで、自分で直していたのね」
ぽつりと零れた声に、怒りはなかった。
ただ、ひどく静かだった。
リリアはドレスを胸元へ引き寄せる。
泣きはしない。
ただ、布地を握る指先に僅かに力が籠もった。
そして、背後に立つフェリクスの存在を思い出したように、冷え切った声を落とす。
「……出て行って」
「セレナ様」
「聞こえなかった?」
そこで初めてリリアは振り返った。
涙などない。
ただ、その紅い瞳にはフェリクスが息を呑むほどの拒絶があった。
「私は一人になりたいの。出て行って」
「……承知いたしました。では、私は部屋の外におります。何かございましたら、お声がけください」
フェリクスは静かに頭を下げた。
本来、彼がここにいる目的はセレナの監視だ。
だが今の言葉は、そんな役目とは関係なく出たものだった。
ただ純粋に、セレナのことが心配だった。
一礼して部屋を後にし、静かに扉を閉める。
リリアは閉ざされた扉へ一瞥を向けると、冷たく鼻で笑った。
「……今さら」
小さく吐き捨てる。
そして再び、腕の中にある母の古着へと視線を落とした。
◇
ヴィンセントは急いで屋敷の外へ向かった。
待たせてしまっているローゼンクロイツ侯爵を出迎えるため、慌ただしく玄関を飛び出す。
その後ろには愛人とエミリアも続いていた。
盟約家であるローゼンクロイツ家の当主が直々に訪れたとあっては、挨拶をしないわけにはいかない。
「お待たせして申し訳ございません、ローゼンクロイツ侯」
ヴィンセントは普段からは考えられないほど腰を低くして侯爵を迎えた。
「それで……本日はどのようなご用件で、我がアウレリア家へ?」
普段のヴィンセントは、五大公爵家の当主が相手であろうと、筆頭公爵家たるアウレリアの権威を笠に着て尊大に振る舞っている。
しかし、建国以来王家と盟約を結ぶ三家は別だった。
ローゼンクロイツ家、ラグナール家、グランヴェル家。
彼らの前では、アウレリアの名を盾にしたところで意味をなさない。
その程度の力関係は、ヴィンセントにも理解できているらしい。
「本日は、お嬢様へ贈り物をお持ちいたしました」
ローゼンクロイツ侯爵はにこやかな笑みを浮かべると、自らの背後を手で示した。
そこには何台もの荷車が連なっていた。
大小様々な木箱が積み上げられ、最後尾が見えないほどの列を成している。
「こ、これを……全てですか?」
ヴィンセントが目を丸くする。
「ええ。そうです」
ローゼンクロイツ侯爵は何でもないことのように頷いた。
「つまらないものばかりですが、お受け取りいただければ幸いです」
「まあ!」
真っ先に声を上げたのは、ヴィンセントの隣にいた愛人だった。
そして何を勘違いしたのか、嬉しそうにエミリアの背中へ手を添える。
「ほら、エミリア。貴方のために、こんなにもたくさん持ってきてくださったのよ」
「まあ……!」
エミリアの顔がぱっと華やいだ。
「つまらないものだなんて、とんでもございませんわ。ローゼンクロイツ侯爵様から頂戴するものでしたら、その辺の石ころだって価値あるものですもの」
「ははは。そうでしょうとも」
ヴィンセントも満足そうに頷いた。
「エミリア。きちんとお礼を申し上げなさい」
「はい、お父様」
エミリアはドレスの裾を摘まみ、優雅に腰を落とした。
「ローゼンクロイツ侯爵様。この度は、このように素晴らしい贈り物をありがとうございます。大切に使わせていただき――」
「……何をしている」
「え?」
低い声に、エミリアの動きが止まった。
先ほどまで穏やかな笑みを浮かべていたローゼンクロイツ侯爵の顔から、笑みが完全に消えている。
「ローゼンクロイツ侯爵様……?」
「私は『お嬢様へ』と申し上げた」
「……はい?」
侯爵の眉間に深い皺が刻まれた。
「いつ、貴様への贈り物だと言った?」
「え……」
エミリアの顔から笑みが消える。
ヴィンセントも慌てて口を挟んだ。
「ローゼンクロイツ侯、それは一体――」
「黙っていろ!」
鋭い一喝が飛ぶ。
ヴィンセントが息を呑んだ。
ローゼンクロイツ侯爵は改めてエミリアへ視線を向ける。
そこに先ほどまでの温厚さは微塵もない。
「アウレリア公爵家の本邸を我が物顔で歩くだけでは飽き足らず、私が『アウレリアのお嬢様へ』と持参した品まで、自分への贈り物だと思ったのか」
「そ、それは……」
「身の程を弁えろ!」
侯爵の怒声が響き渡った。
エミリアの肩が大きく跳ねる。
「この不届き者が!」
ローゼンクロイツ侯爵は、エミリアを真正面から睨み据えた。
「私が贈り物を持参した相手は――セレナ・フォン・アウレリア様だ」




