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「こんな時に、何故ローゼンクロイツ侯爵が……!?」
ヴィンセントは突然の来訪に明らかな動揺を見せた。
ローゼンクロイツ侯爵が自らアウレリア家へ足を運ぶのは、エレノアが存命だった頃以来のことだ。
もっとも、その事実をヴィンセントは知らない。
当時、彼はアウレリア領に滞在しており、その後、本邸の使用人もほとんど入れ替えられている。
ローゼンクロイツ侯爵がかつてこの屋敷を訪れていたことを知る者は、今となってはセレナとリリア、そしてルシアンくらいのものだった。
ローゼンクロイツ家。
ラグナール家。
グランヴェル家。
三家はいずれも爵位だけを見れば侯爵家や辺境伯家に過ぎない。
しかし、その実態は並の公爵家とは比較にならない。
建国の折、王家、アウレリア家、ローゼンクロイツ家、ラグナール家、グランヴェル家――この五家は盟約を結び、以来千年以上にわたって王国を支えてきた。
ゆえに三家の権威は、単純な爵位の序列だけでは測れない。
その歴史と影響力は五大公爵家のうちアウレリア家を除く四家をも凌ぎ、王家とて無下には扱えない存在だった。
ヴィンセント自身も名家の出ではあるが、婿入り以前の家格であれば、ローゼンクロイツ侯爵と肩を並べられるような立場ではない。
ましてや、その当主本人が自らアウレリア家へ足を運んできたのだ。
ヴィンセントが動揺するのも無理はなかった。
「私はローゼンクロイツ侯爵の応対をする。お前たちは今すぐここを片付けろ!」
「かしこまりました」
ヴィンセントの命令を受け、使用人たちは一斉に頭を下げる。
散乱した衣服や装飾品を拾い上げ、無惨に転がるクローゼットをどうにかしようと慌ただしく動き始めた。
ヴィンセントはそんな使用人たちを横目に、今度はリリアを睨みつけた。
「セレナ!」
「はい、お父様」
「お前は部屋へ戻って反省していろ! 私が許すまで一歩も部屋から出すな!」
周囲の使用人へも聞かせるように命じる。
しかし、リリアは反発するどころか――。
「承知しましたわ」
にこりと微笑んだ。
あまりにも素直な返事に、ヴィンセントの方が一瞬訝しげな顔をする。
だが、リリアはすぐ近くにいたメイドへ視線を向けた。
「そこの貴方」
「は、はい?」
「大きめの袋をいくつか持ってきてちょうだい」
「……袋、ですか?」
「ええ」
リリアは当然のように頷いた。
「まだお部屋のお片付けが終わっておりませんもの」
そして、二階にあるかつての自室――今はエミリアが使っている部屋へ視線を向ける。
「今日中に全部片付けてしまわなくては」
「なっ……!」
ヴィンセントが目を剥く。
どうやらリリアにとって「部屋へ戻れ」という命令は、反省のための謹慎ではなく――。
エミリアの私物を撤去する作業へ戻れ、という意味にしか聞こえなかったらしい。
「お父様!」
リリアの言葉の意味を察したエミリアが、縋るようにヴィンセントの腕を掴んだ。
ヴィンセントは怒りに肩を震わせる。
一方、リリアから袋を持ってくるよう命じられたメイドは、どうすればいいのか分からず、ヴィンセントとリリアを交互に見比べていた。
「袋は必要ない」
ヴィンセントが低い声で命じる。
「はい」
メイドはほっとしたように胸を撫で下ろし、すぐさまヴィンセントの命令に従った。
そしてリリアへちらりと視線を向けると、蔑むように鼻で笑い、何事もなかったかのように玄関ホールの片付けへ戻っていく。
その態度を、リリアは黙って見送った。
「お父様が部屋へ戻れと仰ったではありませんか」
そして、何食わぬ顔でヴィンセントへ言う。
「あの部屋はお前の部屋ではない!」
ヴィンセントは声を荒らげた。
「私が言っているのは、今までお前が寝起きしていた奥の部屋だ! そこへ戻れ!」
しばし、二人の視線がぶつかり合う。
ヴィンセントは苛立ちを露わにリリアを睨みつける。
対するリリアは、何を考えているのか分からない無表情で父を見返していた。
先に沈黙を破ったのはリリアだった。
「……承知しましたわ」
「…………」
あまりにもあっさりとした返事に、今度はヴィンセントが拍子抜けする。
これだけの騒ぎを起こした娘が、素直に引き下がるとは思っていなかった。
だが、リリアはそれ以上何も言わない。
くるりと踵を返すと、そのまま階段を上っていく。
そして本当に、セレナが六年間暮らしてきた屋敷の奥の物置部屋へと姿を消した。
ヴィンセントはその後ろ姿をしばらく見送っていたが――。
「……待て」
ふと我に返った。
あのセレナが、こんなにも簡単に言うことを聞くはずがない。
「セレナに監視をつけろ!」
慌てて使用人たちへ命じる。
「私が許可するまで、一歩たりとも部屋から出すな!」
しかし。
使用人たちは互いに顔を見合わせるだけで、誰一人として動こうとしなかった。
「…………」
「返事はどうした!」
ヴィンセントの怒声に、使用人たちの肩が跳ねる。
それでも誰も名乗り出ない。
やがて、グレタが恐る恐る一歩前へ出た。
「……恐れながら、旦那様」
「何だ」
「セレナお嬢様が大人しくしてくださるのであれば、もちろん見張ることは可能でございます」
グレタはそこで一度言葉を切った。
無意識に、自分の手首へ視線を落とす。
そこには今も、赤黒い指の跡がくっきりと残っていた。
「ですが……」
先ほどの光景が脳裏を過る。
自分より遥かに大きなクローゼットを軽々と持ち上げ、二階から放り落とした姿。
抵抗する暇すらなく手首を掴まれ、あと少し力を込められていれば骨を折られていたであろう感覚。
「もしセレナお嬢様が本気で部屋を出ようとなさった場合……」
グレタは気まずそうに視線を逸らした。
「わたくしたちでは、お止めすることができません」
「…………」
否定する者は誰一人としていなかった。
むしろ使用人たちは一斉に目を逸らす。
誰だって、あの怪力を真正面から止める役など御免だった。
ましてや、セレナは魔法の才においても名を馳せている。
その実力は、王国一の魔法使いと名高いラグナール侯爵家当主に比肩する――そんな噂すら囁かれていた。
そして事実、セレナ自身の魔法の実力はその噂に遜色ない。
加えて、彼女は精霊王と契約を結んでいる。
その事実を知る者はごく僅かだが、精霊王の力まで含めれば、この国で彼女に敵う者などいないだろう。
「……私が付きます」
誰も名乗り出ようとしない中、一人の声が上がった。
フェリクスだった。
ヴィンセントは彼へ目を向けると、しばし考えた末に頷く。
フェリクスの実力はセレナには及ばない。
それでも学院では上位層に名を連ねるほどの実力者だ。
何より、元はセレナの専属従者。
長年傍に仕えていたこともあり、セレナもフェリクスの言葉であれば聞き入れることが少なくなかった。
ヴィンセントも、他の使用人や衛兵に任せるよりは適任だと判断した。
「そんな……!」
エミリアが声を上げた。
「フェリクスは今、わたくしの従者ですわ!」
セレナの元へ行かせたくないのか、エミリアはフェリクスの腕を両手で掴む。
「だが、今のセレナを止められるとすればフェリクスくらいのものだ」
「嫌ですわ! 衛兵をつければよろしいではありませんか!」
エミリアはフェリクスの腕を離そうとせず、首を横に振った。
まるで、自分のものを取られまいとするように。
ヴィンセントは困ったように小さく息を吐いた。
「衛兵では無理だ」
「どうしてですの?」
「今、この屋敷にいる者の中に、アウレリア家の正統な血を引くセレナを力ずくで抑えられる者はいない」
「…………」
エミリアは不服そうに唇を尖らせ、黙り込んだ。
「エミリア」
ヴィンセントは宥めるように娘へ声を掛ける。
「心配する必要はない。フェリクスは今やお前の従者だ」
そして二階へ視線を向け、忌々しげに続けた。
「セレナが返せと言ったところで、一度手放したのはあいつ自身だ。それに、当主代理である私がそんなことは絶対に許さん」
「……本当ですの?」
エミリアは涙を滲ませた瞳で父を見上げる。
「フェリクスを、お義姉様に返したりしませんわよね?」
「ああ。約束するとも」
ヴィンセントは迷いなく頷いた。
「フェリクスはお前のものだ。セレナなんぞに奪わせはしない」
「……絶対ですわよ、お父様」
「ああ」
ようやく安心したのか、エミリアは渋々フェリクスの腕を離した。
だが――。
「…………」
当のフェリクスだけは、何も言わなかった。
胸の奥に、ほんの小さな棘が刺さったような違和感が残っていた。
――フェリクスはお前のものだ。
ヴィンセントの言葉が、妙に耳に残る。
別に、エミリアに仕えることが嫌なわけではない。
彼女を守ることにも、自分なりの理由があった。
それなのに。
今の言葉だけは、何故か素直に受け入れることができなかった。
自分は、人間だ。
誰かから誰かへ譲り渡される『物』ではない。
ふと、遠い昔の記憶が脳裏を過った。
王都の片隅で盗みを働き、生き延びることだけで精一杯だった自分。
そんな自分へ、初めて手を差し伸べた少女。
――セレナ。
彼女は一度として、フェリクスを所有物のように扱ったことはなかった。
主人と従者。
確かに立場には明確な違いがあった。
それでもセレナは、彼を一人の人間として扱った。
だからこそ――。
「…………」
フェリクスは無意識に、自分の腕へ視線を落とした。
つい先ほどまでエミリアに強く掴まれていた場所。
胸に生まれた小さな違和感の正体を、この時の彼はまだ言葉にすることができなかった。




