表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
33/38

33

 リリアは手すりから僅かに身を乗り出し、一階を見下ろした。


「そこにいると危ないわよ」


 静かな忠告だった。

 その一言で、階下にいた者たちは彼女の意図を悟る。


「ま、まさか……!」


 悲鳴が上がり、使用人たちは我先にと逃げ惑った。


「セレナお嬢様! おやめください!」


 侍女長は慌てて階段を駆け上がる。

 だが、その声で思い留まるリリアではなかった。

 リリアはクローゼットの側面へ手を掛ける。

 そして、自分の背丈を遥かに超える大型のクローゼットを、まるで木箱でも持ち上げるかのように軽々と持ち上げた。

 使用人たちは息を呑む。


「う、嘘でしょう……」


 次の瞬間。

 リリアは何の躊躇もなく、それを階下へ放り落とした。


 ――ドゴォォンッ!!


 先程とは比べものにならない轟音が屋敷中に響き渡る。

 床が震え、壁に飾られた額縁までガタガタと揺れた。


「なんてことをするのです!」


 侍女長は二階へ駆け上がると、怒りのままリリアへ詰め寄り、その手を振り上げた。

 しかし。

 振り下ろされるより早く、リリアがその手首を掴む。

 びくり、と侍女長の身体が止まる。


「っ……!」


 逃れる暇すらない。


 ――バシィンッ!!


 乾いた音が廊下に響いた。

 リリアの逆の手が、容赦なく侍女長の頬を打ち抜く。

 侍女長の顔が勢いよく横へ弾かれ、その場によろめいた。


「……え?」


 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。

 侍女長は頬を押さえたまま目を見開き、その場に立ち尽くす。


「い、今……わたくしに手を――」


 ――バシィッ!!


 乾いた音が再び屋敷に響き渡った。

 リリアは振り抜いた手を返し、そのまま手の甲で反対側の頬を打ち据えたのだ。

 侍女長の顔が勢いよく反対側へ弾かれる。

 状況を理解できないまま数歩よろめき、一瞬呆然と立ち尽くした。

 だが次の瞬間、怒りに顔を歪める。


「こんなことをして、無事で済むと思っているの!?」


 噛みつくように叫ぶ。

 その声を聞いても、リリアは何も答えない。

 ただ、無言で再び右手を振り上げた。


「ひっ……!」


 侍女長は肩を跳ね上げ、反射的に目を固く閉じる。

 それでも負けじと叫んだ。


「あなたみたいな性格、誰にも愛されるはずがないわ!」


 やけになって吐き捨てた言葉だった。

 その一言で、リリアの動きが止まる。

 痛みを覚悟していた侍女長は、不思議に思い恐る恐る目を開いた。

 目の前には、底冷えするような紅い双眸。

 その視線だけで身体が凍り付くようだった。


「一つだけ正しい」


 リリアは低く呟く。


「私は上品ではない」


 一歩、侍女長との距離を詰める。


「二度と私に逆らうな」


 その声音には一切の感情がなかった。

 リリアは掴んだままの侍女長の手首へ、ゆっくりと力を込めていく。


「っ……!」


 侍女長の顔が苦痛に歪んだ。


「離っ……」

「……でなければ、わかるな?」


 抑揚のない声。

 それが何よりも恐ろしかった。


 ミシ……ミシッ。


 骨が軋むような感覚に、侍女長の額から冷や汗が流れる。

 あと少し力を込められれば、本当に折られる。

 そう本能が告げていた。

 リリアは乱暴にその手を放した。

 勢い余った侍女長はよろめき、慌てて駆け寄ったメイドたちに支えられる。

 赤く変色した手首には、リリアの五本の指の跡がくっきりと残っていた。

 それは、彼女がどれほどの力で握っていたのかを雄弁に物語っていた。


 玄関ホールに集まった使用人たちは誰一人声を上げられない。

 彼らはようやく理解した。

 目の前にいるのは、自分たちの知る心優しいセレナではない。

 逆らえば、本当に容赦なく叩き伏せる存在なのだと。


「いいこと。――この家の本当の主は私よ!」


 リリアは玄関ホールにいる使用人全員へ向け、よく通る声で言い放った。


「私は以前の私とは違う」


 一歩前へ出る。


「次期アウレリア公爵家当主、セレナ・フォン・アウレリアよ」


 凛とした声が屋敷中へ響き渡る。


「たとえお父様であろうと、何人たりとも、アウレリア家唯一の正統後継者である私を制することはできないわ」


 その宣言が終わるのとほぼ同時だった。

 玄関の扉が開く。

 帰ってきたのは、アウレリア公爵ヴィンセント。

 その隣には愛人。

 さらにエミリアとフェリクスが大量の荷物を抱えて続いていた。

 四人は談笑しながら屋敷へ足を踏み入れようとする。

 誰が見ても、仲睦まじい家族そのものだった。

 だが、その笑顔は玄関ホールの惨状を目にした瞬間、凍り付く。


「た、大変ですわ!」


 侍女長は顔を青ざめさせた。


「もう旦那様方がお帰りになる時間でしたのね……!」


 慌ててスカートの裾を摘まみ、階段を駆け下りる。

 二階へ集まっていた使用人たちも、その後を追うように一階へ降りていった。


「お帰りなさいませ、旦那様。奥様、エミリアお嬢様」


 侍女長が深々と一礼する。

 それに続き、使用人たちも左右へ整列し、一斉に頭を下げた。


「お帰りなさいませ」


 その様子を見たヴィンセントは玄関へ散乱した荷物へ視線を落とし、たちまち表情を険しくした。


「グレタ」


 低い声が響く。


「これは何だ。誰がこんなことをした」


 一歩踏み出し、鋭く問い質す。


「説明しろ」

「……セレナお嬢様の仕業でございます」


 侍女長グレタは迷うことなく言い切った。


「セレナだと?」


 ヴィンセントの眉間へ深い皺が刻まれる。


「お久しぶりですわね、お父様」


 その声に、ヴィンセントはゆっくりと顔を上げた。

 二階の階段にはリリアが立っている。

 六年ぶりの再会。

 だが、リリアの胸に込み上げるものは懐かしさではない。

 憎しみだけだった。

 それでも彼女はセレナとして微笑む。

 寮生活と入院を終え、久しぶりに帰宅した娘として。

 優雅な所作で一段、また一段と階段を降りていく。


「セレナ様……!? どうしてここに……」


 フェリクスが思わず呟いた。

 どうやら彼だけは、セレナの退院を知らされていなかったらしい。


「ちょっと、セレナ!」


 父の愛人が目を吊り上げる。


「これはどういうことなの!?」


 ヒステリックな声だった。

 だが、リリアは一瞥すらくれない。

 愛人を完全に無視し、そのままヴィンセントの前まで歩み寄る。


「本当にこれをお前がやったのか」


 ヴィンセントは、一度は生死の境を彷徨った娘を気遣う言葉一つなく、険しい表情で問い質した。


 ――娘の身を案じる言葉は、一つもなしか。


 分かりきっていたこととはいえ、リリアは心の中で冷たく笑う。


「ええ」


 リリアはにこりと微笑んだ。


「だって、私の趣味には合いませんし、邪魔でしたので」


 あまりにもあっさりとした返答だった。

 その言葉に、エミリアは弾かれたように玄関へ散乱した荷物へ目を向ける。


「……え?」


 見覚えのある装飾品や衣服。

 一瞬、思考が止まった。

 そして次の瞬間。


「こ、これ……!」


 悲鳴に近い声が玄関ホールへ響く。


「わたくしの物ですわ! どうしてこんなところに!?」

「何ですって!?」


 愛人も目を見開いた。


「そうなんです!」


 グレタが待っていましたと言わんばかりに口を開く。


「突然お戻りになったかと思えば、勝手にエミリアお嬢様のお部屋へ入り込み、室内の物をすべてここへ放り投げられたのです!」


 興奮したようにまくし立てる。


「それだけではありません!」


 グレタはリリアを睨みつけた。


「エミリアお嬢様のお荷物を『ゴミ』と仰り、散々に扱われました。そればかりか、お止めしようとした私にまで暴行を!」


 そう言うと、赤黒く変色した手首をヴィンセントへ突き出す。

 くっきりと残る五本の指の跡。

 見ようによっては、リリアが一方的に暴力を振るったようにも見えた。


「まあ……なんて酷いことを」


 愛人が口元を押さえる。


「グレタ、大丈夫ですの?」


 エミリアも心配そうに駆け寄った。


「エミリアお嬢様……」


 グレタは目尻へ涙を滲ませる。


「お嬢様は、本当にお優しい方です」


 その言葉に、周囲の使用人たちも同調するように何度も頷いていた。


 ――パァンッ!!


 乾いた音が玄関ホールに鋭く響き渡る。

 次の瞬間、正面を向いていたリリアの顔が大きく横へ弾かれた。

 白い頬に熱が走る。

 ジンジンとした痛みが遅れて伝わってきた。

 目の前では、ヴィンセントが振り抜いた右手をそのままの位置で止めていた。

 その顔には怒りがありありと浮かんでいる。


 屋敷中が静まり返った。

 誰一人、息をすることさえ忘れたようにその光景を見つめていた。


 リリアは顔を伏せたまま動かない。

 長い銀髪が頬へ流れ落ち、その表情を隠している。

 やがて、ゆっくりと顔を正面へ戻した。

 赤く染まった頬。

 しかし、その口元だけが――僅かに吊り上がっていた。

 まるで、この一撃すら待っていたと言わんばかりに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ