32
リリアはまず、真っ直ぐとある部屋へ向かった。
二階の最も奥。
日当たりも悪く、昼なお薄暗い部屋。
六年前までは物置として使われていた場所だった。
リリアは扉の前で足を止める。
ゆっくりと息を吐き、一度だけ目を閉じると、意を決してドアノブを回した。
軋む音を立てて扉が開く。
部屋の中には、辛うじて足を伸ばせるほどの小さなベッドが一つ。
そして、古びたクローゼットが一つ置かれているだけだった。
それだけで部屋の半分以上が埋まり、空気は湿り、隙間風がどこからともなく吹き込んでくる。
こんな場所で――。
セレナは六年間も暮らしていたというのか。
リリアは静かに部屋へ入り、後ろ手に扉を閉めた。
その瞬間。
これまで張り詰めていた糸が切れたように、膝から力が抜ける。
床へ崩れ落ち、両膝をついた。
冷たい床の感触が膝から伝わってくる。
部屋は静かだった。
静かすぎるほどに。
この部屋で、セレナはどれほどの夜を独りで過ごしたのだろう。
「私は……泣かないと誓った」
震える声が漏れる。
「セレナが目を覚ますまでは……奴らへ報いを受けさせるまでは……」
リリアは自分を抱き締めるように両腕を強く握り締めた。
「こんな薄暗くて……寒い場所で」
喉が詰まる。
「セレナは、ずっと一人で耐えてきたのか……」
胸が締め付けられる。
心が、引き裂かれる。
後悔が、怒りが、自分自身への憎しみが、次々と押し寄せてくる。
「ごめん……」
掠れた声が狭い部屋へ静かに響いた。
「ごめんね……」
俯いたまま、小さく首を振る。
「セレナ……貴方は私を救ってくれた」
拳を握る。
「なのに私は、セレナが苦しんでいる時も……助けを求めていた時も……何一つ気付いてあげられなかった」
歯を食いしばる。
視界は滲む。
それでも、涙だけは流さない。
あの日、セレナに誓ったのだ。
――もう泣かない、と。
だからリリアは何度も何度も目元を拭い、込み上げるものを無理やり押し殺した。
その涙を流す時は、たった一つ。
セレナが再び目を開き、自分の名を呼んでくれた、その時だけだと心に誓いながら。
気持ちが落ち着くのを待って、リリアは静かに立ち上がった。
目元と鼻先はまだ赤く染まっていたが、一度だけ小さく鼻を啜ると、いつもの冷え切った表情へ戻る。
「元の私たちの部屋は、今はエミリアが使っているとセレナの日記に書いてあったな」
日記の一節を思い返しながら呟く。
リリアは部屋を後にし、かつて自分とセレナが暮らしていた部屋へ向かった。
二階でも一際大きく立派な扉。
幼い頃、二人で何度も出入りしたその扉を、リリアは躊躇なく押し開けた。
陽光が差し込む広々とした部屋。
かつては双子のために用意された部屋だった。
しかし、その面影はどこにもない。
六年前とはすっかり様変わりしていた。
高価そうな調度品が並び、棚には宝石や装飾品が飾られている。
部屋の中央には、豪奢な天蓋付きのクイーンサイズのベッド。
成金趣味そのものだった。
リリアは遠慮なく室内へ入り、机の上にあった紙とペンを拝借すると、短く何かを書き記す。
窓を開け、人差し指と親指を口に添えた。
ピュイッ――。
澄んだ口笛が空へ響く。
数秒もしないうちに、一羽の鳥が空を切り裂くような勢いでリリアのもとへ飛来した。
差し出した腕へ優雅に舞い降りる。
「郊外にいる諜報員へ届けて」
鳥の足へ手紙を結びつけ、嘴を優しく撫でる。
鳥は気持ち良さそうに一度だけ嘴を擦り寄せると、大きく翼を広げ、空高く飛び去っていった。
「さて……」
リリアは静かに部屋を見回す。
「セレナから奪ったものは、これから一つ残らず返してもらおう」
冷え切った声音だった。
まず最初にリリアが手を掛けたのは、窓を覆う豪華なカーテンだった。
力任せに引き剥がすと、それを床へ広げる。
そして部屋中にあるエミリアの私物を、宝石箱も化粧品も衣類も構わず次々とその上へ放り投げていく。
十分な量になると、四隅を風呂敷のように結び、一つの大きな包みにした。
「よいしょ」
肩へ担ぎ上げると、ずっしりとした重みが伝わる。
リリアはそのまま部屋を出た。
二階の廊下へ出ると、一階の玄関ホールを見下ろす。
そして何の躊躇もなく、その包みを放り投げた。
ドサァンッ!!
包みは勢いよく床へ叩きつけられ、結び目がほどける。
衣服、装飾品、小物類が派手な音を立てながら玄関ホール一面へ散乱した。
静まり返っていた屋敷へ轟音が響き渡る。
何事かと複数の使用人が慌てて玄関ホールへ駆け込んできた。
その様子を二階の手すりへ両腕を預けながら見下ろし、リリアは鼻で笑う。
「なんだ。人、いるじゃん」
使用人たちは何事かと一斉に二階を見上げた。
「セレナ……様?」
一人の若いメイドが、呆然とリリアの姿を見つめながら呟く。
「セレナ様、お戻りになられていたのですね」
「これは……一体どういうことですか?」
その反応を見て、リリアはすぐに悟った。
――今日、自分が退院して戻ることは知らされていた。
それでも誰一人として出迎えには来なかった。
そして今も、帰還を喜ぶどころか、騒ぎを起こした自分を責めるような視線ばかり向けてくる。
「待って! これ、全部エミリア様のお荷物だわ!」
「な、なんてことを……!」
散乱した私物を見た使用人たちは顔色を変え、慌ただしく拾い集め始めた。
「……これをなさったのは、セレナお嬢様ですか」
静かな声だった。
口を開いたのは、一人だけ他の使用人とは装いの異なる中年の女性。
父が屋敷へ連れてきた侍女長だった。
リリアはその顔を忘れてはいない。
礼儀がなっていない。
作法が悪い。
そう言っては、侍女長という立場を越え、短鞭でリリアとセレナを何度も打った女。
その一方で、エミリアだけは猫可愛がりし、何一つ咎めることはなかった。
その記憶が蘇り、リリアの双眸がすっと細められる。
「ええ」
淡々と答える。
「そうだと言ったら?」
挑発するような声音だった。
使用人たちは一斉に息を呑む。
「これはエミリアお嬢様のお部屋の物です。今すぐ元へ戻しなさい」
侍女長は厳しく言い放った。
リリアは肩を竦める。
「戻して差し上げたでしょう?」
そして、一階へ散らばる荷物へ視線を落とした。
「ゴミはゴミ箱へ捨てなくては」
一拍置き、くすりと笑う。
「ああ、失礼。玄関はゴミ箱ではありませんでしたわね」
悪びれる様子は一切ない。
その言葉に、使用人たちは凍り付いた。
今の発言は、誰がどう聞いてもエミリアの私物を『ゴミ』と言ったに等しい。
これまで誰にでも優しく、穏やかだったセレナなら決して口にしない言葉だった。
「あなた……本当にセレナお嬢様なのですか」
侍女長は驚愕を隠せない表情で問い掛ける。
リリアは小さく首を傾げた。
「あら」
薄く笑みを浮かべる。
「お歳を召したとはいえ、もう耄碌なさったのですか?」
その笑みは少しずつ冷たさを帯びていく。
「引退を考えられた方がよろしいのではなくて?」
「なんて無礼なの!」
侍女長は目を見開き、激昂した。
その怒声を受けても、リリアの表情は一切変わらない。
「忘れたわけではないわよね」
冷え切った声が屋敷に響く。
「主人に向かって鞭を振るった者が、礼儀を語るの?」
リリアは二階から静かに侍女長を見下ろした。
その双眸には一片の情けもない。
底知れぬ威圧感。
まるで歴戦の猛者が獲物を見据えるような眼差しだった。
そこにいるのは、悪党たちが恐れ敬うアビスの支配者――『屍山の女王』。
幾百ものならず者を従えてきたリリアにとって、王都で平穏に暮らしてきた使用人たちなど、恐れるに足る相手ではなかった。
リリアはそれ以上何も言わず、踵を返して部屋の奥へと姿を消した。
「……?」
突然姿が見えなくなり、使用人たちは顔を見合わせる。
「まさか……逃げたの?」
誰かが呟くと、周囲も納得したように頷いた。
「自分でこんなことをしておいて逃げるなんて……」
「旦那様があれだけ厳しくなさるのも納得だわ」
ひそひそと囁き声が広がる。
「セレナお嬢様!」
侍女長が二階へ向かって怒鳴った。
「出てきなさい! 逃げても無駄ですよ!」
その直後だった。
ズズズズ……。
二階から、何か重いものを引きずる音が響き始める。
「……え?」
使用人たちが一斉に見上げた。
そして次の瞬間。
リリアが、扉いっぱいの大きさはあろうかというクローゼットを一人で引きずって現れた。
「ちょっ……! 何をするつもりですか!?」
侍女長が思わず声を上げる。
「ふぅ……」
リリアは額の汗を軽く拭いながら、何事もないように呟く。
「流石に、この大きさは少し重いわね」
その一言に、使用人たちは呆然と立ち尽くした。
自分の身長を優に超える大型のクローゼットを、一人で運んでおきながら。
「少し重い」。
その程度で済ませる令嬢など、この世のどこにいるというのか。




