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 リリアはまず、真っ直ぐとある部屋へ向かった。

 二階の最も奥。

 日当たりも悪く、昼なお薄暗い部屋。

 六年前までは物置として使われていた場所だった。

 リリアは扉の前で足を止める。

 ゆっくりと息を吐き、一度だけ目を閉じると、意を決してドアノブを回した。

 軋む音を立てて扉が開く。


 部屋の中には、辛うじて足を伸ばせるほどの小さなベッドが一つ。

 そして、古びたクローゼットが一つ置かれているだけだった。

 それだけで部屋の半分以上が埋まり、空気は湿り、隙間風がどこからともなく吹き込んでくる。

 こんな場所で――。

 セレナは六年間も暮らしていたというのか。


 リリアは静かに部屋へ入り、後ろ手に扉を閉めた。

 その瞬間。

 これまで張り詰めていた糸が切れたように、膝から力が抜ける。

 床へ崩れ落ち、両膝をついた。

 冷たい床の感触が膝から伝わってくる。

 部屋は静かだった。

 静かすぎるほどに。

 この部屋で、セレナはどれほどの夜を独りで過ごしたのだろう。


「私は……泣かないと誓った」


 震える声が漏れる。


「セレナが目を覚ますまでは……奴らへ報いを受けさせるまでは……」


 リリアは自分を抱き締めるように両腕を強く握り締めた。


「こんな薄暗くて……寒い場所で」


 喉が詰まる。


「セレナは、ずっと一人で耐えてきたのか……」


 胸が締め付けられる。

 心が、引き裂かれる。

 後悔が、怒りが、自分自身への憎しみが、次々と押し寄せてくる。


「ごめん……」


 掠れた声が狭い部屋へ静かに響いた。


「ごめんね……」


 俯いたまま、小さく首を振る。


「セレナ……貴方は私を救ってくれた」


 拳を握る。


「なのに私は、セレナが苦しんでいる時も……助けを求めていた時も……何一つ気付いてあげられなかった」


 歯を食いしばる。

 視界は滲む。

 それでも、涙だけは流さない。

 あの日、セレナに誓ったのだ。

 ――もう泣かない、と。

 だからリリアは何度も何度も目元を拭い、込み上げるものを無理やり押し殺した。

 その涙を流す時は、たった一つ。

 セレナが再び目を開き、自分の名を呼んでくれた、その時だけだと心に誓いながら。


 気持ちが落ち着くのを待って、リリアは静かに立ち上がった。

 目元と鼻先はまだ赤く染まっていたが、一度だけ小さく鼻を啜ると、いつもの冷え切った表情へ戻る。


「元の私たちの部屋は、今はエミリアが使っているとセレナの日記に書いてあったな」


 日記の一節を思い返しながら呟く。

 リリアは部屋を後にし、かつて自分とセレナが暮らしていた部屋へ向かった。

 二階でも一際大きく立派な扉。

 幼い頃、二人で何度も出入りしたその扉を、リリアは躊躇なく押し開けた。

 陽光が差し込む広々とした部屋。

 かつては双子のために用意された部屋だった。

 しかし、その面影はどこにもない。

 六年前とはすっかり様変わりしていた。


 高価そうな調度品が並び、棚には宝石や装飾品が飾られている。

 部屋の中央には、豪奢な天蓋付きのクイーンサイズのベッド。

 成金趣味そのものだった。

 リリアは遠慮なく室内へ入り、机の上にあった紙とペンを拝借すると、短く何かを書き記す。

 窓を開け、人差し指と親指を口に添えた。


 ピュイッ――。


 澄んだ口笛が空へ響く。

 数秒もしないうちに、一羽の鳥が空を切り裂くような勢いでリリアのもとへ飛来した。

 差し出した腕へ優雅に舞い降りる。


「郊外にいる諜報員へ届けて」


 鳥の足へ手紙を結びつけ、嘴を優しく撫でる。

 鳥は気持ち良さそうに一度だけ嘴を擦り寄せると、大きく翼を広げ、空高く飛び去っていった。


「さて……」


 リリアは静かに部屋を見回す。


「セレナから奪ったものは、これから一つ残らず返してもらおう」


 冷え切った声音だった。

 まず最初にリリアが手を掛けたのは、窓を覆う豪華なカーテンだった。

 力任せに引き剥がすと、それを床へ広げる。

 そして部屋中にあるエミリアの私物を、宝石箱も化粧品も衣類も構わず次々とその上へ放り投げていく。

 十分な量になると、四隅を風呂敷のように結び、一つの大きな包みにした。


「よいしょ」


 肩へ担ぎ上げると、ずっしりとした重みが伝わる。

 リリアはそのまま部屋を出た。

 二階の廊下へ出ると、一階の玄関ホールを見下ろす。

 そして何の躊躇もなく、その包みを放り投げた。


 ドサァンッ!!


 包みは勢いよく床へ叩きつけられ、結び目がほどける。

 衣服、装飾品、小物類が派手な音を立てながら玄関ホール一面へ散乱した。

 静まり返っていた屋敷へ轟音が響き渡る。


 何事かと複数の使用人が慌てて玄関ホールへ駆け込んできた。

 その様子を二階の手すりへ両腕を預けながら見下ろし、リリアは鼻で笑う。


「なんだ。人、いるじゃん」


 使用人たちは何事かと一斉に二階を見上げた。


「セレナ……様?」


 一人の若いメイドが、呆然とリリアの姿を見つめながら呟く。


「セレナ様、お戻りになられていたのですね」

「これは……一体どういうことですか?」


 その反応を見て、リリアはすぐに悟った。


 ――今日、自分が退院して戻ることは知らされていた。


 それでも誰一人として出迎えには来なかった。

 そして今も、帰還を喜ぶどころか、騒ぎを起こした自分を責めるような視線ばかり向けてくる。


「待って! これ、全部エミリア様のお荷物だわ!」

「な、なんてことを……!」


 散乱した私物を見た使用人たちは顔色を変え、慌ただしく拾い集め始めた。


「……これをなさったのは、セレナお嬢様ですか」


 静かな声だった。

 口を開いたのは、一人だけ他の使用人とは装いの異なる中年の女性。

 父が屋敷へ連れてきた侍女長だった。

 リリアはその顔を忘れてはいない。


 礼儀がなっていない。

 作法が悪い。

 そう言っては、侍女長という立場を越え、短鞭でリリアとセレナを何度も打った女。

 その一方で、エミリアだけは猫可愛がりし、何一つ咎めることはなかった。

 その記憶が蘇り、リリアの双眸がすっと細められる。


「ええ」


 淡々と答える。


「そうだと言ったら?」


 挑発するような声音だった。

 使用人たちは一斉に息を呑む。


「これはエミリアお嬢様のお部屋の物です。今すぐ元へ戻しなさい」


 侍女長は厳しく言い放った。

 リリアは肩を竦める。


「戻して差し上げたでしょう?」


 そして、一階へ散らばる荷物へ視線を落とした。


「ゴミはゴミ箱へ捨てなくては」


 一拍置き、くすりと笑う。


「ああ、失礼。玄関はゴミ箱ではありませんでしたわね」


 悪びれる様子は一切ない。

 その言葉に、使用人たちは凍り付いた。

 今の発言は、誰がどう聞いてもエミリアの私物を『ゴミ』と言ったに等しい。

 これまで誰にでも優しく、穏やかだったセレナなら決して口にしない言葉だった。


「あなた……本当にセレナお嬢様なのですか」


 侍女長は驚愕を隠せない表情で問い掛ける。

 リリアは小さく首を傾げた。


「あら」


 薄く笑みを浮かべる。


「お歳を召したとはいえ、もう耄碌なさったのですか?」


 その笑みは少しずつ冷たさを帯びていく。


「引退を考えられた方がよろしいのではなくて?」

「なんて無礼なの!」


 侍女長は目を見開き、激昂した。

 その怒声を受けても、リリアの表情は一切変わらない。


「忘れたわけではないわよね」


 冷え切った声が屋敷に響く。


「主人に向かって鞭を振るった者が、礼儀を語るの?」


 リリアは二階から静かに侍女長を見下ろした。

 その双眸には一片の情けもない。

 底知れぬ威圧感。

 まるで歴戦の猛者が獲物を見据えるような眼差しだった。

 そこにいるのは、悪党たちが恐れ敬うアビスの支配者――『屍山の女王』。

 幾百ものならず者を従えてきたリリアにとって、王都で平穏に暮らしてきた使用人たちなど、恐れるに足る相手ではなかった。


 リリアはそれ以上何も言わず、踵を返して部屋の奥へと姿を消した。


「……?」


 突然姿が見えなくなり、使用人たちは顔を見合わせる。


「まさか……逃げたの?」


 誰かが呟くと、周囲も納得したように頷いた。


「自分でこんなことをしておいて逃げるなんて……」

「旦那様があれだけ厳しくなさるのも納得だわ」


 ひそひそと囁き声が広がる。


「セレナお嬢様!」


 侍女長が二階へ向かって怒鳴った。


「出てきなさい! 逃げても無駄ですよ!」


 その直後だった。


 ズズズズ……。


 二階から、何か重いものを引きずる音が響き始める。


「……え?」


 使用人たちが一斉に見上げた。

 そして次の瞬間。

 リリアが、扉いっぱいの大きさはあろうかというクローゼットを一人で引きずって現れた。


「ちょっ……! 何をするつもりですか!?」


 侍女長が思わず声を上げる。


「ふぅ……」


 リリアは額の汗を軽く拭いながら、何事もないように呟く。


「流石に、この大きさは少し重いわね」


 その一言に、使用人たちは呆然と立ち尽くした。

 自分の身長を優に超える大型のクローゼットを、一人で運んでおきながら。


 「少し重い」。


 その程度で済ませる令嬢など、この世のどこにいるというのか。

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