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セレナが誰にも打ち明けられず、心の底から願っていたもの。
それは、平穏と自由。
そして、愛する者たちの傍で穏やかに笑って生きること。
あまりにも、ありふれた幸せだった。
だが、セレナを取り巻く環境は、そのささやかな願いすら許さなかった。
セレナはこれまで、誰に対しても手を差し伸べ続けてきた。
それなのに――彼女が助けを求めた時、その手を握り返してくれる者は誰一人としていなかった。
「セレナ。君の我儘で私を困らせないでくれ」
アルフレッドは諭すように口を開く。
「エミリアのことで怒っているのなら、しばらく彼女とは距離を置こう」
まるで、それで全て解決するとでも言うように。
「だが、エミリアは君の妹だ。心優しい良い子なんだ。君は彼女を誤解して――」
「……黙って」
静かな一言だった。
リリアは片手をゆっくりと上げ、アルフレッドの言葉を遮る。
そして、そっと目を閉じた。
セレナの病室で過ごした数日間。
精霊たちから、そして精霊王から、リリアはセレナの歩んできた日々を全て聞いた。
リリアが屋敷を去った後も。
六年という歳月が流れても。
セレナの中で一番大切な存在は、ずっとリリアのままだった。
寂しさに耐え切れなくなる度、セレナは精霊たちへ話しかけていたという。
『リリアがいたら、きっとこう言ってくれるわ』
『リリアなら、どうしたかしら』
『今頃、元気にしているかしら』
そんな叶うことのない空想を繰り返し、自分の心を支え続けていた。
その話を聞いた時。
まるで心を刃で何度も切り裂かれるような痛みが胸を貫いた。
セレナがそんな思いを抱えながら、一人で耐え続けていた。
その事実が、リリアの胸を容赦なく抉る。
(私が……傍にいれば)
(私が、あの時セレナを置いて行かなければ)
後悔が波のように押し寄せ、自分自身への怒りと憎しみが込み上げる。
それでも、リリアは涙だけは流さなかった。
リリアはゆっくりと目を開き、目の前の男を見据えた。
セレナが一度は心を許し、信じた相手。
だが――彼女の心を粉々に砕いたのも、またこの男だった。
「殿下は随分とのんきなお考えをお持ちなのですね」
一拍置く。
「……本当に、可愛らしいこと」
蔑みを隠そうともしない眼差しが、アルフレッドを射抜いた。
「私、王妃の座など欲しくありませんの」
淡々と、まるで価値のないものを語るように続ける。
「喜んでエミリアへお譲りいたしますわ」
そして最後に、にこりと微笑んだ。
「殿下の末永いご多幸を、心よりお祈り申し上げます」
それだけ告げると、リリアは迷いなく立ち上がり、開け放たれた馬車の扉から外へ降りた。
そのまま御者へ顔を向ける。
「殿下はお帰りよ。お城までお送りして差し上げて」
「待っ――」
アルフレッドが慌てて手を伸ばす。
だが、その声が最後まで紡がれることはなかった。
バタンッ。
馬車の扉が閉まる。
外で控えていたルシアンが、即座に魔法で施錠したのだ。
「……では、出します」
御者はリリアへ一礼すると、迷うことなく手綱を引いた。
馬車はゆっくりと動き出し、そのままアルフレッドを乗せて王城へ向かって走り去っていった。
「王城へ着くまで開かないよう魔法をかけておいた」
ルシアンはどこか得意げに胸を張った。
「それにしても、『末永いご多幸をお祈り申し上げます』だなんて……心にもないことをよく言えたものだ」
遠ざかっていく馬車を見送りながら、ルシアンは苦笑する。
「あら、本心よ」
リリアは平然と言ってのけた。
「エミリアと末永く幸せに暮らしてくだされば、それで結構ですわ。愚か者と外道なんて、お似合いではありませんか」
口調こそ穏やかだったが、その表情に笑みは一切ない。
その双眸に宿るのは、獲物を狩る寸前の獣のような、冷たく容赦のない光だった。
「さて」
ノアが辺りを見回す。
「馬車は行ってしまったけど、これからどうするんだい?」
一拍置いて続ける。
「病院へ頼んでもう一泊させてもらうか、それとも魔法局も近いし、セレナ嬢のところへ戻るかい?」
リリアは静かに首を横へ振った。
「いいえ」
その瞳に迷いはなかった。
「家へ帰るわ」
そして、小さく呟く。
「家の大掃除をしなくちゃ」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
リリアはゆっくりとノアへ視線を向ける。
「馬を一頭用意して頂戴。それなら、すぐに出られるでしょう」
◇
リリアは馬に跨り、一人駆けた。
六年という歳月が流れようと、身体は屋敷までの道を忘れてはいない。
病院でノアとルシアンと別れたリリアは、たった一人で六年ぶりの我が家――アウレリア公爵家へと帰ってきた。
門の前には二人の門番が立っている。
リリアは速度を緩めることなく、そのまま馬を進めた。
「止まれ!」
門番が制止の声を張り上げる。
しかし、馬上の人物の顔を認めた途端、その表情は一変した。
「これは、セレナお嬢様。お帰りなさいませ」
二人は慌てて頭を下げる。
リリアは返事をすることもなく、その視線を門の先へ向けた。
玄関へ続く石畳。
本来なら主人の帰還を迎える使用人が整列していてもおかしくない。
だが、そこには誰一人として待つ者はいなかった。
リリアは静かに馬を降りると、手綱を門番へ預けた。
屋敷の外観は六年前と何一つ変わっていない。
それなのに、胸に湧き上がるのは懐かしさではなく、得体の知れない違和感だった。
石畳を一歩一歩踏みしめるように歩き、玄関の扉を押し開いた。
吹き抜けの広い玄関ホール。
頭上には大きなシャンデリアが静かに輝いていた。
「アウレリア家の正統な血を引く者が帰ってきたというのに、誰一人出迎えないとは……」
小さく零れた呟きが、静まり返った屋敷へ虚しく響く。
アウレリア公爵には今日がセレナの退院日であることは伝わっているはずだ。
それにもかかわらず、玄関には使用人一人姿を見せない。
リリアは自嘲するように小さく笑った。
――当然か。
母が亡くなり、叔父が国外へ旅立った後。
屋敷を任された父は、当主代理という立場を利用し、長年アウレリア家へ仕えてきた使用人たちを次々と不当に解雇した。
そして、自らが領地経営をしていた頃に従えていた者たちへと総入れ替えしたのだ。
その結果、セレナは広い屋敷の中で、たった一人取り残された。
唯一傍に残ったのは、セレナの専属従者だったフェリクスだけ。
だが、その最後の拠り所ですら、いつしか彼女をより深い孤独へ追いやる存在となってしまった。
「随分と悪趣味な屋敷になったな」
リリアは屋敷の奥へ足を進めながら、冷ややかな視線で周囲を見渡した。
以前はなかった、趣味の悪いほど豪奢な調度品。
必要以上に華美な装飾。
かつてのアウレリア家にはなかった成金趣味が、至る所に見て取れる。
そして、玄関正面の大階段へ視線を移した瞬間、リリアの足が止まった。
そこは本来、アウレリア家の紋章が掲げられていた場所だった。
しかし今、その誇り高き紋章は跡形もなく取り払われている。
代わりに飾られていたのは――
アウレリア公爵、愛人、そしてエミリア。
三人の肖像画だった。
まるで、この屋敷の主人は自分たちなのだと誇示するかのように。




