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 リリアが病院へ移ってから退院するまでの一週間――。

 その間、彼女は毎日みっちりと勉強を叩き込まれた。

 集中力が切れては逃げ出そうとするリリアを、ノアはまるで彼女の思考を読んでいるかのように、ことごとく引き留める。


 ある時は、


「宰相家の息子に首席を奪われてもいいのかい?」


 と挑発し、

 またある時は、


「アウレリア家の血を引いていて、その程度で諦めるなんてことはないよね?」


 と発破をかける。

 リリアの負けず嫌いな性格を誰よりも理解しているからこそ、そのやる気のツボを的確に突いてくるのだ。


「ようやく……終わったーー!!」


 退院の日。

 長きにわたる勉強漬けの日々から解放されると、リリアは両拳を天へ突き上げ、心の底から歓声を上げた。

 セレナを演じるため、お見舞いに訪れる者たち一人ひとりに笑顔で応じ、面会時間が終われば休む間もなく勉強。

 そんな生活が一週間続いたのだ。

 この過酷な日々を乗り越えた自分を、今だけは全力で褒めてやりたい。


「何言ってるの?」


 ノアは勉強道具を片付けながら、にこりと微笑んだ。


「まだ一年生の半分の範囲しか終わってないんだよ?」


 その一言に、リリアの顔が引きつる。


「新学期まであと三日。それから三か月後には中間試験、その翌月には期末試験もある」


 ノアは淡々と続けた。


「今の調子じゃ、学年首席なんてまだまだ遠い夢かな」


 容赦ない宣告だった。

 リリアはげっそりとした表情でノアを睨みつける。


「鬼! 悪魔! 冷血漢!」

「それ、全部君が普段言われてることだって分かってる?」


 ノアは涼しい顔で言い返した。

 普段、その言葉を浴びせられているのはリリアの方だ。

 もしアビスの者たちが今の彼女を見れば、驚きのあまり腰を抜かすだろう。

 ぶつぶつと文句を垂れるその姿は、“屍山の女王”ではなく、ごく年相応の少女そのものだった。


 そんなリリアを見て、ノアは背を向けたまま小さく笑みを零す。

 そして振り返る頃には、いつもの真意の読めない穏やかな笑みへと戻っていた。


「とはいえ、この一週間は本当によく頑張ったね」


 ぽん、とリリアの頭に手を置く。


「帰省している三日間だけは勉強を休みにしよう」


 その言葉に、リリアの表情がぱっと明るくなる。

 だが、すぐに眉をひそめた。


「三日間だけ……?」


 嫌な予感しかしない。

 じっとノアを見上げた、その時だった。

 コンコン、と扉が叩かれる。


「おい、リリア! 迎えが来たぞ!」


 呼びに来たのはルシアンだった。


「さあ、準備しようか」


 ノアは何事もなかったように笑う。

 うまく話を逸らされた気もしたが、学院へ戻れば勉強漬けになるのは避けられない。

 リリアはそう自分に言い聞かせることにした。


 リリアたちは病院の前に停められた馬車へと向かった。


「私とルシアン皇子は後からアウレリア公爵家へ向かう予定だけど、一人で大丈夫かい?」


 ノアが少し心配そうに尋ねる。


「大丈夫ですわ。自分の家へ帰るだけですもの。心配には及びませんわ」


 往来ということもあり、リリアはセレナらしい笑みを浮かべて答えた。


「帰ったら、くれぐれも安静にするんだぞ」


 ルシアンが念を押す。

 もっとも、その”安静”とは、屋敷で暴れないようにという意味であることは誰の目にも明らかだった。


「ええ。分かっていますわ」


 にこり。

 ――いや、どちらかと言えばニヤリ、だった。

 その笑みを見たノアとルシアンは、不安しか覚えない。


「やっぱり私も付き添っ――」


 ノアが言い終える前に、リリアはさっさと馬車へ向かった。

 御者が扉を開く。

 リリアは片足を掛け、そのまま中へ乗り込もうとし――


 ぴたり、と動きを止めた。

 数秒、中を見つめる。

 そして何事もなかったかのように扉を閉めた。


 バタン。


「……どうした?」


 ルシアンが首を傾げる。

 リリアはゆっくり振り返り、ノアとルシアンを見た。


「……なんかいた」


 小さく呟く。

 二人は顔を見合わせた。


「なんかって……」


 ルシアンが眉をひそめながら馬車へ近付く。

 その時だった。

 勢いよく扉が内側から開く。


「何故閉める!!」


 怒声と共に姿を現したのは、アルフレッドだった。


「乗る馬車を間違えましたわ。チェンジで」


 リリアは御者へ向かって真顔で告げた。

 御者は「どうすればいいのだろう」と困惑したようにリリアとアルフレッドを交互に見比べる。


「セレナ嬢、落ち着いて」


 ノアが苦笑しながら宥めた。


「どうしてアルフレッド王子がセレナの迎えの馬車に乗っておられるのですか」


 ルシアンは鋭い視線をアルフレッドへ向ける。

 その問いに、アルフレッドは悪びれる様子もなく答えた。


「セレナと二人きりで話がしたい」


 当然の権利だと言わんばかりの口調だった。


「貴方とセレナは婚約を解消したばかりです」


 ルシアンの声が一段低くなる。


「その状況で供も付けず二人きりになろうとするなど、あまりにも軽率ではありませんか」


 婚約を解消した男女が密会すれば、周囲は好き勝手な噂を立てる。

 傷付くのはセレナの名誉だ。


「本当にセレナと話したいのであれば、正式な場を設け、第三者を同席させるべきでしょう」


 ルシアンは真っ直ぐアルフレッドを見据えた。


「貴様……」


 アルフレッドは不快そうに眉をひそめる。


「いくら昔馴染みとはいえ、誰に向かって口を利いている」


 王族としての威圧を滲ませる。

 もっとも、アルフレッドはまだ知らない。

 目の前の青年が、ヴァルハイン帝国の第八皇子であることを。

 彼の認識は、幼い頃アウレリア家へ身を寄せていた客人のままだった。


「そういえば、まだ正体を明かしていなかったな。俺は――むぐっ」


 名乗ろうとした瞬間だった。

 ノアが横から素早く手を伸ばし、ルシアンの口を塞いだ。


「んむっ!?」


 ルシアンは「何をする!」と言いたげにノアを睨む。

 ノアはそのまま顔を寄せ、小声で囁いた。


「ルシアン皇子。まだ陛下に謁見も済ませていません」


 一拍置いて続ける。


「ここで正体を明かしたら、正式な手続きを踏まずに入国したことまで知られてしまいますよ」


 その一言で、ルシアンははっと目を見開く。


「……あ」


 ようやく事の重大さに気付いたのか、大人しく口を閉じた。

 リリアは彼らの様子に小さく息を吐くと、アルフレッドの前へ歩み出た。


「殿下。お話でしたら、後日改めてお時間を設けてはいかがでしょうか。その際は、国王陛下にもご同席いただいた上でお会いいたします」


 公爵令嬢らしい落ち着いた物腰で申し出る。


「駄目だ!」


 しかし、アルフレッドは即座に首を横に振った。

 リリアは僅かに目を見開く。


 ――そこまでして、セレナと二人きりで話したい理由は何なのか。

 自らセレナを傷つけ、切り捨てたというのに。

 今さら、何を語るつもりなのか。


「……今、この場で少しだけで構わない」


 その声には、どこか焦りが滲んでいた。

 リリアは静かに息を吐く。


「……分かりました」


 一度だけ頷くと、淡々と条件を告げた。


「ですが、二人きりはお断りいたします」


 そう言って周囲へ視線を巡らせる。


「馬車の扉は開けたままにします。ノア様とルシアン様にも立ち会っていただきます」


 そしてアルフレッドを真っ直ぐ見据えた。


「それでもよろしいのでしたら、数分だけお時間を差し上げます」


 アルフレッドはしばらく考え込んだ末、渋々と頷いた。


「……分かった」

「では、ここは人の往来の妨げになりますので、少し場所を移しましょう」


 病院の正面に停められていた馬車を邪魔にならない場所へ移動させると、扉を開けたままリリアとアルフレッドが乗り込んだ。

 リリアの正面にはアルフレッドが座る。

 馬車のすぐ外には、いつでも割って入れるようルシアンとノアが控えていた。


「それで、ご用件は何でしょうか」


 リリアは感情を映さない冷たい眼差しをアルフレッドへ向ける。

 アルフレッドは彼女を真っ直ぐ見つめ返した。


「セレナが怒っている理由は分かっている」


 真剣な声音だった。


「創立記念大舞踏会で、私がエミリアと入場し、同じ色の衣装を着て、一曲目を踊った。それで怒って婚約解消を口にしたのだろう?」


 ――何を言い出すのかと思えば。


 わざわざ二人きりで話したいと言うから、どれほど重要な話かと思っていた。

 だが、口を開けば終わった話を蒸し返しただけ。

 あまりの見当違いな言葉に、リリアは呆れを通り越して言葉を失った。


「君はエミリアに嫉妬しているのだろう。だが、心配する必要はない」


 アルフレッドは当然のように続ける。


「王妃に据えるのは、今も昔もセレナだけだ」


 リリアは思わず天を仰ぎたくなった。


 ――この男は、本当に何も分かっていない。


 これほどまでに話が通じない人間がいるのか。

 まだアビスの住人の方が、一度痛い目を見れば相手に逆らってはいけないと学習するだけ幾分ましだった。


「殿下」


 リリアはにこりと微笑む。


「この私が、嫉妬するとお思いですか?」


 一拍置き、柔らかい笑みのまま続けた。


「それとも、料理でもしろという意味でしょうか。生憎ですが、私は焼くより煮る方が好みですの」


 穏やかな口調とは裏腹に、その胸の内では腸が煮えくり返っていた。

 どこまでセレナを侮辱すれば気が済むのか。

 エミリアを優先し、好き放題甘やかしておきながら、セレナには「王妃の座」を与えると言う。

 それは褒美ではない。

 王妃という名の檻にセレナを閉じ込め、自由を奪い、自分は好き勝手に振る舞うと言っているようなものだった。

 そんな身勝手な考えを、リリアは到底受け入れることなどできなかった。

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