26
エミリアは室内を覗いた瞬間、目に涙を浮かべた。
「お義姉様……ご無事で良かったですわ。わたくし……とても心配で……お義姉様ッ!」
今にも抱きつかんばかりの勢いで、エミリアがリリアの元へ駆け寄ろうとした――その時だった。
「入らないで」
静かでありながら、有無を言わせぬ一言。
エミリアの足がぴたりと止まる。
「えっ……」
一瞬だけ驚きに目を見開いたエミリアだったが、すぐに寂しげな表情へと変わった。
「あっ……そ、そうですよね。わたくしの顔なんて見たくありませんよね。でも、わたくし、本当に心配で心配で……夜も眠れませんでしたの」
そう言って、しくしくと涙を零す。
しかし、リリアはその涙に微塵も動じることなく、淡々と口を開いた。
「先客がいるの。迷惑だから、泣くのなら外で泣いて、泣き止んでから来てくれるかしら」
予想もしなかった返答に、エミリアは言葉を失う。
アルフレッドたちもまた、目の前の光景を理解できず、ただ扉の前に立ち尽くしていた。
これまでのセレナであれば、どれほど傷付いていても、涙を流すエミリアを気遣い、自ら慰める言葉を掛けていただろう。
だが、今目の前にいるセレナは違う。
声も姿も変わらない。にもかかわらず、まるで別人と対峙しているような違和感がその場を支配していた。
「あの……セレナ様、大変申し訳ございません」
恐る恐る口を開いたのは、この病院に勤める従業員だった。
公爵令嬢であるセレナへの面会を止め切れなかった責任を問われるのではないかと、顔色を青くしている。
「貴方に非は無いわ。殿下たちを案内してくれてありがとう。もう下がっていいわよ」
リリアは従業員へ穏やかに微笑んだ。
セレナと瓜二つの容姿だからこそ、その微笑みは誰の目にも自然に映る。
従業員は頬を赤らめると、深々と頭を下げ、足早に部屋を後にした。
その様子を見届けたノアとルシアンは、それぞれ異なる反応を見せる。
ノアは、リリアが上手く従業員を安心させたことに満足そうな笑みを浮かべる。
一方のルシアンは、滅多に見ることのないリリアの微笑みに、思わず頬を引きつらせていた。
――正直、かなり気味が悪い。
従業員の姿が廊下の向こうへ消えた、その瞬間だった。
リリアの微笑みは跡形もなく消え失せる。
そこにあったのは、氷のように冷え切った眼差しと、一切の感情を映さない無表情。
先ほどまでとはまるで別人だった。
アルフレッドたちは思わず息を呑む。
これまで知るセレナなら、決して見せることのない表情。
その瞳には、ほんの僅かな温もりさえ宿っていなかった。
そんな彼らを見据え、リリアは静かに口を開く。
「いつまでそこに棒立ちされるおつもりですか? 私の様子を見に来られたのなら御用は済みましたわよね。殿下たちもお忙しい身、どうぞお気を付けてお帰りください」
その物腰はどこまでも上品で、公爵令嬢らしい気品に満ちている。
普段は誰が相手であろうと忌憚なく物を言うリリアが、完璧なお嬢様言葉で応対していることに、ルシアンとノアは内心で感心していた。
――もっとも、その言葉の内容は、相手を丁重に追い返しているだけなのだが。
「お前……本当にセレナか?」
思わず漏れたその一言に、一番驚いたのはアルフレッド自身だった。
無意識に口元を押さえ、自らの失言に目を見開く。
(何を言っているんだ、私は……!?)
何処からどう見ても、目の前にいるのはセレナだ。
その容姿も、声も、仕草も何一つ変わっていない。
それなのに、纏う空気が、眼差しが、話し方が――自分の知るセレナとはまるで違っていた。
その違和感は、アルフレッド一人のものではない。
この場にいる誰もが同じ感覚を抱いていたからこそ、彼の言葉を咎める者はいなかった。
そんな彼らを見て、リリアは小さく息を漏らした。
それは笑顔ではない。
耐え切れず零れた、小馬鹿にするような嘲笑だった。
「殿下はおかしなことを仰る。幼馴染の顔もお忘れですか」
口元へ軽く手を添え、さらりと銀髪を揺らしながら首を傾げる。
その何気ない仕草だけで、場の空気が揺らいだ。
これまでのセレナにはなかった、妖しく人を惹きつける気配。
気高く、美しく、それでいて近寄り難い。
五人は思わず目を見開き、無意識のうちに息を呑んでいた。
「お義姉様! 殿下たちは心配してお見舞いに来てくださったのに、その態度はあんまりですわ」
アルフレッド、レオンハルト、フェリクス、ユリウス、カイン――五人の視線がリリアへ釘付けになっていることが面白くなかったのだろう。
エミリアは慌てて五人の前へ進み出ると、庇うように両手を広げて声を張り上げた。
リリアが口を開こうとした、その時。
肩へ、そっと一つの手が添えられる。
ルシアンだった。
リリアへ「任せて」とでも言うように軽く微笑むと、静かに椅子から立ち上がり、出入口に立つ一同へ視線を向けた。
「セレナはまだ回復したばかりだ。騒ぎ立てるのなら、お帰り願おう」
ルシアンの介入で、ようやく我に返ったアルフレッドたちは、自分たちより先に病室へいたルシアンとノアへ視線を向けた。
「貴様は……誰だ。私に帰れと言ったのか」
アルフレッドはアルヴェリア王国第一王子。
この国で、彼に面と向かって意見できる者など数えるほどしかいない。
その彼に対し、見舞いもそこそこに「帰れ」と言い放ったのだ。不快感を露わにするのも無理はなかった。
「お久しぶりですね、アルフレッド殿下……いや、アルフレッド王子」
ルシアンは穏やかな笑みを浮かべながら、一礼する。
「セレナのことさえお忘れになっていたようですし、俺のことなど、とっくに記憶の彼方でしょう」
その口調は丁寧でありながら、隠す気もない皮肉が滲んでいた。
アルフレッドは眉をひそめる。
どこかで見覚えのある顔。
聞き覚えのある声。
しかし、記憶を辿っても名が浮かばない。
そんなアルフレッドを意にも介さず、ルシアンは今度はレオンハルトへ視線を向けた。
「レオンハルトも久しぶりだね。十年……いや、十一年ぶりくらいかな」
レオンハルトもまた訝しげにルシアンを見つめ、記憶を探る。
――十一年ぶり。
その一言が、二人の胸に眠っていた記憶を呼び覚ました。
「……ルシアンなのか」
アルフレッドが半信半疑で名を口にする。
ルシアンは嬉しそうに目を細めた。
「思い出してくれて嬉しいな」
柔らかな笑み。
だが、その笑顔の奥にある本心を読み取ることはできない。
どこか胡散臭く、それでいて底知れない。
「アル様、レオン様。彼はどなたですか? よろしければ、わたくしにもご紹介してくださいませ」
エミリアは頬をほんのりと染めながら、アルフレッドとレオンハルトへ問い掛けた。
ルシアンの笑みに見惚れたのだ。
それも無理はない。
何も知らない者が彼の笑みを真正面から受ければ、多くはその魅力に心を奪われる。
皇族として生まれ育ち、人を惹きつける立ち居振る舞いも、微笑み一つさえも、幼い頃から叩き込まれてきたのだから。
「彼は五歳頃までアウレリア家で暮らしていた客人だ。セレナたちと共に育った乳兄弟でもある。知り合って一年ほどでアウレリア家を出たから、私も彼のことを詳しく知っているわけではない」
アルフレッドは眉間に皺を寄せたまま続ける。
「ただ、セレナにべったりで、どこへ行くにも彼女の後ばかりついて回っていたことだけは覚えている」
「俺も殿下と同じだ。それくらいしか記憶にない」
レオンハルトも小さく頷いた。
「二人とも覚えていてくれて嬉しいよ」
ルシアンは柔らかく微笑む。
だが、その笑みはすぐに意味深なものへと変わった。
「そして、アルフレッド王子。君にはもう一つ、礼を言わなくちゃいけない」
その一言に、アルフレッドの眉間の皺がさらに深く刻まれる。
「ラグナール侯爵から聞いたよ。君とセレナの婚約は解消され、白紙になったそうだね」
一拍置き、ルシアンは穏やかな笑みを崩さないまま言い放つ。
「俺は将来、セレナを妻に迎えるためにヴァルハイン帝国から戻って来た」
その場の空気が、一瞬にして凍り付いた。
アルフレッドとレオンハルトは目を見開き、言葉を失った。




