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 リリアは病室の椅子に腰掛けたまま、静かに日記帳を閉じた。

 パタン、と乾いた音が病室に響く。

 目を閉じ、長く息を吐く。

 そして、ゆっくりと天井を仰いだ。

 ルシアンはその間、一度もリリアへ目を向けることはなかった。

 精霊王の許可を得て結界の中へ入り、眠るセレナの傍らへ跪く。

 その手を両手で優しく包み込み、自らの額へと当てていた。

 まるで、一日も早く目覚めてほしいと祈るように。

 病室には静かな時間だけが流れていく。

 やがてリリアは目を開け、ルシアンへ視線を向けた。


「……読むか」


 短い問いだった。

 しかし、返事はない。

 ルシアンは微動だにせず、ただセレナの手を握り続けている。

 沈黙だけが病室を支配した。

 どれほどの時間が流れただろうか。

 姿勢一つ崩さず、セレナの傍を離れようとしないルシアンを見て、リリアは小さく舌打ちした。


「ちっ……」


 精霊王から結界の出入りを許されていたリリアは、そのまま結界の中へ足を踏み入れる。

 そして躊躇なくルシアンの肩を掴むと、力任せに後方へ引き剥がした。


「何をする!」


 ようやくルシアンが声を荒らげる。

 その瞬間。

 リリアは日記帳を彼の胸へ突き付けた。


「読め」


 有無を言わせぬ一言。

 ルシアンは目を丸くし、リリアを見上げた。


「いや……いくらセレナがこんな状態だからといって、勝手に淑女の秘密とも呼べるものを読む趣味はない」


 ルシアンは本当は見たいという気持ちを押し殺し、紳士として振る舞おうと日記帳を押し返し、顔を背けた。


「セレナも、殿下なら許してくれるだろう」


 リリアの言葉に、ルシアンは大きく目を見開いた。

 それは世辞でも慰めでもない。

 日記を読ませるための方便でもなかった。

 リリアはそのような回りくどいことを口にする人間ではない。

 だからこそ、それが紛れもない本音なのだと理解し、驚いたのだ。


「その日記を読んだ上で決めろ」


 リリアは静かに続ける。


「いつ目覚めるとも分からないセレナの傍で、ただそうして寄り添い続けるのか」


 一拍置き、真っ直ぐルシアンを見据えた。


「それとも、私と共に予定通り学院へ行くのか」


 ルシアンはしばらく日記帳を見つめていた。

 やがて静かに受け取ると、小さく呟く。


「……ごめん」


 誰に向けた謝罪なのかは、自分でも分からなかった。

 そっと日記帳を開く。

 ページをめくる度に、ルシアンの肩は小刻みに震えた。

 目には涙が滲み、眉間には深い皺が刻まれる。

 時折、目を閉じて物思いに耽り、何かを噛み締めるように息を整えてから、再びページをめくる。

 それを何度も繰り返した。

 やがて最後のページを閉じると、リリアと同じように長く息を吐く。

 ゆっくりと顔を上げたルシアンは、溢れそうになる涙を懸命に堪えていた。


「アルフレッド殿下とレオンハルトのことは覚えているか」


 タイミングを見計らったように、リリアが尋ねた。


「ああ、覚えている。レオンハルトとお前にはよく虐められた。それに、アルフレッドは特にセレナと仲が良かったからな」


 リリアはその恨み言を軽く聞き流した。


「なら、その二人の説明は不要だな」


 ルシアンは、リリアが昔話をしたいわけではないことくらい理解していた。

 それでも、こうもあっさり昔の恨みを流されると少し思うところはあった。

 だが、言い返したところで聞き入れられないことも分かっている。

 ルシアンは小さく肩を竦め、黙って続きを待った。


「エミリア・ローゼンについては、殿下と再会した直後に話したな」

「ああ。君とセレナの父親の私生児だろう」

「その通りだ」


 リリアは頷く。


「それから、日記に出てきたカイン、ユリウス、フェリクスも、殿下がヴァルハイン帝国へ渡った後に知り合った幼馴染だ」


 リリアはルシアンの知らない人物について、簡潔に説明を始めた。


「カインは魔導士の名門エルドレッド家の次男。ユリウスは宰相の息子。そしてフェリクスは、殿下が帝国へ渡ってから数日後、落ち込んでいたセレナを外へ連れ出した際、偶然見つけた孤児だ」


 一度言葉を切る。


「王都で盗みを働いていたところを私が捕らえた。だが、セレナが彼を哀れみ、そのまま従者として引き取った」


 ルシアンは静かに耳を傾ける。


「カインは優秀な魔導士だったが、天才と称えられる兄と比べられ続け、自信を失っていた。月涙花を咲かせることができれば、父も周囲も自分を認めてくれるかもしれない――そう信じ、セレナは最後まで彼に寄り添い続けた」


 リリアは続ける。


「ユリウスの父は厳格な宰相として有名だった。セレナが子どもらしく遊ぶことや、同年代の友人と過ごす大切さを説かなければ、今のユリウスはいなかっただろう」


 そして、最後にフェリクスの名を口にする。


「フェリクスは、先ほど街で会った男だ」


 リリアの声音が一段低くなった。


「セレナに拾われ、育てられ、従者となった男。そして、主を守ることができなかった男だ」


 その一言だけで、リリアの評価は十分に伝わった。

 リリアが突然、幼馴染たちについて丁寧に説明し始めた意図を、ルシアンは理解していた。


「リリア」


 ルシアンは静かに口を開く。


「君の狙いは分かっている」


 リリアは何も言わない。


「日記を読んだ上で決めろと言ったが、本当は俺を学院へ行かせたいんだろう」


 二人の視線が交わる。

 無表情なリリアだったが、その瞳だけが僅かに柔らいだように見えた。


「ああ」


 短く頷く。


「殿下には、私の隠れ蓑になってもらいたい」


 隣国の皇子を当然のように利用しようとする。

 そんなことを臆面もなく口にできる人間は、恐らくリリアくらいだろう。

 ルシアンは思わず苦笑した。


「つまり、俺は何をすればいい?」

「セレナは最高位の魔導師だ。だが、私はフィジカル強化魔法しか使えない」


 リリアは淡々と続ける。


「だから、セレナを演じる私の代わりに表へ立ってくれ」


 セレナはあらゆる属性魔法を操り、上位魔法すら扱う天才だった。

 一方、リリアが扱える魔法はフィジカル強化のみ。

 突然魔法が使えなくなれば、学院中が不審に思うだろう。

 だからこそ、ルシアンには”セレナを守る騎士”として立ち回ってもらう必要があった。


「事故の後遺症で誤魔化すこともできる」


 リリアは静かに言う。


「だが、それでは学院の外で余計な詮索を招く。裏切り者の始末を終えるまでは、余計な火種は増やしたくない」


 その言葉に迷いはなかった。

 ルシアンは改めて思う。

 彼女を突き動かしているものは、いつだって一つしかない。

 セレナだ。


「……分かった」


 ルシアンは小さく笑う。


「手を貸そう」

「助かる」


 リリアも短く返した。


「なら、呼び方も昔に戻さないとな」


 リリアは顎に手を当てる。


「セレナのふりをするなら……『ルー』か」


 リリアが何気なく口にする。


「……やめてくれ」


 ルシアンは肩を震わせた。


「ほら見ろ。鳥肌が立った」


 腕をさすりながら露骨に顔をしかめる。


「失敬な奴だな」


 リリアは呆れたように言った。


「約十年ぶりの再会なんだ。セレナなら敬称で呼んでも不自然じゃないだろ」

「いや、でもアルフレッド殿下も殿下だから被るじゃん」


 リリアが真顔で返す。


「なら、ルシアンでいい」

「ルシアン様……か。それなら、まあ、セレナらしいな」


ルシアンは「それでいい」と頷いた。


「先に言っておく」


 リリアは静かに告げる。


「私は学院へ行っても、セレナのように奴らへ情けを掛ける気はない」


 一切の迷いなく続けた。


「危害を加えようとすれば、容赦なく叩きのめす」


 その言葉に、ルシアンは小さく息を吐く。


「……俺が止めると思っているのか?」


 真っ直ぐリリアを見据えた。


「俺が、もっと早くアルヴェリアへ来られていれば……」


 その声には悔恨が滲んでいた。


「セレナは、あそこまで追い詰められることはなかった」


 拳を強く握り締める。


「今さら綺麗事を言うつもりはない」


 そして、静かに言い切る。


「セレナを傷つけた者を庇うつもりなど、俺にはない」

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