24
リリアは病室の椅子に腰掛けたまま、静かに日記帳を閉じた。
パタン、と乾いた音が病室に響く。
目を閉じ、長く息を吐く。
そして、ゆっくりと天井を仰いだ。
ルシアンはその間、一度もリリアへ目を向けることはなかった。
精霊王の許可を得て結界の中へ入り、眠るセレナの傍らへ跪く。
その手を両手で優しく包み込み、自らの額へと当てていた。
まるで、一日も早く目覚めてほしいと祈るように。
病室には静かな時間だけが流れていく。
やがてリリアは目を開け、ルシアンへ視線を向けた。
「……読むか」
短い問いだった。
しかし、返事はない。
ルシアンは微動だにせず、ただセレナの手を握り続けている。
沈黙だけが病室を支配した。
どれほどの時間が流れただろうか。
姿勢一つ崩さず、セレナの傍を離れようとしないルシアンを見て、リリアは小さく舌打ちした。
「ちっ……」
精霊王から結界の出入りを許されていたリリアは、そのまま結界の中へ足を踏み入れる。
そして躊躇なくルシアンの肩を掴むと、力任せに後方へ引き剥がした。
「何をする!」
ようやくルシアンが声を荒らげる。
その瞬間。
リリアは日記帳を彼の胸へ突き付けた。
「読め」
有無を言わせぬ一言。
ルシアンは目を丸くし、リリアを見上げた。
「いや……いくらセレナがこんな状態だからといって、勝手に淑女の秘密とも呼べるものを読む趣味はない」
ルシアンは本当は見たいという気持ちを押し殺し、紳士として振る舞おうと日記帳を押し返し、顔を背けた。
「セレナも、殿下なら許してくれるだろう」
リリアの言葉に、ルシアンは大きく目を見開いた。
それは世辞でも慰めでもない。
日記を読ませるための方便でもなかった。
リリアはそのような回りくどいことを口にする人間ではない。
だからこそ、それが紛れもない本音なのだと理解し、驚いたのだ。
「その日記を読んだ上で決めろ」
リリアは静かに続ける。
「いつ目覚めるとも分からないセレナの傍で、ただそうして寄り添い続けるのか」
一拍置き、真っ直ぐルシアンを見据えた。
「それとも、私と共に予定通り学院へ行くのか」
ルシアンはしばらく日記帳を見つめていた。
やがて静かに受け取ると、小さく呟く。
「……ごめん」
誰に向けた謝罪なのかは、自分でも分からなかった。
そっと日記帳を開く。
ページをめくる度に、ルシアンの肩は小刻みに震えた。
目には涙が滲み、眉間には深い皺が刻まれる。
時折、目を閉じて物思いに耽り、何かを噛み締めるように息を整えてから、再びページをめくる。
それを何度も繰り返した。
やがて最後のページを閉じると、リリアと同じように長く息を吐く。
ゆっくりと顔を上げたルシアンは、溢れそうになる涙を懸命に堪えていた。
「アルフレッド殿下とレオンハルトのことは覚えているか」
タイミングを見計らったように、リリアが尋ねた。
「ああ、覚えている。レオンハルトとお前にはよく虐められた。それに、アルフレッドは特にセレナと仲が良かったからな」
リリアはその恨み言を軽く聞き流した。
「なら、その二人の説明は不要だな」
ルシアンは、リリアが昔話をしたいわけではないことくらい理解していた。
それでも、こうもあっさり昔の恨みを流されると少し思うところはあった。
だが、言い返したところで聞き入れられないことも分かっている。
ルシアンは小さく肩を竦め、黙って続きを待った。
「エミリア・ローゼンについては、殿下と再会した直後に話したな」
「ああ。君とセレナの父親の私生児だろう」
「その通りだ」
リリアは頷く。
「それから、日記に出てきたカイン、ユリウス、フェリクスも、殿下がヴァルハイン帝国へ渡った後に知り合った幼馴染だ」
リリアはルシアンの知らない人物について、簡潔に説明を始めた。
「カインは魔導士の名門エルドレッド家の次男。ユリウスは宰相の息子。そしてフェリクスは、殿下が帝国へ渡ってから数日後、落ち込んでいたセレナを外へ連れ出した際、偶然見つけた孤児だ」
一度言葉を切る。
「王都で盗みを働いていたところを私が捕らえた。だが、セレナが彼を哀れみ、そのまま従者として引き取った」
ルシアンは静かに耳を傾ける。
「カインは優秀な魔導士だったが、天才と称えられる兄と比べられ続け、自信を失っていた。月涙花を咲かせることができれば、父も周囲も自分を認めてくれるかもしれない――そう信じ、セレナは最後まで彼に寄り添い続けた」
リリアは続ける。
「ユリウスの父は厳格な宰相として有名だった。セレナが子どもらしく遊ぶことや、同年代の友人と過ごす大切さを説かなければ、今のユリウスはいなかっただろう」
そして、最後にフェリクスの名を口にする。
「フェリクスは、先ほど街で会った男だ」
リリアの声音が一段低くなった。
「セレナに拾われ、育てられ、従者となった男。そして、主を守ることができなかった男だ」
その一言だけで、リリアの評価は十分に伝わった。
リリアが突然、幼馴染たちについて丁寧に説明し始めた意図を、ルシアンは理解していた。
「リリア」
ルシアンは静かに口を開く。
「君の狙いは分かっている」
リリアは何も言わない。
「日記を読んだ上で決めろと言ったが、本当は俺を学院へ行かせたいんだろう」
二人の視線が交わる。
無表情なリリアだったが、その瞳だけが僅かに柔らいだように見えた。
「ああ」
短く頷く。
「殿下には、私の隠れ蓑になってもらいたい」
隣国の皇子を当然のように利用しようとする。
そんなことを臆面もなく口にできる人間は、恐らくリリアくらいだろう。
ルシアンは思わず苦笑した。
「つまり、俺は何をすればいい?」
「セレナは最高位の魔導師だ。だが、私はフィジカル強化魔法しか使えない」
リリアは淡々と続ける。
「だから、セレナを演じる私の代わりに表へ立ってくれ」
セレナはあらゆる属性魔法を操り、上位魔法すら扱う天才だった。
一方、リリアが扱える魔法はフィジカル強化のみ。
突然魔法が使えなくなれば、学院中が不審に思うだろう。
だからこそ、ルシアンには”セレナを守る騎士”として立ち回ってもらう必要があった。
「事故の後遺症で誤魔化すこともできる」
リリアは静かに言う。
「だが、それでは学院の外で余計な詮索を招く。裏切り者の始末を終えるまでは、余計な火種は増やしたくない」
その言葉に迷いはなかった。
ルシアンは改めて思う。
彼女を突き動かしているものは、いつだって一つしかない。
セレナだ。
「……分かった」
ルシアンは小さく笑う。
「手を貸そう」
「助かる」
リリアも短く返した。
「なら、呼び方も昔に戻さないとな」
リリアは顎に手を当てる。
「セレナのふりをするなら……『ルー』か」
リリアが何気なく口にする。
「……やめてくれ」
ルシアンは肩を震わせた。
「ほら見ろ。鳥肌が立った」
腕をさすりながら露骨に顔をしかめる。
「失敬な奴だな」
リリアは呆れたように言った。
「約十年ぶりの再会なんだ。セレナなら敬称で呼んでも不自然じゃないだろ」
「いや、でもアルフレッド殿下も殿下だから被るじゃん」
リリアが真顔で返す。
「なら、ルシアンでいい」
「ルシアン様……か。それなら、まあ、セレナらしいな」
ルシアンは「それでいい」と頷いた。
「先に言っておく」
リリアは静かに告げる。
「私は学院へ行っても、セレナのように奴らへ情けを掛ける気はない」
一切の迷いなく続けた。
「危害を加えようとすれば、容赦なく叩きのめす」
その言葉に、ルシアンは小さく息を吐く。
「……俺が止めると思っているのか?」
真っ直ぐリリアを見据えた。
「俺が、もっと早くアルヴェリアへ来られていれば……」
その声には悔恨が滲んでいた。
「セレナは、あそこまで追い詰められることはなかった」
拳を強く握り締める。
「今さら綺麗事を言うつもりはない」
そして、静かに言い切る。
「セレナを傷つけた者を庇うつもりなど、俺にはない」




